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大石久和【多言数窮】

教育・学習の三分野

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 教育のことで講釈をたれることなどできるはずもない浅学で非才な筆者だが、教育は三分野で考える必要があるのではないかとの説を展開してみたい。

 毎年、優秀な人材が社会に出てこの国を支えるために頑張ってくれているに違いないのだが、なんだか人々が人間として薄っぺらになっていっている感じが拭えない。最近の政治や企業の世界を見ても、かつて日本を戦災から復興させ、経済を成長へと導いていった、昔の政治家や経営者の時代は完全に過ぎ去ってしまった感が拭えない。

 昔の政党の長老には年期を積んできた風格があったし、その時代に財界総理と言われた人たちはいわれるだけの人格を漂わせていた気がするのである。こうした方に書を求めると、若い頃に学び慣れ親しんだ中国など内外の古典のなかから、楽々とある言葉を記すことができていたのに、いまではそんなことは誰もできないという感じなのだ。

 それでも教育・学習の三分野の第一は、やはり「従来のいわゆる勉強で、それは将来自立して生きていくための実力の涵養」と言うべきものだが、それが受験競争の中で優先されすぎている懸念があって、三分野の第二、第三がないがしろにされている。

 偏差値競争に明け暮れる受験戦争がより効率化し、合格という目的に貢献しない学習や研鑽を極めて合理的かつ徹底的に省いてきた結果、「偏差値お化け」を生み出してしまったのではないかとの懸念がある。

 いま、東京大学医学部などを頂点に医学部への進学競争は熾烈を極めている。ここへの進学者は、まさに偏差値競争の最終勝利者として輝いている(ようだ)。ところが、医者というのは、患者の悩みや苦しみと向き合い、患者からの信頼を得てこそ治療という成果が得られるという仕事をしているのだ。

 ところが、最難関医学部卒業の医師は研究医にはなることができても、臨床医・診療医には向かない者が増えているというのだ。それは人との対話ができないからであり、他人の存在を理解できないからである。病状などをうまく話すことができない患者からの訴えを丁寧に聞いて理解したり、吸収したりする対話能力を欠いているからなのだ。

 つまり、この現象を見ても偏差値競争だけでは、人間として生きていくための教育と学習は閉じないということがわかるのだ。

 つまり、三分野の第一は偏差値で測れるものなのだが、人が人となるための教育・学習はそれで終わるものではない。若者が社会に出る前に身につけるべき第二は、「志高い生き様をいかに残していくのか」を考える力である。

 内村鑑三氏は『後世への最大遺物』という本のなかで、人が生涯を通じて「金を残す」「土木などの事業を残す」「教師などになって思想を残す」のは、人々のためになって人の生き様として素晴らしいことだと書いた。

 その上で、これらは誰にでもできることではないが、「高尚なる生涯」を残すことはみんなできるではないか。それを目指そうとまとめたのである。結局、それは「自律できる人間」を目指すことだと考えている。

 今われわれは2019年という時代を生きているが、この時代に先立つ遙か昔から人間は、自然、社会、宗教、科学といった人間の知的活動のすべての分野で思索や思考を巡らせてきた。こうした成果は現在では否定されているものもあるが、過去の天才たちが苦しみ抜いて考えてきたことが現在を生きる者に参考にならないはずがない。

 これは人間社会において極めて重要な獲得すべき知識、つまり素養なのだが、偏差値競争ではまるで重視されないものである。そのために海外の経営者などに比べ、幅の広い歴史観・人間観・認識観・国土観もなく、何の教養もない経営者などが生まれているのだ。

 エリート大国といわれるフランスについて橘木俊詔氏は『フランス産エリートはなぜ凄いのか』(中公新書ラクレ)で哲学が重視される国フランスを紹介し、知識の詰め込みや暗記よりも、哲学や数学といった論理・思考能力が重視され、バカロレアの初日に哲学試験が設定され、その首席論文はル・モンドに掲載されるという哲学尊重の実態を示した。

 また、理工学系の素養も大切だと考えられており、その重視もフランスの特徴だという。

 三分野の最後として、学んだり身につけたりすべきものは、本来、第一にあげるべきものだった。それは「人が(単なる動物ではなく)人として生きていくために、わがものにしておかなければならないもの」の獲得である。

 その第一は、「自己の存在を主張できる個性が必要だが、そのためにも同時に他者の存在の尊重が不可欠だ」との認識獲得が最初の基本だ。他者を尊ぶ気持ちがあるからこそ、自分を大事にできる。この他者の認知とその尊重は身につけるべき第一の素養である。

 次にものにすべきは会話力、対話力である。西部邁氏は、「日本人の集団は、いつでも、どこでも騒がしいのだ。しかし、そこには言葉は飛び交っていない」と述べ、「これらは感情の吐露に過ぎず、言説の前提も、推論も結論も何も論じていない」と指摘している。

 西部氏の指摘を超えて、「相手と会話して意思疎通ができること、つまり対話ができる人」にならなければならないのだが、これも偏差値評価の対象外だから、これを身につけないまま社会人となっている人が多いのだ。

 最後に重要なのが、「所作がきちんとして品格のある態度をとれる人になる」ことである。永六輔氏はテレビ草創期に活躍した人だが、晩年テレビに出なくなったのは、テレビでの食事場面の乱れに嫌気がさしたからだという。

 テレビは今や日本文化の破壊装置に成り下がり、口に食べ物を入れたまましゃべったり、モグモグをわざわざアップで見せて、社会には他人には見せないものがあるのだという常識をわが国から消滅させた。将来、重要な外交の公式会合で正しいマナーで食事ができる日本人がいなくなるに違いない。まさかそこで化粧をする令夫人はいないと信じたいが。

(月刊『時評』2019年12月号掲載)