お問い合わせはこちら

俵孝太郎「一戦後人の発想」【第111回】

ジャーナリズム最後の段階としてのテレビ〝情報番組〟 不定期シリーズ1 テレビはリンチの処刑場か

 テレビの内容が堕落して久しいが、特にジャーナリズム媒体としての低劣化は目を覆うばかりで、報道とはかけ離れた〝情報番組〟に成り下がっている。直近の例は、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員長の発言が〝女性蔑視〟と風評された、テレビ主導の集団リンチ的空騒ぎだ。

大矢壮一の酷評に倣えば

 お前ら、何様のつもりだ、いつからそんなにエラクなった、というのが、イマドキのテレビに対する、新聞記者16年余、ラジオとテレビのキャスターが都合17年半、その後の3分の1世紀余は、新聞記者時代から電波時代を通じて、そしてさらにずっとあとまでも続いた、政治討論番組の司会者・討論者やフリーのもの書きとして、ジャーナリズムの世界で生きて69年目に入った、一応はこの世界の先輩格である筆者の、率直な印象だ。

 大昔に流行したレーニンの著作の一つのタイトルに、「資本主義最後の段階としての帝国主義」というのがある。それをもじって昭和戦前に、端株を片手に大会社の株主総会に出没して難癖をつけるのを端緒に、総務部から役員にまで食い込み、根も葉もない攻撃記事や見え透いた提灯記事を書いて協賛金をせしめる手法で、ビルを建てた某経済誌の主催者を、社会評論家の大宅壮一が「ジャーナリズム最後の段階としての××イズム」(××は当の雑誌主宰者の姓)と酷評したことがある。その顰みに倣えば、現に「ジャーナリズム最後の段階としてのテレビ〝情報番組〟」というほかない状態が続いている。こうした惨状に対して、長く既成の報道ジャーリズムのすべての分野で働いてきた経験を踏まえ、折々の問題、時には昔話にも及びながら、苦言を呈したい、というのが筆者の考えだ。

森発言はどう歪められたか

 そこで、まず最近の森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員長の発言をめぐる、テレビ主導の集団リンチ的空騒ぎだ。

 本来なら2020年夏に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されて、高齢・重病を顧みずに大会組織委員長の重任を引き受けた森は、とっくにお役御免になっていたはずだった。ところが中国・武漢由来の新型コロナ・ウイルス感染症の世界的大流行で開催がまったく異例の1年延期となり、それに伴い森の任期も自動的に1年延びた。その延期オリ・パラ大会も、開幕まであと5カ月余を残す段階まで漕ぎ着けた時点で、森を狙い撃ちしたように、彼の組織委評議員会での発言を咎めるかたちで、騒ぎが突発した。そして日本だけでなく世界中にもたちまち拡散し、IOC=国際オリンピック委員会や、オリンピック・ファミリーといわれる、率直にいえばIOCや関連事業の周辺を徘徊する一群の顔役を巻き込む、異常事態に発展した。

 この問題のポイントは、騒ぎの核心である〝森発言〟が実際はどういうものであり、それがどのように歪められ、どうして日本から世界にまで広がっていったのか、という点に尽きる。とりわけ〝ニュース〟が拡散される過程で、新聞・テレビ、さらにSNSなど、新旧メディアの役割というか貢献というか、責任というかが、どういうものだったかを確認し解明し、追及する点にある。

田村論文でたどる経緯

 日本オリンピック委員会評議員会での〝森発言〟が、最初にメディアでどう伝えられ、それが伝言ゲーム式にどう〝転送〟され、拡散していったかに関する論議は、当然のことながら騒動の〝主犯〟となったテレビを筆頭とする新聞・週刊誌などの奔流が沈静化したあと、月刊誌を舞台に前者として、まったく逆の批判的な流れとして登場した。筆者の狭い知見の範囲では、月刊誌『正論』(産経新聞社)4月号に掲載された情報検証研究所メンバー・田村和広の「徹底検証 森氏の発言は〝女性蔑視〟にあらず」が、証拠が歴然と残る電子版を含む活字メディアに特化した憾みはあるが、その範囲では緻密・詳細だ。

