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大石久和【多言数窮】

破壊された日本人

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 現代家族論を研究している岩村暢子さんという方がいる。彼女は2007年に、新潮社から「普通の家族がいちばん怖い 徹底調査! 破滅する日本の食卓」という、後に文庫となってかなり読まれた本を出している。

 このなかで彼女は、「食の文化や伝統は大切です」と言っている主婦に、その家庭の正月元旦の食事を写真に撮ってもらうとパンと牛乳が写っていたことなどを紹介し、言動がまるで不一致なのに平然としている主婦の姿を活写している。

 岩村氏は、東洋経済2018・4・7号に大正大学客員教授として、「1960年以降に生まれた人たちは、日本で初めて『個』ということをとても大事にして育てられた第一世代といってもよい」と述べているが、この「個」の捉え方を間違ってきたことが現在の日本の悲劇の大きな背景になっている。

 家族力というか家庭の教育力といったものが確実に崩壊している感じがある。たとえば、ペンをまともに持てない人が極端に増えているし、箸も正しく持てる若者(決して若者だけに顕著な傾向ではないが)が減少している。

 人前でのあくびに至っては悲惨なもので、老いも若きも電車内などの人前で喉の奥までさらけ出して平然としている。あくびなどかみ殺すことも簡単だし、まずは「あくびをする時には口に手を当てなさい」と家庭で教育されていなければならないのだ。

 家庭ではそのような教育はしていない。先に紹介した岩村氏の著作によると、母親たちは「家庭では、とにかくみんな仲良く波風立てず」が第一主義となっているから、「正しく箸を持ちなさい」などと言って家庭内がギクシャクすることは、ほとんど拒絶的に忌避なのである。楽しい食事が気まずいものとなることだけは絶対的にイヤなのだ。

 それは「その場限り主義」ともいうべき、親としての責任放棄なのだが、そうは捉えていないのだ。平穏であることは何にも優先する家庭の価値としているからである。

 かつても述べてきたが、これにはテレビの影響も大きい。箸も持てないタレントが口に食べ物を突っ込んだまま、うまいなどと言っているのを毎日見せられているため、おかしいという感覚が生まれないのだ。テレビはいまや日本人破壊装置となっている。

 しかし、破壊された日本人というのは、実はこのようなことではない。三内丸山遺跡を生んだ縄文の昔から、戦後の1950年代頃までという1万年もの長い時間、われわれ日本人の圧倒的多数は少人数の集落で生涯のほとんどを過ごしてきた。三内丸山遺跡の人口は400?500人程度だったといわれている。それは、江戸時代の一村人口とほとんど変わらず、全員が顔見知りの小規模集団だった。

 この程度の人数で村の運営のほとんどをこなしてきた。用水事業、道路普請、水田への水の配分の量と順序、屋根葺き、田植えと稲刈り、災害復旧、冠婚葬祭、秋の収穫祭などみんな部落総員でこなしてきたのだ。

 ここには、それぞれの能力と特性に応じた役割分担があったのである。つまり、この集団は「全員がのっぺらぼう」の没個性の集団だったのではなく、個性と能力の違いをお互いが意識し、それを活かした集団だったのである。

 それを正しく理解せず、この集落主義では個性が発揮できないと「個人」至上主義を掲げて集団意識を破壊してきたのが、岩村氏の言う1960年以降の傾向なのである。

 コンセプトデザイン・サイエンティストの川手恭輔氏はWedgeに次のように記していた。

 「成果主義による人事制度は1990年代に、人件費を抑制したいと考える企業が相次いで導入した。成果主義は社員を仕事の成果によって評価しようという考え方だが、その仕組みはコンサルタントによってアメリカから持ち込まれた」
 「成果主義は成果を求めるがあまり、社員に個人の成果目標を達成することだけを優先させてしまう危険がある」「自分の仕事の枠を超えて協力し合ったりリスクをとってチャレンジしようという自由闊達な雰囲気が失われ、結果的に組織のパフォーマンスを低下させてしまう」
 「研究開発部門の技術者が、短期的に確実に成果を出すことが難しい試行錯誤が必要な長期的なテーマやリスクのあるテーマにチャレンジしなくなってしまうと、イノベーションを生み出せなくなってしまう」

 「成果主義は単独ではなく、株主を重視するアメリカ式経営の一部として日本に持ち込まれた」「社員をコストとしてしか見ていないという会社の姿勢が伝われば、仕事に対する意欲は低下してしまう。生産性の向上など期待できるはずがなく、会社へのロイヤリティも失われてしまうだろう」

 「アメリカの仕組みを安易に模倣しただけの成果主義は捨てて、大切な社員を重視する人事制度を構築すべきだ」

 ここでの指摘はすでに恐るべき現実となってわれわれに現前している。アメリカの人事コンサルタント会社ケネクサが、世界28カ国の100人以上のフルタイム従業員がいる会社で「従業員のエンゲージメント度(仕事に対するやる気、組織への貢献心や組織への愛着度)」を調べたところ、日本は31%(アメリカ59%)で世界最低だったというのだ。

 また、アメリカのギャラップによると(2017年5月日本経済新聞)、「熱意あふれる社員」の割合は、日本6%アメリカ32%となっており、日本は世界139カ国中132位だった。ここに明確化されすぎた「個人の責任」の前でたじろぐ日本人の姿がある。

 自分の責任領域が厳格に規定されないと実力が発揮できないアメリカ人と同じ仕組みでやれるはずがないのだ。

 この事実は日本経済の著しい停滞となって現われているが、それは人を率いる日本の経営者が「人間」も「日本人」をも、まったく理解できていないことの証明なのである。
(月刊『時評』2018年9月号掲載)