お問い合わせはこちら

大石久和【多言数窮】

果たし得るのか主権者責任

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 18歳から投票権が得られるようになったときに、主権者教育などと称して模擬投票箱に18歳位の若者たちが、候補者名を記入して投票している様子が報道されていた。主権者になることが、こうした「投票行動ごっこ」で可能になるとはまったく考えないが、同様の違和感を持った人も多いと思う。

 主権者になるということは、自分に代位できる人を選択する責任を持つことであるから、何を代位させるのか、その人は信託されることができる人格・識見の持ち主なのかを意識し認識できる能力を身につけることなのだ。

 最近、あることがきっかけで憲法前文に触れたのだが、そこには国民の信託、つまり代位性について次のような説明がある。

 憲法前文抜粋

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

 国民の信託は厳粛でなければならないのだ。厳粛とは「きびしくゆるがせにできないさま・おごそかで心が引き締まるさま」、そして信託とは「信頼して政治などを任せること」(ともに『大辞林』)

 こう示してくると、いまの主権者は絶望的な選択を強いられていることがわかる。候補者が持っている知識の量と幅、識見の確かさ、そして何よりも大切な候補者の人格や人間性について、ほとんど何の情報も持てないまま投票に臨んでいるのが実体であるからだ。

 小選挙区制では、こうしたフィルターをかけて候補者を選定しているのは政党であって、選挙民は「どの政党がよりよい候補者選択のために何をしているのか」といった過程をまったく知り得ず、「この政党が選んだ候補者は、政党が設けた厳しい(?)フィルターをクリアしてきたはず」という政党選択しか「選択肢」がないのだ。

 その厳しいフィルターにかけられたはずの当選者、つまり議員の不祥事が途切れることなく続いている。それも「成人が当然持つべき常識や人間性」について、一般人の基準から見ても許容されるレベルを大きく逸脱している事例が続出している。

 「一人の成人」として許されるはずもないレベルの不祥事が、選良たるべき人々から次々と生まれている。「主権者の選択」がバカにされているとも言えるし、選択が機能していないとも言える。この状況の下で、「選挙に行きましょう、棄権はやめましょう、投票率を上げましょう。」などと運動しても、主権者の心に響くはずがない。

 また、その政治家を選んだ選挙民も、「彼を選んだという意識はなく、ただ彼が属していた政党を選んだのだ」という感覚だから、彼を選んでしまったという反省がない。だから、選んだ選挙民の責任として議員を監視しなければならないという感覚もない。

 中選挙区制の時代にも、主権者にそんなに多くの選択肢があったわけではない。しかし、例えば5人区であれば、政権党は過半数を確保するために3人の候補を立てて当選させる必要があった。

 当然、その3人は政党の選択フィルターをクリアして選ばれた人たちで、その段階では先の小選挙区制同様に政党フィルターは機能していたのだが、「そこに最終判断者としての選挙民による投票行動」が最終フィルターとなったのである。つまり、わずかながらも選挙民の投票行動が、当選政治家を選択するという意味で機能していたのだ。(繰り返しになるが、いまは政党を選択しているに過ぎない)

 同じ政党から複数の候補者が一つの選挙区から立候補するとなると、候補者の個性の違いを際立たせる必要が生じ、そこに「自分の経験と知識が豊富な得意分野を持ち、その分野の政策」を訴えるという必然が生まれ、専門知識を持った政治家が存在したのだ。

 したがって、得意の政策分野では、政策について官僚を上回る知識を持った政治家が、特に政権党においては政策分野ごとに存在したものだった。当然、官僚の側も中途半端な知識では、こうした政治家に対応することができないから勉強もし研究もしたのだ。

 そこには政治と行政の正しい意味での切磋琢磨が働いていた。いまの小選挙区制では、野党であれ政権党であれ、すべての議員は選挙民からのあらゆる行政分野での要求や課題に対応できなければならない。選挙民の政治との窓口は彼だけだからである。

 しかし、それは不可能だ。あたかも全能が可能なような、また、全領域の政策を知悉しているような顔をしようとすると、議員は個性も得意もない「のっぺらぼう」にならざるを得ない。すべてを飲み込むとなると、何の特徴も、何の特技も、何の個性も見せられなくなるというのが論理的帰結となる。

 それは、あらゆる意味で残念なことなのだ。

 一つには、議員が官僚に対抗できなくなるからである。議員の政策立案能力の低下を防ぎ、議会制民主主義の議員に政策提案力を持たせるには、アメリカの上院議員がそうしているように10名程度の本来の意味での政策秘書を国の費用であてがうことである。

 アメリカの上院議員は、人数にはかなりばらつきがあるようなのだが、相当数の自分のための政策秘書を国の負担で持つことができる。アメリカ上院の政策秘書は、各種調査や分析、法の立案などの能力を持ち、議員を補佐して数多い議員立法を成立させている。

 もう一つ大問題なのは、のっぺらぼうでは、主権者の選択権が制限されてしまうことなのだ。議員の選択という選挙ではなく、党を選ぶ選挙というのなら一人一人の議員はのっぺらぼうでいいのかもしれない。だが、政治は個性がするものなのだ。

 個性を持つ一人の議員を選ぶとなると困ることになる。有権者に選択肢がないからである。仕組みとして「脱個性議員」を要求する選挙制度になっているにもかかわらず、議員に専門的な能力や勇気ある活動という個性を求めることなどできない相談である。

(月刊『時評』2020年1月号掲載)