 それによると〝森発言〟が最初に登場したのは3日付毎日新聞電子版が、「女性蔑視とも受け止められる発言で波紋を広げそうだ」と報じたのが皮切りで、翌日の同紙同版では「性差別的」「女性おとしめる」というふうに歪曲・断定された。この日の朝日新聞電子版は、森喜朗氏は「会議での女性の制限を提案」したと、まったく虚偽の〝事実〟を見出しに掲げた記事を流した。

 そう指摘したうえで田村論文は

 「5日には遂に〝女性蔑視発言 森会長の辞任を求める〟との表題で朝日新聞が(本紙面に)社説を展開し〝女性理事ひいては女性全般を侮辱したものだ。責任は極めて思い〟と踏み込んだ断定と責任追及に至りました」「しかし、この騒動においては、基本的な事実関係が不十分なまま、世界中で連鎖的に拒否反応が起こり続けました。つまり〝森氏は本当に女性蔑視や(筆者註・女性理事や委員の発言の)時間制限を提案する発言をしたのか〟という出発点の事実確認が、どうも曖昧なままなのです」

 と続けて、具体的に記録を追いつつ、〝森発言〟と個々の報道表現との食い違いを、克明に指摘している。

童児でも気が付く数字の相違

 この問題意識は筆者もまったく同感であって、〝森発言騒動〟最大の問題点は、メディアが主導した〝ウソから出たマコト〟というほかないデタラメな〝事実〟が、日本中どころか世界中を暴走し、まったく事実から掛け離れた虚構の〝証拠〟に基づく〝人民裁判〟が行われたにもかかわらず、その非違が追及も是正もされることなく、IOCを巻き込んだまま、大手を振って罷り通っている点だ。

 詳細な検証は田村論文に譲るが、森の話が冗長なのは、少なくとも彼が長く活動した政界では衆知のことで、この会合の挨拶も脱線が多い長口舌だったことは否定できない。しかし、〝森発言〟で問題にされた部分は完全に録画されていて、テレビ音声でも再三流れている。〝証拠〟は歴然で、それと、そこにつけられているアナウンサーが読む〝本記〟の原稿や、各新聞・週刊誌の〝報道〟ぶりが事実において食い違っていることは、こと事実関係に関する限り、視聴者・読者は、それほど注意していなくても、すぐわかる。

 それなのに、途方もないウソが〝事実〟として臆面もなく延々と流され続けていて、どのテレビ会社も、新聞社も、週刊誌を発行する出版社も、この点について、社としての謝罪はおろか、釈明も、弁解もしていない。

 それらについて、最も分かりやすい、かつマンガ的な事実を、1点だけあげておくと、森が〝女性は競争心が強いのか、1人が発言すると自分も発言しなければならないと思うらしく、会議時間が長くなるようだ〟と述べたあと、〝自分が会長だった時代の日本ラグビー協会では女性委員は1人だけだったが、いまは10人、7人、いや5人か、いずれにせよ会議が長くなって困る、と現役の役員がこぼしている、という話を聞いた〟と語り、その録画が音声つきで再三流れているのに、森会長時代の〝たった1人〟の女性理事が、テレビにも新聞にも登場して、あれは自分のことをいっているのだ、と言い張るのが、繰り返されたことだ。

 1人のときか、10人、7人、5人のときなのか、数字が全然違っているのだから、彼女のいっているのはまったくのウソじゃないか、というのは3歳の童児でも気がつくはずだ。それがよほど怠慢を続けたあげく、最低限の注意力の発揮も惜しむ散漫な業界に落ちぶれてしまったのか、視聴者・読者をナメきるほど傲慢さが常態化したのか、平然とそのまま流し続けているのだから、呆れ返る。

〝火遊び〟から〝火の手に〟

 この〝騒動〟の正体は、森の言葉尻を捕まえたテレビ局員か新聞記者の一部が飛びついたのが、きっかけになったと思われる。ここは森に一発イチャモンつけてやろうじゃないか、とだれかが言い出したのに仲間が同調して、ちょっとばかりスパイスの利いた〝話題ダネ〟に仕立てようとしたのだろう。

