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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第124回】

〝プーチンの戦争〟が示すもの 改憲・軍備の必要性明白、仕掛けられる戦争もある

ウクライナを侵攻したロシアは、国際法規などアタマから無視して民間人に対して無差別爆撃・砲撃を続けた。それはアメリカ空軍の無差別爆撃で多くの死者・被災者を出した3月10日の記憶に直結する。にもかかわらず、この点の関連性について、報道・論議が日本のマスコミにほとんど見られなかったのは呆れ返ると言うほかない。

意識すべき3月10日、11日

 一人一人の個人に誕生日をはじめ記念すべき日、記憶に止めるべき日があるように、国や民族にも記念すべき日や記憶すべき日がある。そうした特別な日はどの国にもどの月にもあるだろうが、それぞれの事情に応じて千差万別の個人的な日付はさておき、日本国民が共通して意識すべき日といえば、3月では10日と11日、この2日が常道だろう。

 いうまでもなく前者は77年前の大戦下、アメリカ空軍の無差別爆撃で多くの死者・被災者を出した東京大空襲の日。後者は11年前に東日本大震災・大津波が突発、それに起因する大浸水で、福島第1原子力発電所内で原子炉の爆発事故が起き、放射性物質を広く飛散させるに至った日だ。

 この2つの日付のうち、前者の印象は歳月の経過とともに薄れ、いまは新聞・テレビの回顧記事・番組でも後者がはるかに大きく扱われている。それはやむを得まい。

 3・10といえば、昔は1905年の日露戦争の終盤で大山巌が率いる陸軍部隊が、ヨーロッパから長途遠征してきた当時世界最強とされたロシア陸軍と、出先本拠の奉天(いまの瀋陽)周辺で大会戦を展開。完勝して戦勝の門を開いた〝奉天大会戦〟の日で、「陸軍記念日」と呼ばれた。この日と5・27の「海軍記念日」、東郷平八郎が率いる連合艦隊が、はるばる北海の奥にある母港を出航してヨーロッパ・アフリカ両大陸の西側に沿って大西洋をひたすら南下し、アフリカ南端の喜望峰を回りインド洋を北東方向に斜めに航海して2度目の赤道越えを敢行し、印度支那(現ベトナム)沖から東シナ海へ入る、という極端な大回りで疲労困憊の果てやってきたロシアのバルチック艦隊を、目的地のウラジオストックに着く直前に対馬沖で満を持して迎え撃った〝日本海海戦〟で完膚無きまでに潰滅させ、日露戦争勝利を確定させた日だ。この2つを並べて、法定された国の祝祭日ではないが、敗戦までは陸海軍と国民がこぞって祝う特別な日となっていた。

 終戦の年・1945年の3月10日は、サイパン島を発進した130機のB29爆撃機を主力とするアメリカ空軍による、非戦闘員であることが明白な一般人の木造住宅が密集する市街地を焼き払い、住民の生命を奪うことだけを目的としか考えられない、国際法・ハーグ陸戦法規を完全に無視した焼夷弾による大規模無差別空爆が、本格化した日だ。東京だけでも5回にのぼった大編隊による一連の都市爆撃の皮切りで、下町を中心にヒロシマ・ナガサキをも超える10万人といわれる多くの焼死者を出した。

 当時の東京は、隅田川を挟む江戸の面影を止める東側の下町と、武蔵野台地の末端から西に広がる明治以降に発展した新移住者が主体の山の手に、居住圏も生活意識もほぼ二分されていて、山の手の住民にとって3・10は対岸の火事的な感じがないものでもなかった。すぐそこで発生した、明日は我が身と観念させる大惨事であるにもかかわらず、もうひとつ切実感が薄い年寄りも多く、テキは陸軍記念日を狙ったな、などと気楽にいうのを耳にして呆れた記憶がある。

 しかし〝奉天大会戦〟や〝日本海海戦〟と〝東京大空襲〟の間には、僅か40年の歳月しかなかったのだ。そう思えば東京大空襲の体験者はもちろん、当時の世相を知る世代も極めて少なくなった77年前の話が、まだ記憶になまなましい3・11に較べて、新聞やまして当時の映像を無数に保存しているテレビで、お座なりな扱いしか受けなくなっているのも、当然な成り行きかもしれない。

点に対する反応は鈍く

 ことのついでに当時の老人、つまり明治時代の青年がよく使っていたロスケ、露助というロシア人に対する蔑称もウン十年ぶりかで思い出したが、本題に入る前に長々寄り道をしたのは他でもない。3・10と3・11、それと〝露助〟の間に、極めて切実・深刻だが日本の新聞・テレビも言論・世評も避けて通っている重大なポイントがあるからだ。

