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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第87回】

一世 この代が まめなように  「令和」に空しい願いと知りながら

 「中国地方の子守歌」の一節〝まめなよに〟の〝まめ〟の言葉と歌詞が示すものはおそらく、近代日本の先人が築いた勤勉・努力、忍苦・精励を簡潔に表す字句、情景だったと思われる。いずれも平成の世では全く顧みられなかった。
 国際社会が変動し、日本も安逸に浸る時代は過ぎたが、次なる「令和」の時代に社会の在り方を根底から見直すのは空しい願いと思わざるをえない。

〝まめ〟をどう解釈すべきか

 他誌の原稿のために、山田耕筰について調べる機会があった。

 主題は彼の初期のピアノ曲。それも多少は世間に知られている自作・他作の著名な歌曲の旋律による変奏曲などではなく、より初期の習作的小品だったが、そちらより日本初の交響曲であるヘ長調「かちどきと平和」をはじめとするオーケストラ曲や室内楽曲など日ごろ愛聴するCDや、久しぶりだが耳に馴染んだ歌曲の数々に目が移りがちなのは、避け難い。原稿を書きながら聴くともなく手元のCDを取っ替え引っ替えしていて、「中国地方の子守歌」、あの〝ねんねこ しゃっしゃりませ〟に始まる歌詞が、妙に気になってきた。〝いっしょ この子が ねんころろ まめなよに〟の、その〝まめ〟をどう解釈すべきか、という問いに思い至ったのだ。

 昭和三=一九二八年に、山田が友人のテノール歌手から、郷里岡山の美作地方に伝わる古謡だと教わって採譜・補作したこの曲の歌詞は、〝寝た子の可愛さ〟〝起きて泣く子の面憎さ〟というのだから、母親がわが子のために歌った子守歌ではないだろう。母親に抱かれていたのなら、起きた子は泣く前にまず母親に笑いかけるはずだ。仮に寝起きが悪くてむずかったとしても、それはそれで母親は可愛らしく思うに違いない。月足らずで帝王切開で生まれた孫を、嫁もろとも病院から当家に直行させ、肥立ちを二か月ほど見守った体験に照らすと、寝起きの赤ン坊が真っ赤な顔をして手足を振り回しながら大きな声で泣けば泣くほど、ここまで力強く育ってきたのか、と喜ぶのが親であり爺婆なのだ。

女児年少労働の一般的な姿

 この歌は住み込み奉公をしている、自身まだ少女の子守の気持ちを歌ったものに違いない。同じ山田耕筰の「赤とんぼ」は〝ねえやは十五で嫁にゆき お里のたよりも絶えはてた〟と歌う。作曲したのは昭和二=一九二七年だが、詩は明治二三=一八八九年に生まれた三木露風が、七歳(数え年だからいまなら五歳か六歳)のときの記憶に基づくとされている。そこから類推すれば、〝子守歌〟の主はそれよりもやや少ない年ごろだったと見ていい。一五、いまなら満一三歳で嫁にいくのなら、それより前の満一一歳か満一二歳あたりが、住み込みの子守という女児の年少労働の、ごく一般的な姿だったのではないか。

 当時の小学校は〝八つあがり〟、つまり満六歳で入学していた。早生まれは四月一日の入学時点で早くも満六歳に届くから〝七つあがり〟と呼ばれたが、発育期間が短いぶん、下級生のころにはハンディがあった。

 義務教育は四年制。六年制になったのは、昭和天皇が学齢に達した明治四一年からだ。幼い三木露風を負ぶった〝ねえや〟は満一〇歳で小学校を出て、貧しい家の娘の常として〝口減らし〟のために多くの弟妹を家に残して親元を離れ、ふつうなら三年ほどの年季奉公で、住み込みの子守に出されていたのだろう。住み込みを始めるとき〝支度金〟と称する一時金を親が受け取ったのを別とすれば、子守に給金はなく多少の小遣い銭が出れば厚遇のほうだった。親が雇い主に約束した年季を無事に務めあげれば、国元に帰って親が決めた先に嫁ぐのが通例だ。それなら背中で静かに眠っていた子が目覚めて火がつくように泣き出したり、まして暴れ出したりしたら、面憎く思ってもなんの不思議もない。

