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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第94回】

饗宴と大水害で幕を開けた〝令和〞

 即位礼と宮中饗宴の前後に相次いだ自然災害は、新しい時代のただならぬ前途を予感させた。この点、災害に対する国土行政のあり方について指摘すべきポイントが五つある。今や〝一億層適応障害〞化している社会において、いずれも厳正な検証と追及が欠かせない視点だ。

始まったばかりで分解に移行

 世紀の変わり目から、天変地異レベルの深刻な自然災害が多発している。阪神淡路に続き中越や鳥取でも起きた大地震は、二〇一一年の三・一一東日本大震災を頂点に、熊本に続いた。その流れが鎮静化したと思ったら、激しい豪雨災害が目立ちはじめた。広島、一昨年には地震に追い打ちをかけるように熊本や福岡などの九州北部、昨年は再び広島と岡山、そして愛媛。今年はまず急襲台風15号が千葉に、続いて巨大台風19号が首都圏中心の関東一円に加えて信越や東北南部などにも、広範囲の大水害を発生させた。
 毎度いうが、昭和は戦乱と崩壊、疲弊と再建、困苦と勤勉と、目まぐるしく変転した。極めて大きなマイナスもあったが、目覚ましいプラスもあった、語弊を恐れずにいえば、コントラストの激しさが特徴の時代だった。立場や態様や程度の差こそあれ、苦難はすべての国民が共有したし、同様に到達点の高低は避け難いにしても、復興・成長の果実は全国民に及んだ。〝一億総中産化〞という表現が、その姿を端的に示した。
 それに引き換え平成は、〝停滞の三〇年〞といわれたように、プラス材料はほとんど見当たらず、緩い下り坂を一貫してずり落ちていった印象だ。平穏・安泰とはいうものの、悦楽と怠惰、無責任と無関心が横行する、総ミーイズムの時代だった。その弛んだ世相を斬り裂くよう
に、オウム真理教の無差別テロや、三・一一の大惨事が起きた。平準化社会は遠い昔の話になり、上層・下層の生活水準の分離と帰属意識の分断が、目に見え音を立てながら、進行していった。
 まだ始まったばかりの令和だが、分離や分断を通り越して分解に向かっている、という印象が拭えない。必ずしも世間に閉塞感が横溢しているとは思わないが、だれもが確たる将来展望を持てず、投げやりになっていて、いみじくも〝一億総適応障害〞状態にあるように見える。上
層は上層で自己規律や公共への貢献を忘れ、庶の庶たる民衆は自らの生活となによりも自立した精神の拠りどころとなる勤勉や努力を捨てて、漫然と漂流しているように思われるのだ。

