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大石久和【多言数窮】

不思議の男女平等論・ドイツ憲法から見る

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 東京医科大学の入学にからむ文部科学省官僚の不正・汚職問題に始まった事件は、大学が入試の成績に手を入れて、合格者を選別していたという問題に発展した。

 浪人を重ねた学生を排除したり、女子の入学を抑えようとしたりしたことが大問題になったが、メディアなどに流れている識者たちの問題認識は相当ずれていると感じる。

 何年も浪人した学生は医師試験の合格率が低いとか、女性は結婚したり子供を産んだりするとやめることが多いからとかの理屈を立てているようだが、まるで本質を踏み外した考え方で、残念なことにこの国の恥さらしな言論状況を内外に明らかにした。

 女性は医師になってからの診療科目選択に偏りがあるとか、力のいる外科手術が困難だという話も流れている。挙げ句の果ては、入試要項にこうした入試の際の措置が明記されていないことが問題だという意見も見られた。

 これらは、とんでもない珍説と言わなければならない。それは、「法の下での平等」という本質的な議論から逸脱しているからである。

 日本国憲法第14条は次のように規定する。

 「1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(2項以下略)」

 この憲法規定のもとで、入試要項に「女性というだけで減点します」と書けば、間違いなく憲法違反だ。したがって、当然のことだが、要項に書いていなくてもそのような操作をすれば違反に決まっている。

 今回の東京医大の問題は明確な憲法違反事案なのである。情けないことに、それを指摘する人がほとんどいないということが、わが国の言論状況の悲惨さを示しており、以下のことが理解できていないことが、この国が文明国ではないことを証明している。

 つまり、「女性には力がない、女性は子供を産む、女性は子供が乳幼児時期には時間を取られる」のは、女性が女性として社会のなかで確固たる地位を得て活躍していくうえでの当然の前提であって、「女性差別はしない」と宣言したということは、こうしたハンディは男性や社会が引き受ける覚悟を鮮明にしたということなのだ。

 また、出産は女性にしかできないことであり、この役割を女性が果たさなければ、その民族は滅んでいくしかない。女医が働きやすい環境の整備を放棄して、女医の誕生を阻止しようとしたことは、日本国は先進国でもなければ文明国でもないことを自ら内外に宣言したようなものなのだ。

 ここで、ドイツの憲法である「ドイツ連邦共和国基本法」の第3条の条文を紹介する。

「1.すべての人は、法の前に平等である。

 2.男女は、平等の権利を有する。国家は、男女の平等が実際に実現するように促進し、現在ある不平等の除去に向けて努力する。

 3.何人も、その性別、血統、人種、言語、出身地および門地、信仰または宗教的もしくは政治的意見のために、差別され、または優遇 
   されてはならない。何人も、障害を理由として差別されてはならない。」

 国立国会図書館・憲法課の資料によると、ドイツは戦後59回の基本法改正を行ってきたが、そのなかで男女同権の促進規定を追加したとある。この第3条第2項の規定は、戦後改定されたときに追加された条文なのだ。

 日本国憲法には、ドイツ憲法の第3条第2項に類似する規定はない。

 つまり、日本国憲法は、男女の同権性を促進したり、男女の不平等を解消していくための努力義務を国家に課していない。ドイツでは、それをわざわざ加憲したのにである。

 憲法学者と称する人は、わが国にもたくさんいて「立憲主義」だなどと観念論を振りかざしているが、なぜ日本の憲法にもこうした規定を加えるべきだと主張しないのだろう。

 こうしてドイツと比較してみても、戦後一度も改正していない日本の憲法は、時代の価値観の変化を反映できておらず、世界の趨勢から劣後していることは明らかである。

 われわれの知的怠慢ぶりは、国家の基本法にも正対できず放置したままでいることにとどまらない。国の建て付けのどこもかしこもきしみ始めているのに、国会もメディアも何の危機感も持たず、のんきにモリカケ騒動などに終始してきた。

○この20年間、世界のすべての国のなかで日本だけ名目GDPが増加しなかった。したがって日本だけは総税収がまったく伸びなかった。1991年に60兆円の税を納めた国民は、27年も経った直近でも59兆円しか納めることができないのだ。

○この20年間、内需不足から来るデフレ経済に陥っており、そのため家計は貧困化が進んでしまった。その結果、1995年には660万円だった世帯所得は、2016年には560万円となって100万円も低下した。この間、500万円以上の所得のある世帯は減り続け、200万円から400万円といった低所得階層が急増した。

 これらは、日本の経済学がこの20年何の役割も果たせなかったことを証明している。

○内需が不足しているためにデフレ経済が続いているにもかかわらず、内需の重要な構成要素である公共事業費(=公的固定資本形成費)を、「世界の先進国のなかで唯一一貫して下げ続け」デフレからの脱却を阻止してきた。

○このため、インフラストックは先進各国水準から大きく劣後し、高速道路の1/3が正面衝突の危険がある対向2車線という世界的にも例のない高速道路が出現している。

 経済成長がなければ財政再建などできるわけがないが、今年の通常国会では「いかに生産性を高め、経済を成長させるか」にフォーカスした議論が行われた形跡がない。文部科学省官僚の腐敗や防衛省の文書隠し、財務省の文書改ざん、厚生労働省の統計処理ミスなど見ても、この国は終焉の淵に立っている感がぬぐえない。
(月刊『時評』2018年10月号掲載)