 筆者の記憶はいささかあやふやで、田村論文ほど厳密ではないが、田村論文が〝発掘〟して指摘した毎日新聞電子版の記事がアップされた同じ日のほぼ同じ時刻に、NHKを含むテレビがこの〝話題〟をいっせいにオン・エアしたのではなかったか、という感じがする。言い出し兵衛も一人ではとてもやってのける度胸はなかったろうが、付和雷同する仲間が案外多いので、みんなでやれば怖くないと、軽い気持ちでやったのではないか。

 それを毎日新聞がすかさず電子版で後追いしたのか。それともあらかじめ仕込んでおいて様子見をしていたテレビが、電子版が流れたのでソレとほぼ同時に発進したのか。その前後関係は別として、テレビは各社談合的に進めたこと、毎日新聞ははじめから活字にする度胸はなくとりあえず電子版を先行させたこと、の2点はたぶん間違いないだろう。〝放火犯〟たちにすればちょっとした〝火遊び〟をするつもりだったのに、思っていたのとはスケールが違う、巨大な〝火の手〟が広がった、というのが実態なのではないか。

〝コタツ記事〟と〝アームチェア記事〟

 テレビがいっせいにやれば、なかったことでもあったことになってしまうのが、テレビ主導の大衆社会の病理現象だ。それでも伝える〝事実〟が一応は正確ならまだマシだが、〝事実〟が間違っていてはまるで話にならない。よくて途方もない誤報、場合によっては悪意に満ちた誹謗中傷・捏造にもなりうる。〝森発言騒動〟は明白に後者だった。

 テレビは自ら点火した〝火〟の勢いに、これは数字(視聴率)が取れると悪乗りして、ワイドショーなど別番組まで総動員で煽り立てる。毎日と並び、あるいは毎日以上に偏向報道を御家芸とする朝日や、その他の新聞も、テレビがあげた〝火の手〟の大きさに驚いて後を追ったのだろう。新聞は総じて格別の裏づけをとらず、テレビが勢いに乗じて〝森発言〟に対する言及を日を追ってより激烈にして、事実から逸走していくのにロクに注意を払わず、オウム返しというか口移し状態で、そっくりそのまま追随したと思われる。

 こうした姿を〝コタツ記事〟という。記者が現場で取材せず、社内のデスクか、自宅のテレビで見ただけの話を、裏づけはおろか、事実確認もとらずに、〝絵〟がついているんだから丸っきりのウソじゃないだろ、と右から左に垂れ流して記事化することを、揶揄した表現だ。そこに〝コタツ記事〟ならぬ〝アームチェア記事〟で世界中にバラ撒くのを常習にしている、外国の特派員が加わった。彼らが〝トーキョー〟発で流す記事を、IOCのメンバーをはじめ、世界中のスポーツ・マフィアが鵜呑みにしたのだから、たまったものではない。

 5W1Hを踏まえる、つまり、いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どうしたのか、を明らかにする、というのは古今東西、報道の基本原則である。しかしテレビを筆頭として、いまや内外のジャーナリズムは、その原則をないがしろにして憚らない。

〝加工映像〟による退廃

 テレビ画面から時制、さらに撮影場所の明示を加えた時空の表記が消えたのは、そう古いことではない。テレビの初期、保存映像は必ず、いつ、どこで、撮影したかを、画面に明示していた。それが緩んでからも、少なくとも保存映像にはその旨の断り書きをテロップで流す慣習が残っていた。ところがSNSでシロウトが切り取った〝映像〟が野放図に流れるようになったのに刺激されたのか、最近は単なる町のスケッチ映像や風景だけでなく、事件・事故・災害はもちろん、政治・経済的な事象まで、現在のニュース映像と古い保存映像を組み合わせた〝加工映像〟を、なんの説明も注釈もせずに流すようになった。

 映像的に刺激を強めて、視聴者の視線を一時的に引き寄せるだけの効果を狙って日常的に乱用しているのだろう。テレビ会社側は、たとえ現在の〝絵〟と保存映像を組み合わせた〝加工品〟でもSNSを見慣れたいまの視聴者には抵抗感がないとか、このほうが画面に文字が現れずすっきりして見やすいとか、言い張るに違いないが、この手法が伝統的な5W1Hを無視・逸脱しているのは明らかだし、〝事実〟に向き合う厳格・厳密な姿勢を欠いていることも明らかだ。〝事実〟を軽んじてなにが報道だ、情報だ、という批判は当然のことながら成立する。