饗宴と苦難を並べて捉える視点の欠如

 そうした流れを象徴するのか、半年に満たない異例の短かさで定められた践祚から即位礼までの間に、温かみに乏しい冷え冷えした春、極端な炎熱とかつてない渇きの夏、と異常気象が続いた。あげくの果てに、秋の即位礼とそれに伴う恒例の宮中饗宴の日々に前後して、15、19号台風の直撃と20・21号台風の同時遠隔操作的な影響で、東京を中心とした東日本には極めて珍しい、三連発台風による猛風水害が発生した。
 その破壊が、即位礼とその夜の正餐による宮中饗宴の当日を襲った。それは、二日の空白を挟んだ、午餐による略式の二回目の饗宴当日にも繰り返された。そして三日の間を置いた立食による三回目の略式饗宴は、一転して時季外れの氷雨めいた雨が降り続き、洪水が運んだ泥土
にまみれ、水浸しのまま寒さに震える被災者とは対照的な状況で行われた。皮肉なことに、饗宴の合間にはこの一〇月にまったく見ることのなかった秋晴れの日も、二度あったのだ。日程の変更など不可能な最高度の公的行事と、うち続く災害や悪天候との不可思議な暗合は、新し
い時代の只ならぬ前途を予感させ、相応の覚悟を促す心理に導いた、と思わざるを得まい。
 行事と自然現象と巡り合わせが招く偶然の不都合は、祭りや花火、スポーツ大会から企業のイベントまで、必ずしも珍しいことではない。牽強付会なオカルティズムなど論外、という考えかたは、当然あるだろう。ただしその論法で一貫すればいいが、今回は必ずしもそうなっ
ていなかった。
 〝ニュース芸人〞の井戸端会議の場であるテレビは、即位礼に参加した韓国首相が、式典の際の豪雨の止み間のいっときの青空、そこに現れた虹を、得難い瑞兆のように語ったのを、好意的に伝えた。彼の発言意図は、度重なる韓国側の暴挙に堪忍袋の緒を切った日本政府が、国際法に基づいてとった対応措置を、自国に有利な方向で有耶無耶にしようと図る、見え透いたヨイショだと見るべきだろう。しかし新聞の社会面を含めて、そうしたネガティヴな見方は全然見られなかった。むしろ、政治的に対立している韓国の首相がよくいってくれた、といった調子のヨイショの応酬が目立ったのには、呆れ返った。
 もちろん、今回の一連の台風・風水害で七〇以上の河川が一四〇カ所以上で決壊し、一〇〇を超す人命が失われ、八万を上回る住宅が全半壊し、床下も含めればその一〇倍にも達する家屋が浸水被害を受け、多くの道路や鉄道が損壊し、二〇〇〇億円にも迫ろうかという農業被
害が出た事実は、当然ながら新聞もテレビも、大きな扱いで伝えている。しかし、宮廷の華やかな饗宴と風水害による民衆の苦難は完全に別扱いにされ、並べて捉える視点はまったく見られなかった。
 そうした報道・論評の姿勢と、日ごろ〝一強政権〞の中枢に対する官僚の〝忖度〞を激しく非難する新聞・テレビ、そして野党の姿勢には、極端な乖離がある、というほかあるまい。河野太郎防衛相の〝雨男の自分が就任したら、二週間に三つも台風がきて災害出動で自衛隊員に苦労をかけた〞という発言を、朝日・NHKなどの偏向マスコミは大いに叩いて見せた。その尻馬に乗って野党議員も、被災者に対して無神経極まると、国会で居丈高に咎め立てた。しかし被災地に山と積まれて日に日にその量を増す、災害廃棄物の広域処理について、所管する小泉進次郎環境相の対応が大きく遅れをとった失態に関しては、自分たちが虚像を作り出して人気者にしてしまったのを反映したのか、彼が最近テレビの元〝ニュース芸人〞のタレントと結婚して準身内の立場になったたばかりなのを忖度したのか、マスコミはほとんど触れず、そうなると野党も追及しなかった。それどころか、降りしきる冷たい雨の中、泥まみれで喘ぐ被災者を考える気配もなく、国会議員らが招かれた三回目の立食饗宴の場で、〝ここに一堂に会することはまことに喜ばしい〞という新天皇の声に和して、野党議員も与党議員とともに杯をあげていたのだから、世話はない。

