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大石久和【多言数窮】

電車内の風景と日本の民主制

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 前回には、経済学者の井上智洋氏の論説を引きながら、先の対米戦争という誰が見ても必敗に帰することが明らかな戦争へ突っ込んでいったのに、アメリカが日本を戦争へと仕掛けたにせよ、開戦に当たってこの国ではまるで反対運動が起こらなかった不思議を記した。

 これは、世界で唯一とも言えるわれわれ日本人の極端な他人や全体に対する同調主義と、西欧人が都市城壁の中で大勢の見知らぬ人びとと紛争のない長い時間を大きなもめ事なく暮らしていくために育んできた「公共・公」という概念を、日本人が十分に獲得できておらず、われわれ一人ひとりの個人が「私」領域にとどまっているからだと論じてきた。

 朝鮮半島からイギリスに至るユーラシアの人びとが広大な都市城壁の中で見ず知らずの人びととともに運命共同体を形成して暮らしてきたことと、城壁を必要としなかったわれわれとの経験の乖離は大きい。これは公概念獲得の有無というトンデモ級の違いを西欧とわれわれの間に設けた。この西欧とわれわれとの違いを端的に言えば、かつても紹介したように狭い城壁内に暮らしていくためには、自分の私有地であっても土地利用計画に沿わなければ建築することができないという「公」を積極的に受け入れることができるか否かということになる。

 民主主義とは、「異なる意見を持つ他者の存在を前提とし、その他者の存在は尊重する」ことで成り立つものであるから、これがわれわれにはなかなか難しいのだ。

 フィールドワークに優れた民俗学者であった宮本常一は、昔の集落の意思決定の様子を記録している。そこでは、集落の全戸が参加した話し合いが行われて、物事が決定していったというのである。そして、なかなかまとまらず意見が一致しないときには三日三晩も連続した全戸参加の会合がもたれて一致するまで話し合いを行った例を紹介している。ここには「異なる意見の存在を許さない文化」があるのだ。逆がユダヤで、イザヤ・ベンダサンは「全員が賛成した決議は無効とする」文化があると書いている(この説は間違いとの指摘もある)。

 このように異なる意見を認める文化から乖離しているのに、さらに厳しいのは先に示したように、これに加えて「私」のなかに「公領域」を確保できていないことなのである。

 このことは、端的に言えば「1995年に世帯所得平均が約660万円で、2020年には、それが約564万円にとどまるというのに、そしてこれは政策の失敗が原因で、決して個人の責任に帰するものではないのに、人びとから〝主権者である公の人〟としての政治への責任追及の声が出ない」ということなのだ。

 このように、この国ではすべての領域・空間は私領域に分割され、どこにも公領域・公空間が存在しない。地下鉄などの車内風景を見てみよう。そこでは、多くの人がスマホでの「私」に閉じこもり続けていたり、ある人は化粧直しを始めたりの状態で、もちろん例外的な存在もあるからこれは極論なのだが、車内空間は車内にいる人びとから構成されている「公空間」ではなく、一人ひとりの「私空間」の集合体によって分割されている。

 従って、私の前にお年寄りが立っていたとしても、みんなで使う公共空間であるから譲り合わなければならないということなど思いもつかない人が多いのだ。電車に乗っている間、先着した私が私の空間を預かっているという先有(=占有)意識を持っているのだ。

 有権者は選挙に行っているから「有権者責任」を果たしているということではない。政治や政治家の監視こそが有権者責任なのだ。その意識と関心こそが、時間と費用をかけてでも民主主義下の個人が持つべき「公領域」である。

 そのためには有権者個人が個人の責任で判断しなければならないことが多いのである。マスメディアは、人びとがその責任を果たせるように判断に必要な情報を届けることこそ役割であり責務なのだ。

 世界中の国の中で、この30年近くにわたって経済成長できていない国は、内戦ばかりしているリビアと日本だけだということを、この国のほとんどの主権者は知らない。この事実をマスメディアは一度も報道したことがないから知りようがないのだ。

 しかし、経済成長がなければ税収も増えないし、高齢化が進んでいても政府支出も増やせない。最近の20年ほどを見ても先進国の中で日本が最も歳出の伸びが小さいのだ。

 そのためインフラ整備も伸ばせず、日本の港湾は世界の基幹航路から外されている有様だし、高速道路はつながらない区間ばかりでネットワークを構成できていないから、利用効率も上がらない。十分に整備して来なかったのに2024年問題だというから大変なのである。

 前回に示したように世界価値観調査での世界の数値とは桁外れほどに高い日本人の新聞雑誌に対する信頼度は、ネット時代になっても自分で情報を集めていないということでもあるし、それもあって判断をメディアに預けているということなのである。

 さらに問題がある。帝京科学大学の小堀馨子准教授は「現代の日本人は憲法と民主主義さえあればよい国になると信じている節があるように見える。(略)(しかし)民主主義自体に精神的基盤がある訳ではない。古代から現代に至るまで、国の精神的基盤が、その国の宗教文化伝統に全く根ざしていない例はないと言っても過言ではない」(2023・11・19産経新聞)

 まさに指摘の通りなのだ。信者の多い浄土真宗的にいえば「日々の一つ一つの努力や苦労が仏への供養となり、やがて往生する際には阿弥陀仏に救済されることになる」からと、小集落での屋根の葺き替えから、道普請、河川の改修、森の手入れ、共同での農作業などをこなし、それをことさら「利他」などと意識せずに〝民主主義的に〟暮らしてきたのだ。

 これが江戸時代の村落共同体の秩序を保ってきたのだ。ここには民主主義という思想も、政治家を選びそれに任せるという手法も存在しなかったが、300年もの長い間、生活を安寧に保持できてたのは互助力だったのだ。その精神的基盤も失っているのが現在なのである。

 ハマス・イスラエル紛争は領土問題でもあるが、強烈な宗教戦争である。西欧もアメリカも教会へ行く人が激減して、日本と同様の無宗教の時代へ入りつつあるという。世界危機の本質は、この二分化にこそ、あるのではないか。

(月刊『時評』2024年2月号掲載)