 それは2月末に突発したプーチン・ロシアによるウクライナに対する全面的な軍事侵略に発している。ロシア軍が世界が注視する中で展開する、国際法も戦争法規もアタマから無視したウクライナへの無差別爆撃や砲撃。非戦闘員なのが一目瞭然の婦女子や高齢者に対してロシア兵が容赦なく働くさまざまな残虐行為。さらに軍事行動に付随して起きた、ソ連時代に発生したチェルノブィリ原子力発電所事故の残骸の、現地職員による安全保持業務に対する妨害や抑圧。現にウクライナで稼働している15基の原子力発電施設に対する砲撃や占領。これら〝露助〟の無法・狼藉と3月の2つの日付が交錯するとき、日本人のだれもが重大・深刻な関連性を感じるのは当然のはずだ。

 しかしこれらの点に対する反応は、極めて鈍かった。たしかに〝プーチンの戦争〟は、世界を揺るがす重大事件として、連日ウクライナ各地で繰り広げられる悲惨で刺激的な映像を取り揃え、厳しく糾弾するコメントも添えて、長時間のオンエア枠をとり、これでもか、と世界中のテレビが伝えている。この点は日本も同じだ。

 ただ他国はいざ知らず、大規模な無差別空襲と原爆被爆、そして福島の原発事故を体験した日本は、それだけに止まっていいとは思えない。しかし、そのあるべきプラス・アルファが全然感じられない。それだけでなく、今回の事態で日本の日ごろの報道の欠陥、つまり意識してか、無意識なのかはさておき、公正を欠く偏向的な表現がこの期に及んでも続いている点も、指摘しなければなるまい。

 3・11に関連する報道では、福島の事態は、文字通り〝福島の原発事故〟と活字にされ、声になってきた。しかしこの事故には、まず東日本大震災があり、それによる巨大津波があり、その奔流が原子炉建屋を襲って冷却機構を損傷して爆発を引き起こし放射性物質を飛散させた、という経過がある。近接する宮城海岸の東北電力の原発のように高所に建てるべきだったとか、原発敷地の防水壁が低くて脆弱だったとか、問題があったことは否定できまい。爆発や放射性物質の飛散とは関係ないが、津波の規模を当初最大3メートルと気象庁が発表し、NHKはそのまま漫然と報じていた失態が、逃げ遅れにつながって死者を多くした点も、看過できまい。

キャタピラーが撒き散らしたのは

 ソビエト統治下のウクライナで起きたチェルノブィリ原発事故現場に残の安全管理部門が、今回の〝プーチンの戦争〟でロシア軍の砲弾を浴び、電源が破壊されて崩壊に瀕したのは、世界衆知の事実だ。プーチン・ロシアの目下の同盟者・ベラルーシから電線をつなぎ、ウクライナ側の現場職員を残らせて凌いだが、交替要員も乏しく、いつなにが起きるか、分かったものではない。彼らも観念したのか、結局ウクライナ側に戻したようだ。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は、3月23日の日本の国会議員に向けたオンライン演説で、チェルノブィリの事故現場30キロ圏内に残る放射性物質汚染の立ち入り禁止地区内に、ロシア軍が砲撃基地をつくっていた、と述べた。この基地から戦車がウクライナ各地に出撃し、キャタピラーに着いた泥で汚染を撒き散らした、とも語っている。それまで表に出ていなかった新情報だった。

 その情報をテレビの後追い解説はどこも触れなかった。新聞も筆者が見た限り『読売』はほぼスルー、『朝日』は要約でさらりと字づらで触れただけ。僅かに『産経』が、言外のニュアンスを捉えきれていない憾みは残したものの、ほぼ正確に詳報していた。

 汚染危険地帯に無法侵入した〝プーチンの兵隊〟がいずれ放射能に冒されて発症・死亡しても自業自得だが、広範囲の土壌のキャタピラー汚染は迷惑にもほどがある。ウクライナにはチェルノブィリの廃墟と別に15基の原子力発電システムが現に稼働していて、多くが〝露助〟の手に落ちつつあるが、それらが爆発したら、これは自然発生でも不慮の事故でもなく〝プーチンの戦争〟の産物だ。