慎重であるべきだった〝国際〞の二文字

 即位礼に関しては、別の問題点もある。朝日新聞やそれに追随する偏向マスコミは、高御座や新天皇・皇后はじめ皇族が着用した古式の正装装束、式の進行に不可分の神道的な要素、さらに安倍首相が参列者を先導して唱えた「天皇陛下萬歳」三唱を咎めて、憲法の政教分離原則や国民主権に照らして疑義がある、と主張した。そして毎度登場する左派の〝学者・文化人〞を動員して、常日頃の〝皇室ネタ〞の商業利用とはまったく正反対の、批判的論調を並べ立てた。
 筆者は、それら一連の式典のあり方は皇室のそもそもの成り立ちにかかわるとともに、最高レベルのフォークロア的要素を備えた、まったく問題とするに及ばないものであるうえに、これなくして日本という国と日本民族の特質を示すことができない、式典の核心をなすものだと
考える。一方で、憲法との整合性を問うのなら、平成の後半から取り立てて顕著になった傾向だが、〝世界の平和〞〝我が国の繁栄〞をことさら強調する文脈に加えて、今回の即位宣明に〝国際〞の二文字を取り込んだ点のほうが、「国政に関する権能を有しない」(憲法四条)天皇として、慎重にあるべきではなかったのか、と考える。
 荒廃と貧困の極にある敗残の小国だった現行憲法の採択当時は、〝世界の平和〞や〝我が国の繁栄〞は、必ずしも政治的とはいえない、ごく一般的な国民感情だったし、当然の目標でもあった。東西冷戦の解消と時を同じくして始まった平成の前半には、すでに〝我が国の繁栄〞
は実現していて、そうした外的条件に適う社会と国民の内的成熟が求められる時期に入っていたのだから、言わずもがなの感が拭い難かったものの、〝世界の平和〞なら冷戦終結の時宜に適した、一般的な希望の表明といえないものでもなかった。
 しかし現在は、いうまでもなく米中、イスラム世界とキリスト教由来の西欧型自由民主主義政治・市場経済社会との対立が激化する状況下にあって、〝平和〞の一語も極めて政治的な含蓄を持つ情勢になっている。〝我が国の繁栄〞にしても、自国ファースト主義がとかく摩擦を生んでいる時代相に照らせば、一定の政治的刺激を孕む表現と受け取られかねない面があることは、否定できまい。
 〝国際〞に至っては、憲法七二条が内閣の「一般行政事務」とは別の次元で、「外交関係を処理すること」を専権事項と特記している点に照らして、また憲法七条が「天皇の国事行為」を「外国の大使及び公使を接受すること」に限定して、天皇や皇室が政治と不可分の関係にある国際的行為にかかわることを強く制約している点に照らして、極めて抑制的に対応されるべき問題と見るほかない。
 テレビの〝ニュース芸人〞や女性週刊誌がしばしば使う〝皇室外交〞など、閣議の承認を経た国際儀礼上の非政治的な交流や、内廷費を使った皇室による私的な王族社交ならともかく、それ以外はあってならないとするのが、憲法秩序というものだろう。新皇后の出自や履歴を
考慮すれば、この点はより厳格に配慮されるべきだと思うが、この面で宮内庁や外務省の事務方は補佐・補弼の任を十全に果たしているのか、質されるべきだ。

国土管理の改善強化に尽きる

 令和は、これも筆者がいままでしばしば論じてきた通り、必ずしも日本国憲法や、その制定とともに改正された皇室典範が予定していたとは思えない異例の経緯と、異様な(としか筆者には思えない)キラキラ・ネーム的な元号のもとで、異常な天変地異の中での一連の即位行事が行われた、というほかない。これらの諸点から、今後の令和の世は内外多難の時代になると示唆するものではないか、とも案じられるのだが、それらは今後(もし寿命があり、かつ執筆機会を与えられれば)折に触れて取り上げていくことにして、取り敢えずこの稿は、今回の異常気象と風水害、それにかかわる国土行政の問題点にしぼって考えることにしたい。
 この点で筆者が指摘したいことは、五点に尽きる。第一は社会資本の抜本的な再検証と必要なら徹底的な補修強化、第二は国土行政を司る国交相の公明党独占の排除、第三は気象庁や自治体の緊急広報体制の整備、第四は公共放送NHKの対応姿勢の是正、そして第五に日本国民
の公民としての品性の向上だ。
 第一点だが、今回の問題はつまるところ国土管理の手落ちに由来する面が大きく、その改善強化以外に対策はない。地球温暖化が気象環境を激変させており、世界的な異常気象多発の一端として起きた、という議論など、なんの意味も持たない。最近の定説である地球温暖化を諸
悪の根源とする議論の反映だろうが、かつては定説だったがいまは忘れられた観のある太陽黒点の増減の地球気象への影響論だろうが、いくら議論・分析しても、目前の災害に対処するうえでは役に立たない。現に起き、今後も起きうる災害にどう備えるのか、既存設備の維持管理と必要な改善強化をどうするのか、この一点に尽きる。
 早い話が個人の持ち家でも築一〇年前後の大規模修繕は不可欠だ。基礎の歪みの見直しから始めて的確な修繕をすれば、以後三〇年ほどは対処療法的・弥縫的な補修で済む。築後四〇年か五〇年になれば、再建かそれに近い大修理をしなければならない。これは常識だが、その常識を実行するオーナーは、戸建て一軒家の持ち主でも必ずしも多くない。
 新築高層マンションが林立する一方で、昭和時代に建ったマンションで一度も大規模修繕をしていないケースも少なくない。修繕積立金がまったく不足なところさえ珍しくないという。かつては一定以上の所得がなければ入居を希望しても抽選資格さえないほど、中堅サラリーマン家庭の羨望の的だった公団住宅も、いまは気取ってURと呼ぶものの、高齢入居者と空き家が目立つ。一部には主にアジア各国から正規・不正規に入国した3K労務者層が集団で居住する例もあるという。
 同様な管理不足、保全不十分な状態は、社会資本の多くの側面で見られる。またも時代論になるが、明治後半から蓄積された道路・橋梁・鉄道・堤防・港湾などの基本的社会インフラは、昭和戦前までは丁寧なメンテナンスを施して保全されたが、戦災で大きく損壊した。戦後の昭和は都市中心に荒廃からの再建・復興を急ぎ、大規模団地や新幹線が象徴する多くの新機軸のインフラが整備された。しかし多くは平常のメンテナンスに止まり、大規模修繕やまして再建は、まだその時期に来ていなかった点もあって行われなかった。平成時代は、まさに公共インフラから個人住宅まで、大規模修繕や再整備に取り組むべき時期だったのだが、停滞する経済と、地味で勤勉な努力を積み重ねることは避けて安逸を旨とする時代相を反映して、個人も国や公共機関も、意識がその方向にいかなかった。