 余談を加えれば、姉妹が子守に出る年齢で男児は丁稚奉公に出される。多少は仕事に慣れてくれば小僧と呼ばれるようになり、おおだな、大きな店に勤めていれば、二〇になって徴兵検査を終えた時点で、一人前の商家の雇い人として扱われるようになる。三〇前後になって才覚が認められれば、いまの課長クラスに相当する手代の身分になる。さらに出世すれば特定の部門を仕切る部長級の番頭、オーナーに代わって経営の采配を振るう大番頭になる。あるいは暖簾分けと呼ばれる、いまふうにいえば系列店の店主になったり、主家を離れて独立独歩の商人になったりした。 

「忠実・誠実」「勤勉・精励」「健康・達者」

 「中国地方の子守歌」に戻って、この歌詞は二節で〝今日は二五日〟で〝明日はこの子の宮参り〟だと続く。三節では〝宮に参ったとき なんというて拝むか いっしょこの子が ねんころろ まめなよに〟と結ぶ。自分が背負う赤ン坊は他家の子に過ぎないけれども、それでも袖すり合うも他生の縁。生涯を〝まめ〟に暮らしていけるように、と歌うのだが、問題はその〝まめ〟の解釈だ。

 たいていの国語辞典、古語辞典には、〝まめ〟の第一義は忠実・誠実、次には勤勉・精励、そして最後には健康・達者、と並べてある。その語義の、さて、どれが正解なのか。

 一般的には、少なくとも戦後日本の社会一般では、生涯この子が達者に暮らすように、健康であるように、と解釈しているのではないか。義務教育教科書や鑑賞教材にこの曲が入っている例が多いかどうか、音楽教育の現場事情に疎い筆者は知らないが、仮に入っているとしたら、無難な感じもあって、たいていの教師はこう説明しているのだろうな、という気がする。教師のアンチョコである学習指導要領の手引書も、まあ、この線でお茶を濁しているに違いない。

 それはそれとして、最近増えている日本歌曲をプログラムの中心に据える声楽家、あるいはそうでなくても、地方ホールの年中行事である〝市民コンサート〟あたりでアンコールにこの曲を歌うことが多い歌い手は、この〝まめなよに〟をどう解釈し、どのような思いを籠めて歌っているのか。

 大詩人の作品に付曲されていることが多いドイツ・リートやフランスのメロディなどを歌う場合、歌詞の含蓄を正確に読み取って的確に表現することは、仮にも声楽家を名乗るプロの歌手にとって絶対条件だ。そこにこそ芸術家としての解釈の核心、歌唱の神髄がある、とされている。ウイーン訛り、バイエルン風の発音のドイツ語や、アルプスに向けて緩やかに登る高地地方のフランス語、アンダルシア地方のスペイン語の歌詞なら、その地方独特の発音に従って詞を生かすことも求められる。それなら方言を使った日本語の古謡を歌う場合も同様だろう。万事が甘ったるくなった世相に合わせた、平俗な解釈で漫然と歌っていい道理はない。

自分も泣きたい気持ちをこらえ

 という点は、この稿を書こうと思って考えをまとめる過程で後講釈よろしく出てきた理屈だ。正直にいって筆者も、この点について深く考えたことはなかった。正味六三年余の〝昭和〟の大半の五八年を生き、三五年ほどは人並み、あるいはそれ以上に働いたあと、余生と観念して送った〝平成〟の正味三〇年余が終わろうとするいま、来し方行く末を思う中で、はたとわれとわが膝を打つ感じで浮かんできたのが、以下の〝解釈〟だ。

 あの〝まめ〟は、健康とか達者とか、そんな安直・平板なものではなかったのではないか。いたいけな少女が小さい背中に自分の体重の少なくとも三割か四割、時には半分にもなろうかという重さの、縁もゆかりもない赤ん坊を仕事として負ぶって、ときにはその子が大声で泣いて暴れるのに、自分も泣きたい思いになるのをじっとこらえながら、つくづく抱いた心情を、歌ったのではなかったか。