〝弁える〟は慣習的日本語

映像・写真だけではない。言語表現に関しても、テレビや新聞の無神経ぶりは、いまや常軌を逸する水準に堕している。〝オリ・パラ組織委にも多くの女性が加わっているが、この人たちはよく弁えてきちんと仕事をしてくれ、おかげでうまく運営できている〟、と〝森発言〟の中で登場した〝弁えない〟という表現を、上から目線で高圧的、これも女性蔑視の現れだ、だと揃って断じたのは、難癖を通り越して、馬鹿丸出しというほかない。 〝弁える〟という言葉は本来、物事を筋道立てて説明・判断する、という意味だ。だからこそ、弁論とか弁明とか弁解とかという熟語が成り立つのだし、弁護士とか弁理士とかという職業名も生まれるわけだ。そこから派生して、場の空気に合わせる、期待された役回りをこなす、という意味合いで日常会話に使われることもあるが、これも上も下もないごくふつうの、慣習的な日本語にすぎない。

 それを間違って捉えるのは、聞き手の国語力の問題であって、話し手・書き手がとやかくいわれる筋合いはまったくない。〝弁えない〟のイマドキの若者言葉版というべき、空気が読めない、の〝空気〟のローマ字表記の頭のKと〝読めない〟のYを組み合わせた、KYという低級・下劣な俗流用語があり、この場合は対象人物への軽侮を込め、それこそ〝上から目線〟でテレビの世界などで常用されている。しかしそもそも〝空気を読む〟がKYだというのなら、百歩譲ってわからないものでもないが、〝空気を読めない〟の略を肝腎の否定助動詞のローマ字表記の頭1字を抜いて済ませようというのは、どう考えても無理な話だろう。

 この程度の鈍磨した言語感覚の持ち主が、一人前の顔をしてジャーナリズムの一角に横行し、流行を気取って珍妙な言葉を流行させるくらいならまだしも、公共の電波を使って〝報道〟したり、それをマル写しで新聞記事にしたりするのだから、たまったものではない。誤報の、捏造の、フェイクの、という以前の、これは異常事態だ。

付和雷同するイヌの群れ

 筆者が重ね重ねいってきたことだが、ソビエト国家が崩壊して30年余、マルクス・レーニン・スターリンの亡霊は、依然としてそこら中をうろついている。正統型に習近平・中国、金正恩・北朝鮮、増補修正版ならプーチン・ロシアなどがある。欧米や日本に昔から住み着いていた〝隠れマルクス信者〟は、左翼的思想法をリベラル、共産主義インターナショナリズムをグローバリズム、共産主義の教条をポリコレ=ポリティカル・コレクトネスつまり政治的公正さと称する独善的価値基準、そして〝民主集中制〟の分断を排して社会の統一を、というふうに言い換えて、新聞やテレビ、新しくはSNSを活動分野に、しぶとく生き延びている。そして、一犬虚に吠えると万犬実を伝う、といった具合に、首謀者・共謀者に多数の付和雷同者が加わり、隠然たる存在として世間に根を張っている。

 付和雷同するイヌの中には、テレビ局と同じ声で吠えないと番組をクビになる、と怯える〝ニュース芸人〟もいる。異論を唱えてテレビ側の制作意図に背けば2度と出演依頼がこなくなって世間から忘れられる、と惧れる能なしコメンテーターもいる。情けないことに、転勤がなく運がよければ芸能人とも付き合えると考えて受けた、テレビ局の採用試験に落ち、振り出しは地方支局勤務が定石の新聞社に、不本意入社した成れの果ての、社会部記者もいる。テレビと週刊誌で仕込んだネタを頼りに、政府与党に悪態をつくだけが唯一の芸の野党議員が追随し、NHKの国会中継でフェイク・ニュースのキャッチボールを展開して止まない。これが、いまの〝情報化社会〟の偽らざる素顔だ。