国交相の公明党指定席化は不適当

 その象徴が、「コンクリートから人へ」を謳い文句にした民主党政権だ。鳩山由紀夫内閣で前原誠司らの主導で工事が中止された利根川源流域の〝八ツ場ダム〞が、もし自民党の政権奪還で工事を再開せず、この初夏に稼働を始める状態に至っていなければ、今回の関東の水害は
現状と比較にならぬ惨状を呈しただろう、といわれる。三年四か月の民主党政権はまさに〝悪夢〞だったが、自民党政権も多少はマシかというレベルで、国土強靭化はスローガン倒れもいいところ。国民の安全に直結する公共インフラの補修・強化予算よりバラ撒き型の〝福祉〞予算が遥かに重視され、堤防も橋も道も鉄道も脆弱なまま放置されたことは、目前の事実が示している。
 その意味で、国土政策の策定と実施行政の元締めである国交相が久しく公明党の指定席化しているのは、甚だ不適当といわざるをえまい。反自民八党派野合の細川護煕政権で与党の旨みを知った彼らは、自社さきがけの村山富市政権では野党に戻ったが、小渕恵三政権で自民党政
権を補完する与党になった。
 もともと地方首長の議会与党として公的給付を支持者に取り次ぐことを目的に生まれた宗教団体の自家用政党だから、受給はなんでも賛成、負担はなんでも反対、という組織体質だ。自民党政権与党となって、久しく猛反対してきた消費税を認めざるを得なくなり、まず〝地域振興券〞が象徴するバラ撒き策にこだわって、厚相ポストを占め続けた。しかし社会保障費の膨張に伴って社会保険の料引き上げが不可避になり、小泉内閣の年金改革に抵抗する支持者をなだめるべく、当時の坂口力厚相が、この保険料の引き上げで〝一〇〇年安心年金になる〞といったのが不評でトラウマになったのか、第二次安倍政権以降は指定席に国交相を求めるようになった。
 しかし本質的に〝鳩山・前原〞と同質の公明党に、目先の負担に耐えて長期的視野で国土強靭化を進める行政思想やその実行を期待するのは、無理な話だ。その無理を放置してきた安倍自民党の姿勢が今回の事態を招いたといっても、決して過言ではなかろう。
 そもそも気象庁も河川管理も、国交相の所管だ。その間の適切な連携・対応がまるでできていない実態が、今回露呈された。この雨量なら河川流量がどの程度増すか、それならどのような対応が不可欠か、中小河川の管理や自治体の指導に当たる総務省や、防衛省・警察庁などと
も密接に連絡・協議して、一体で対処する必要があるが、その要になる国交相が別の政党では、非常時対応がスムースに運ぶとは思えない。その見地からも、国交相人事は見直すべきだろう。