 いまは一日中自分の背中にいて、まどろんだり、泣いたりしているこの子は、たまたま恵まれた境遇に生まれてきたが、これから先の長い人生には、どんな辛い境遇が待ち受けていないとも限らない。たとえそうなったとしても、いま子守の自分がそうしているように、この子も置かれた境遇に耐えて、勤勉・誠実に生きていってほしい。こう半ばは背中の子のため、半ばは背負っている自分のために、祈りを込めて歌ったのではないのか。

 そう解釈し、正しいテンポと発声で歌ってはじめて、あの一見素朴な旋律の中に込められた哀しさと、しかしどこか突き抜けた感じを表現した、芸術歌曲の歌唱になると思ったのだが、それと関連して、どうも「平成」の世の中では、〝まめ〟とか、勤勉・努力、忍苦・精励といった言葉が忘れ去られ、死語になってしまったというほかない状況に陥っているのではないか、という思いがある。

時代とともに語彙を費やす必要

 水田稲作農業中心の日本の社会は、田の草取りを典型とする勤勉と、水引き・水分けが中心の協業を、基本にして営まれてきた。協業は集団の中で一人でも怠けていたら成り立ない。勤勉と精励、民衆の日常用語でいえば〝まめ〟な性格や身のこなしは、太古から日本の民族性の根幹であり、〝まめ〟と、それを背後で支える〝つましさ〟は、古来日本人の自然な心性の現れだったことは明らかだ。

 そうした心得は、たぶん近代国家として日本が歩み出す明治創業のころまでは、互いに口に出さなくても通じる、常識であり、社会通念であり、作法であり、人格の基本だったに違いない。それが崩れたのは〝文明開化〟につれて〝明治人〟の一部の子女が、親たちが勤勉・辛苦の結果掴んだ豊かさを踏み台にして、〝現代人〟らしい安逸をひけらかしはじめた時期からだったのではないか。明治二三=一八九〇年の「教育勅語」では〝恭倹己レヲ持シ〟のたった一項目の七字だけで〝まめ〟と〝つましさ〟を説き、意図が万民に通じていた。それが一八年後の「戊辰詔書」では、〝忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去リ実ニ就キ荒怠相戒メ自彊息マサルヘシ〟と、九項目四五字を費やして細かく説明しなければならなくなった。

 さらに第一次世界大戦で疲弊する欧州を横目に、アメリカとともにたいした犠牲を払わずに〝戦勝国〟の一角を占め、一部に浮利を掴んだ〝成り金〟が出ただけでなく、彼らの驕奢を真似たプチブル家庭の若者がモボ・モガぶりを謳歌する世相の中で突発した、大正一二=一九二三年の関東大震災を受けた「国民精神作興ニ間スル詔書」に至っては、

 〝浮華放縦ノ習漸ク萌シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス〟状態なので〝綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡励シ浮華放縦ヲ斥ケテ質実剛健ニ趨キ軽佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制ヲ尊ヒ忠孝義勇ノ美ヲ掲ケ博愛共存ノ誼ヲ篤クシ入リテハ恭倹勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテ力ヲ公益世務ニ竭シ以テ国家ト興隆ト民族ノ安栄社会ノ福祉トヲ図ルヘシ〟

 と、伝統的な徳目のフル・メニューを並べなければならない状態に立ち至ったのだ。

 こうした勅語・詔勅による社会教化・教育的指導の手法を、敗戦後にはびこり続ける左翼史観は、天皇制に由来する超上から目線の威圧のように言い募る。しかし必ずしもそう単純な話ではなかろう。

 関東大震災を受けた「国民精神作興詔書」に限れば、外からはアメリカ西岸・シナ大陸の排日運動とアメリカが原発の金融恐慌、内にあっては東北冷害・農村恐慌と真偽を取り混ぜた疑獄騒ぎ、といった状況のもとで起きた国粋主義的気風や、さらにヒトラー・ナチの登場に刺激された陸軍中心の軍部幕僚の政治的暴発にも、それなりに影響を及ぼしていたといえるのかもしれない。しかしそれはそれとして、この種の詔勅には、当時の世情に照らして、中央集権だった地方・警察・教育行政が吸い上げた社会の基盤をなしている良識派の国民の声を、宮内官僚が枢密院や政府などと意を通じて詔書の文体に纏めて、政治的文書にしたという印象もあった。当然のことながら保守的だが、それなりに世論の反映もないわけではなかったといえよう。

