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大石久和【多言数窮】

曲学阿世の学者たち

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 曲学阿世とは、「真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間の人に気に入られるような説を唱えること」が辞書的な説明で、史記由来の言葉である。以下に紹介するのは、かなり昔の曲学阿世の学者たちだが、現在はそのような学者はいないのかと言えば、決してそのようなことはない。一部の経済学者たちは、今も妄説を振りまいている。

南原繁氏
 ソ連や中国も含めた国々とも同時に講話すべきだと主張した東大の南原繁総長に対して、吉田茂首相が曲学阿世の徒だと非難した。これに対して、多くのメディアや学者たちは全面講和に凝り固まっていたから、吉田茂首相に一斉に反発したのだった。
 
 当時の認識では、南原繁氏が学問の象徴とでも言うべき東京大学のトップだったことも、反駁を助長したと考えられる。しかし、結果は歴史が示す通りなのだ。
 
 この時すでに敗戦から6年を経過していたが、もし全面講和にこだわれば、いろいろと条件を出してくるソ連などとの交渉が長引き、そのまま占領状態が続いたものと予想され、日本の独立は長期間果たせないままとなったに違いない。南原繁は、吉田茂の言う通り曲学阿世の徒だったと考えるのである。

向坂逸郎氏
 長年、九州大学教授を務めた氏は、マルクス主義の指導者といわれ、特に旧社会党の社会主義協会派のブレーンとされていた。筆者がきわめて印象的に記憶している氏の映像がある。
 
 それはニュース映画だったのか、テレビだったのかは忘れたが、日本が公害問題で大騒ぎしているとき、向坂氏は「社会主義国では公害問題はありません。なぜなら人民が主人公の国ですから」と明確に断言したのだ。筆者の第一印象は「本当なのだろうか」だったが、後にわかったように、これは大嘘だったのだ。
 
 隠されていたが、当時すでにソ連では大きな公害問題が生じていたし、今の中国でも公害問題は各地で噴出していると言っても過言ではない状況だ。確認もしていない自分勝手な希望的観測を、あたかも事実を調べてきたように断言する「大学教授」とはいかなる存在なのだろう。この氏を「国立大学教授」として税金で雇用し続けてきたことを、われわれはどのように反省すればいいのだろう。

藤原彰氏
 
 戦前に陸軍の連隊隊長を経験して、戦後一橋大学教授として現代史、昭和史を研究していた氏は、日本評論社から出版した『体系・日本歴史6日本帝国主義』に次のような記述を残している。 朝鮮戦争に関する記述である。
 
 「六月二五日、三八度戦全線にわたって韓国軍が攻撃を開始し、戦端が開かれた。二六日北朝鮮軍は、反撃に転じ、韓国軍はたちまち潰走しはじめた。アメリカは直ちに韓国援助を声明し、早くも二七日には在日空軍を朝鮮に出動させ、一方第七艦隊を台湾海峡に出動させて中国の台湾開放を妨げた。」
 
 氏は、韓国軍が先攻したという今日では常識的誤謬とでもいうべき知識をどのように入手したのだろう。氏は軍隊経験があり、戦争の実態も知っていたはずだが、戦争を仕掛けるために周到な用意をしたはずの韓国軍が、戦争が始まるや否やすぐに潰走しなければならないような敗北を続けたことを不思議に思わなかったのだろうか。
 
 また、氏は南京事件については「20万に及ぶ大規模な虐殺があったとの立場から」研究を行ったとも紹介されている。事実の確認から研究を始めるのではなく、まず立場を固定してから研究したというのには、驚きを禁じ得ないほどの学問的スタンスの誤りを持った大学教授だったのだと指摘しておかなければならない。
 
 戦後の長い間、日本の政党のなかには藤原氏の主張した「韓国先攻説」を唱えるところがあった。そこは、前回に示したように「北朝鮮による拉致事件は創作である」とのデタラメな主張も続けていたのである。
 
 国立大学である一橋大学は、事実も確認せずに勝手な妄想をまき散らす教授をなぜ長々と温存してきたのだろう。

戸水寛人氏
 
 この氏は、日露戦争時の帝国大学・法科大学教授であったから、かなり昔の話である。日露戦争は、日本海海戦に勝利したとは言え、国家予算の四倍もの戦時国債をアメリカやイギリスに購入してもらい、財政的にはもう限界という状態であったから、アメリカの斡旋にすがるようにポーツマス講和条約交渉に臨んだ日本だった。
 
 ロシア皇帝は「一寸の領土も、1コペイカも日本に譲るな」とロシア全権大使に命じていたから、日清戦争の何倍もの戦死者を出した戦争だったにもかかわらず、わが国は領土も賠償金も取れなかった。講和交渉で「実は日本はもう限界でした」と言えるはずもないが、あまり強気にも出ることができなかったのだ。
 
 このように国力の限界だったのに、戸水氏(他に数名の大学教授がいた)は、「賠償金30億円とバイカル湖以東の領土割譲」を主張し、国民を扇動したのだった。戸水氏は、人々から「バイカル博士」と揶揄される始末だった。
 
 朝日新聞も「政府は国民と軍隊を売った」と煽り、これらが日比谷焼き討ち事件などの一連の騒動の引き金となり、条約に賛同していた国民新聞の輪転機が壊されたりした。
 
 戸水氏らが扇動した国民の不満が、その後の満州での陸軍の身勝手な振る舞いを助長し、後に日本人初のエール大学教授となった朝河貫一氏が1909年に述べた「日本は満州での行動を正さない限り、将来的には中国の恨みを買い、必ずアメリカと衝突して負けるだろう」との予言が、悲しくも正確に、1945年に実現してしまったのである。
(月刊『時評』2019年6月号掲載)