情報伝達の表現がなっていない

 気象庁は明治の発足当初から、測候所・測候所・測候所と三回唱えればフグを食おうが腐った肉を食おうが中毒しない、つまり(予報は)当たらない、といわれた。衛星やコンピュータの導入でヴェテラン漁師の観天望気にくらべてどの程度予報精度を増したのか、門外漢にはわからないが、わかる点もある。情報伝達の表現がなっていないことだ。
 ひところは毎度〝五〇年に一度〞を連発して、ナントカの一つ覚え、とバカにされていた。最近のキマリ文句は〝命を守る行動を〞だ。この幼稚で愚鈍なキマリ文句を、それに相応しい人相風体の予報官が切迫した口調で繰り返すのに釣られ、泡を食って溢水した道に軽自動車で乗り出して哀れ水死した犠牲者は、一〇〇人のうち半分以上に上っただろうと、容易に察しがつく。その責任を気象庁やその最高責任者である国交相は、原因者として反省したことがあるのか。
 それだけではない。彼らは逃げる途中でこれは危ないと感じたら〝頑丈な建物の上層階に避難してください〞とも連呼する。〝頑丈な建物〞が公的機関なら、住民の個人情報から治安情報まで、あらゆる情報が流出の危険に晒されるし、なにより災害対応に障害が出かねない。企業やマンションを含む個人住宅なら、たとえ緊急避難を主張しても、住居不法侵入の現行犯になりうるし、避難を騙った侵入強盗、住民が先に避難していた場合の故意か出来心の空き巣を助長することにもなりかねない。そんなだれもが気づくことにも配慮できないのが気象庁の予報官の知能レベルだ、といわれても反論の余地はあるまい。

専任の非常時対応者を置く義務

 同様のことは予報官と同じ発言を繰り返すNHKアナウンサーを筆頭とするテレビ・ラジオにも共通する。ここもそもそも論から入るが、そもそも電波ニュースは、活字を離れている分だけ、送り手と受け手の間の信頼感が欠かせない。それがアナウンサーによるラジオの場合は
正しい日本語の発音やアクセントであり、テレビの初期は画面に顔を出す系列新聞社のヴェテラン記者の、本来の分野で社会的に評価された文章力・筆力や、署名記事に現れている判断力・説得力だった。
 それがいつの間にか、親しみやすさと称して、そこらにいくらでもいる若い男女が、掛け合い漫才式に担当するようになった、NHKでも、正確なアクセントでしゃべれないだけでなく発声・発音も怪しげなバーテン風・遊び人風の若者や、突っかえ突っかえ原稿を棒読みする若い女性が出没する。民放に至っては古手〝芸ノー人〞や、事前に発表したら学歴詐称や女性問題がバレて立ち消えになった、というケースも珍しくなくなった。それでは視聴者の信頼が得られるはずがない。
 天災報道は速報性に優れた電波ニュースの極限だ。視聴料という税金紛いのカネを、最高裁判決という最高の国家権力維持装置の確定判決を武器に、国民に支払いを迫るNHKは、自力で立っていない〝主人持ちの組織〞であり〝主人〞に仕える立場だ。災害報道、災害危険情報
伝達は〝公共放送〞の使命だ。それをタレント気取りの未熟な若造に当番制でやらせていて、いいわけがない。非常事態対応に専任するヴェテランを三人程度決めて、台風や豪雨、強い地震や、騒乱事件などの発生時には、事態がおさまるまで二四時間三交替制で、一貫した情報提
供・報道に当たらせるべきだ。それが視聴料を取って殿様経営をする組織として、最低限の義務だ。
 最近の日本には、自らの責任に関して、非常識を通り越して品性を疑わざるを得ない、極度に無責任な存在が目立つ。ネットを張った鉄柱が強風で倒れ、近隣住宅を破壊したゴルフ練習場主とその弁護人や、復興・高度成長初期に金儲け目的で植林した杉山を、木材価格暴落と人
手不足のダブルパンチで放棄状態にしたあげく、風倒で広域停電の原因者になった山持ちなどが、その分かりやすい典型だ。こうした手合いを社会的に厳しく追及、糾弾、問責する視点が必要なのではないか。(月刊『時評』2019年12月号掲載)