 敗戦に伴って、戦時下を裏返したアメリカニズムの流行と左翼思想の横行があった。しかし、それは社会の上っ面を流れ去っただけの話であって、ほとんどの日本人の本質は、この時点ではたいして変わっていなかった。一面が焼け跡だった昭和二一=一九四六年の日本の年間一人当たりの国民所得は、たったの五〇ドルだったとされる。世界の最貧国のレベルに落ちた日本を、というよりその日本で生きざるをえない自身の暮らしを、再建し復興しようとする国民の〝まめ〟に徹した努力が、僅か二〇年余の短期間で日本をアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に押し上げたのは、否定する余地のない明白な事実だ。

八〇年代からの弛緩・驕慢

 その〝まめ〟を当然とする意識が変わったのは昭和五〇年代後半、西暦でいえば一九八〇年代に入ったころからだったろう。その表象が高度成長が行き着いた先のバブルであり、その背景が物質的に豊かになった状態に狎れきった、多くの経済人から現役サラリーマン・若者にも至る、弛緩・驕慢にあったことは、これまた否定すべくもない。

 その根源には、敗戦直後にアメリカが日本を弱体化させる目的で占領政策の一環として持ち込んだ、明治五=一八七二年の〝学制頒布〟いらいの日本の教育を制度面から基本精神に至るまで、完全に否定してアメリカ型の六三三四制に強制的に変換させた点がある、と指摘しなければならない。プラグマティズム教育という、あられもないその呼称が示しているように、効率・利用価値・利益追求といった実用面に特化したアメリカ型教育に浸りきって育った世代が、社会の各分野で中核的な存在になったことが、日本の社会風土の劣化に大きく作用したと思われる。

 言い換えると、昔から戦前教育までは綿々と引き継がれた〝まめ〟と〝つましさ〟、すなわち〝恭倹〟をモットーとする価値観とはまったく異質の、楽をしながら目に見える成果をあげるのを最高とする感覚が、社会全般を律するようになったのが、致命的だったのではないか、ということになる。

自画自賛の「平成」総括

 本誌の読者は先刻ご承知だろうが、筆者は昨年はじめから、二度にわたって当欄で「平成」を「昭和」と対比させながら評価する短期連載を試みた。その中で「昭和」を、戦争と敗戦に集約される悲惨を抱える一方、少なくとも戦後に関しては〝栄光と成就の時代〟だったと、当節俄に流行し出した「万葉集」の巻六、昔から最も広く知られた歌である山上憶良の

 御民われ 生くる験あり あめつちの 栄ゆるときに遇へらく念へば

 を引用して述べ、それにひきかえ「平成」は〝怠惰とミーイズムの時代〟と特色づけるほかなし、と断じた。

 一回目の連載当時は、新聞・テレビに「平成」を総括的に回顧し評価する試みは、ほとんど見られていなかった。しかしその後半年ほどしたら、遅ればせながら、という感じで「平成もの」が現れたと思うと、これでもかとばかりの頻度とスペース・時間をとった、これも「平成」の特徴の一つのメディア・スクラムの奔流となり、果ては歳末・正月・大相撲の本場所興行をはじめとする催事やバーゲンセールまでが「平成最後」を謳う、バカバカしい騒ぎになった。

 新聞・テレビの「平成もの」は、例外なく世が世なら上に立つ存在の〝徳〟が問われかねなかった大自然災害の多発や、政治・経済の指導層の責任論が出て当然の〝失われた二〇年〟、オウム真理教のテロやオレオレ詐欺の横行を典型とする特異犯罪の出現など、多くのマイナス面には目をつぶって、国際化・情報化・多様化・個別化、あるいは寛容・自由といったキーワードを並べ立てる、自画自賛・自己満足・自己弁護一色になっている。

 それには今回の〝お気持ち譲位〟から「令和」という意味不明の元号の登場に至る一連の出来事が、崩御・大喪、あるいは諒闇・践祚といった本来の姿ではない、平時のままの一種のお祭り的行事として行われたことも、影響しているだろう。現に新聞・テレビの紙面・番組づくりに当たる世代はほぼ全員が、物質的には豊かで有り余った「平成」の時代しか知らず、戦争・敗戦・飢餓・窮乏・困苦とも無縁なら、奮起・勤勉・努力もほぼヒトゴトで育った面も反映しているはずだ。