 物事はすべて原因があり経過があって結果に至るのであって、結果だけを取り上げて原因や経過に触れないのは、正しい報道・言論姿勢ではない。日本では明らかに反原発を叫ぶ左翼勢力に迎合して視聴者を誘導しようと企み、地震も津波も無視して単に〝福島の原発事故〟という例がほとんどだ。しかしウクライナで〝露助〟の行為で放射能汚染や原発事故が起きたとき、その原因・経過を無視して〝ウクライナの原発事故〟といえば、欧米では、お前らはプーチンのプロパガンダのお先棒担ぎか、と批判されるだろう。その点を日本のメディアはよく弁えるべきだ。

日本に行った無差別爆撃に直結

 ウクライナ各地のプーチン・ロシア軍の連日の無差別爆撃・砲撃は、かつてアメリカ軍が日本に対して行った、3・10を象徴とし最終的には広島・長崎の原爆投下に至った無差別爆撃に一直線でつながる。この点は今回もはっきり指摘すべきだが、そのとき改めてアメリカの無法を糾弾すべきだったとは思わない。無差別市街地爆撃やロケット=ミサイルによる攻撃は第2次世界大戦で登場した新戦術で、規模は遥かに小さいが日本も中国各地で、ドイツもV2ロケットによるロンドン攻撃などをしている。それがドレスデン大爆撃や3・10、さらに広島・長崎にエスカレートした面も否定できないからだ。

 ただ、それら多くの惨禍の教訓から、第2次世界大戦後に古い国際法や交戦規則を見直し、空爆や砲撃などで非戦闘員を死地に追い込む行為を厳しく禁ずる条約や、新兵器の開発に伴い人道に反する利用を禁止する追加規定が、順次新設された。国際連合で協議を重ね、国際司法裁判所を開設して、戦争犯罪に関する個人責任の断罪も行っている。それらの事実は、直前にプーチンによるウクライナ侵略戦争が突発していただけに、今年の3・10で日本の報道・言論には見落とせない視点だった。それにもかかわらず、この点の報道・論議が至って手薄だったのは情けない。

 平和ボケした日本の報道陣の戦争、ことに一般人に対する空爆の影響に対する認識がここまで低く幼稚だったとは、日頃かなり採点の厳しい筆者も驚かされた。お笑い上がりの〝ニュース芸人〟や読む機械で頭脳は不要とされていたアナウンサー出身の自称キャスターはもちろん、一応は報道記者の経歴を持つものも専門家と称されるコメンテーターも、一様に四六時中空襲にさらされ爆弾の炸裂音を耳にしているウクライナ市民が、空襲警報が解除されればすぐシェルターから街頭に出て日常生活に戻るのを、異様な戦争慣れのように不思議がっているのには呆れ返った。

42年7月18日、最初の盲爆

 アメリカ軍が日本をはじめて空襲したのは昭和17=1942年7月18日、房総半島遥か沖に潜入した航空母艦から発進したB25爆撃機13機が、午後2時ごろ10機は東京、同4時ごろ2機は名古屋、1機は神戸周辺の市街地を盲爆し、シナ大陸に逃げ去ったのが最初だ。日本の戦局優位が続くうちは、アメリカ軍の空襲は途絶えていたが、形勢逆転し昭和19=1944年に、第1次大戦以降日本が旧ドイツ領を国際連盟の委任統治領としていたサイパン島の守備軍が玉砕し、攻略した米軍が基地を整備して、本格的に再開した。秋以降にまず新鋭のB29大型爆撃機が1機か2機、昼間に日本の戦闘機の上昇限度を超える1万メートル近い超高空で東京を偵察する帰途、行き掛けの駄賃式に手持ちの爆弾をそこらに投下していくようになった。11月24日に初めてB29の70機編隊が白昼東京の市街地を空爆。以後10機か20機規模の昼間の高空からの盲爆が続き、26日から27日にかけ初めて深夜に40機編隊が地域集中型焼夷弾爆撃を行なった。

 それ以降12月、年を越した1月、2月と50機から80機規模の空襲と、日本近海の出没するようになった空母の艦載機による攻撃が加わり、3・10に至ったわけだ。

生死を分かつこと、5回

 これらの記述は「東京空襲を記録する会」編集の『東京大空襲・戦災誌』(昭和50=1975年講談社発行)という、全5巻。各巻1000ページを超える大冊に基本的に依拠しているが、ここまで無差別爆撃つまり戦争が日常化すると、勤務も生活も学業もある子供を含む市民も慣れっこにならざるをえない。それが日常生活の形になるのだ。

 当時中学2年生の秋から3年生の始め、13歳末から14歳前半の筆者は、この間5回は紙一重で生死を分かつ体験をしている。最初は中学2年の秋、下校時に近道しようとグラウンドを歩いて上空を仰ぎ、超高空で偵察飛行中のB29を見つけた。警報は出ていなかったと思うが、しばらく見て歩きだしたら被っていた鉄兜になにかが当たり、兜のふちで方角を変えて左目の下、鼻の横に小さい傷をつけた。足元に落ちたのを拾いあげたら高射砲弾の破片で、まだなま温かかった。