 彼らも〝森発言騒動〟の〝報道〟過程で、事実関係が食い違っていることに、全然気づいていなかったはずがない。気づいても、それは承知のうえで、大事の前の小事、森にケチをつけて騒ぎを大きくするためには、事実関係の整合性なんか気にするに及ばない、と考えたに違いない。そうしたことでは、もはやジャーナリズムの域を超えて、政治活動になっているといっても過言ではなかろうが、似たような構図は、大統領任期の後半から再選選挙に至るまでの時期に、アメリカのテレビ・ネットワークと一部の新聞が組んで仕掛けた〝トランプ叩き〟に、より強烈に存在していた。ポリコレの害悪もコロナ禍と並んでパンデミックの様相を呈するに至った、ということなのだろう。

番組内に仕込まれる集団暴力

 テレビの世界で隠語ふうに日常的に使われる業界用語に、〝いじる〟というのがある。バラエティやクイズ、ワイドショーなど、集団でつくる番組の、人間的に低劣で無能だが社内評価に直結する視聴率には極度にこだわるタイプの、プロデューサーが企画する。そして彼のいうことには従わざるをえない〝その他大勢〟組の出演者多数を使って、悪ふざけを仕組む。番組の柱の特定の出演者を標的に総掛かりで悪態・挑発・いじめ・意地悪・からかい、などの連発で意図的に怒らせ、その姿をみなで笑いものにするという、悪質・陰険な手口だ。

 なぜこうした集団暴力を、番組の中に仕込むのか。視聴者の意表を衝く、これも業界用語でいう〝盛り〟、つまり盛り上がりを意図的に、しかしいかにも脱線が突発したかのように演出して、いつまたあの〝余興〟が出てくるのか、と常連視聴者に思わせ、落ち目の視聴率にテコ入れしよう、という打算だ。

 昭和の終わりごろから、娯楽系の番組ではときどき登場していたが、さすがに報道系では見られなかった。それが、SNSに押されてテレビが全体として落ち目になり、苦し紛れの悪ふざけバラエティ感覚仕立てのひとつとして、まず〝情報番組〟、果ては〝報道〟の分野にも出没するようになった。

暗闇から鉄砲を撃った〝囲み〟会見

 短期間とはいえ、若いころ多少はマスコミの世界にいた森にも、テレビが仕組んだおかしな仕掛けにはめられてしまったな、という思いがあったのではないか。街道を歩いていたら突然首狩り族の集団に襲われ、わけもわからぬうちに巻き込まれて、気がついたらわが首を落とされていた、といった姿で辞任を表明したオリ・パラ組織委臨時総会後の、記者団とのいわゆる〝囲み〟会見で、(自分の発言に対する)解釈の仕方にもよるが多少意図的な報道もあった、と述べたのは、森のそうした認識の現れだろう。

 あのとき、森を取り囲んだ多くのテレビマンや新聞記者の背後に身を隠すようにして、社名も姓名も名乗らず、機関銃のように挑発的な〝質問〟をする若造がいた。森が感情的に反応して新しい〝失言〟をすればさらに騒ぎを煽ろう、という魂胆が明白だった。森もそこを読んで、どうせ面白おかしくしたいから聞いてるんだろ、と吐き捨てて〝囲み〟を去り、新しい騒ぎは起きずにすんだ。

 こういう手口は、暗闇から鉄砲を撃つ、といって、記者には絶対に許されない卑怯な行為とされる。新聞社では入社直後の研修で、先輩がきつく禁じているはずだ。それなのに無礼な若造を咎める声が、あの現場で、たとえ社を異にしていても、先輩格の記者から出なかったのには、心底驚かされた。

 あのときのやりとりは、テレビにばっちり録画され、放送もされている。ネット難民の筆者には知る由もないが、多くのユーチューバーが映像を保存し、シェアして、彼の所属社名や姓名がとっくに割り出され、ヤリ玉にあげられていても、なんの不思議もない。

 そうだとしても、暗闇から鉄砲を撃った行為の報いで文句を言える筋合いではないが、彼らがあれも取材活動の一つの手法で適切な行為だ、と思っているのなら、この際自ら名乗り出て正当性を主張してはどうか。ただしそれで袋叩きに遇っても知らないよ。

(月刊『時評』2021年5月号掲載)