ソビエト崩壊と重なった影響

 「平成」のはじまりがソビエトの崩壊と重なっていた偶然も、見落とせまい。日本に限らず、世界全体に共通することだが、ソビエト国家が成立する前の一九世紀後半からの一世紀半、額に汗する勤労を人間の価値観の根底に置くマルクス主義は、多くのインテリにとって思想的な指針だった。反マルクス主義にしても、その逆張りで成立しえたのだ。

 それがソビエト崩壊・東側共産圏の消滅で覆った。同時に古来続いてきた農耕社会に代わって一七世紀いらい人類社会の基盤だった機械文明が、情報機器文明にとって代わられた。ひところの流行語を使えば、産業社会が背後に押しやられて情報社会になった。

 それに伴ってさまざまなパラダイム・シフトつまり価値観の転換が起きた。というが、実はそれは建前というものであって、かつては有言無言は別としてマルクス主義に依拠していた団体や個人が、そのままでは社会的影響力を失ってしまうと考え、それまではボルシェヴィキの鉄の統制を乱すとして毛嫌いしていたリベラルを、仮装の衣装として使いはじめただけでなく、リベラルの旗を掲げつつ主張の中身をじりじりと持ち前の左翼的な思考回路に引きずり込みはじめた。

 リベラルが自主・自律・自己責任で裏打ちされていることは自明の理だが、左翼が化けた似非リベラルには、そうした心得はまったくない。それどころか、自主には依存、自律には不法、自己責任には責任回避を置き換えたうえに、さらに政治的正当性・ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレを主張して、「昭和」の一時期に左翼が流行させて猛威を振るった〝言葉狩り〟、あるいは古くは同じ「昭和」でも戦前・戦中に暴威を欲しいままにした〝非国民呼ばわり〟に等しい、言論表現・思想信条の自由の侵害行為までを、正当化しようとしているのだ。

 その典型が、欧米では〝不法移民〟への対応で、そもそも〝不法〟とアタマについているのだから取り締まりの対象になって当然であるにも拘わらず、なにか立派な行為であるかのように扱われている。少なくとも、褒められることとはいえないとしても、圧制や暴虐・貧困から脱出するための自衛的・緊急避難的な正当行為であって、取り締まる側が非難されるべき問題であるかのように、メディアなどでは取り上げられている。

 「平成」の日本の場合は、そこまでの異常事態が近隣で表面化しなかったこともあってこの種の混乱は起きていないが、筆者がかねがね指摘してきたところの〝ミーイズムと怠惰〟の反映として、本来なら非難されるべきことがらが非難されず、逆に非難などすれば批判が雨霰と降りかかってくるという、まるであべこべの状態になっているのである。

先人が築いた国民性の想起を

 〝まめ〟〝つましさ〟が、「平成」の世でまったく顧みられなかった点も、指摘しなければなるまい。それは、一つには「明治」から「昭和」に至る孜々営々たる国民の勤勉努力、ことに敗戦後の復興と成長、一つには先に述べたような戦後教育の欠陥、さらにもう一つには平和呆け、豊かさ狎れ、が反映されていたといわざるをえまい。だがその条件は急速に失われている。少子高齢化は日本経済のスケールを小さくせざるを得ないし、中韓は経済が崩壊に瀕して国内体制も大混乱の一歩前にある。欧米もそれぞれ問題を抱えていて、世界規模で混乱・混迷は深まる一方だ。

 世界はポリコレなど横目に見ながら、生存競争・優勝劣敗・適者生存・自然淘汰に動いている。日本も「平成」のように安逸の中で惰眠を貪る条件は失われつつある。

 「令和」の世は、改めて〝まめ〟と〝つましさ〟という先人が築いた国民性を想起し、社会のあり方を根底から問い直すことが必要になっているのではないか。目の前に展開される上から下までの姿を凝視すると、空しい願い、と思わざるを得ないけれど。

(月刊『時評』2019年5月号掲載)