 近くの後楽園球場の内野スタンド2階が高射砲陣地になっていたから、射程6000メートルの高射砲弾が届くわけがないのに撃った破片だろう。鉄兜が凹んだから直接当たればよくて重傷、ヘタすれば即死してもおかしくなかった。戦時下とは、そんなものだ。

 次は春休み。埼玉の知り合いの農家にイモの買い出しに行かされ、道がよくわからないからイモを背負って電車の線路を歩いていたら、空母から発進した艦載機の機銃掃射を受けた。食糧難の中、運が悪ければ途中でポリに捕まり統制物資のヤミ行為でブツは没収、一晩くらいブタ箱に入れられるのを承知で、コドモなら目こぼしされるかと一人で20キロくらいのイモを買い出しに行かせる親は、少なくなかったのだ。低空飛行で目標を見つけ、面白半分では追ってくる。機銃弾が上げる土煙りが向こうから一直線で急速に迫る。線路の反対側の土手に身を隠せば安全と口伝えで分かっているのだが、テキも素早く反転してなんども襲ってくる。この機銃掃射を経験した少年は仲間うちにも多かった。

 3度目は3年になって間もない4月13日の夜の2度目の市街地大空襲。自宅のある小石川周辺の住宅地を狙うと予告ビラが撒かれていたのか、母親ら女性は近くの六義園という森のある、ということは焼夷弾の被害を受けにくい公園に避難、14歳の筆者は父親とともに消火要員として街に残った。当時の社会通念では、旧制高校に入れば酒・タバコ解禁、旧制中学生は特典はないがオトナのハシクレだったのだ。果たせるかな、夜半に母屋と離れの渡り廊下を隔てた敷地内に250キロの大型油脂焼夷弾が落下、不発だったから助かったが爆発すれば焼死していただろう。

的確な判断で御所の通用門へ

 4度目と5度目は焼け出されて移った赤坂の祖父の遺宅で、5月24日から25日にかけて。この夜は、父親は勤め先の宿直で不在。祖母と母親、肺結核で休職療養中の40代半ばの叔父の4人で、庭を1メートルほど掘り下げて板を渡して多少土を盛っただけの、気休めにもならない防空壕にいたら、叔父が母親(筆者から見れば祖母)と不在の兄貴の家族(つまり筆者母子)を守るどころか、一人でふらりとどこかにいってしまった。そのとき、母屋の中心部に小型焼夷弾数個が落ちて発火。うかうかすれば逃げ遅れるから祖母の手を引き、母親をせかして焼け始めた部屋を突っ切り玄関から脱出。いまの国道246号線、赤坂御所に沿う市電通りに走った。

 一息ついて周囲を見ると左手は燃えていない。右手は道沿いの能楽堂が盛大に燃えているが、その先はビル街と豊川稲荷で燃えている様子がない。母親は左に向けて走り出したが、いま燃えていない木造住宅・店舗地区はこれから延燃するに決まっている。能楽堂の火が道を渡って御所の土手に届いているが、火には風向きも手伝って息継ぎのように止む瞬間がある。道と土手の間に低い空掘りがあり、機を見て身を屈めそこを抜ければ御所の通用門はそこだ。広い構内に逃げさせてくれるかもしれない。そう考えて祖母を背負い、母親を促して右に走った。

 これが正解で、右の青山一丁目方向に逃げた人の中からは翌朝、筆者が左に走った地点を起点に空堀内も、青山一丁目から神宮外苑の絵画館付近にも、いまは高級ブティックが並ぶ表参道一帯には特に、多数の戦災死者の遺体が残されていたものだ。

 筆者は多くの人たちとともに御所の通用門に辿りついたが、職員も警官も衛兵も門を閉ざして中に入れない。門前に30人ほどで固まっていたら、直撃こそなかったが小型焼夷弾を束ねて落とし、空中で解体してバラ撒く仕掛けの枠の鉄材がすぐ横に落ち、足に大ケガをした人が出た。さすがに警官が対応したが、少し落下場所が違えばこっちが即死してもおかしくなかったわけだ。筆者はいらい、皇室はいざ知らず、宮廷官僚や警護警察は国民の命を守るより職務最優先で動いていると思っている。その判断はいまも変わらない。蛇足だが母親を甥に任せて逃げた叔父は、横町の向かいの敵国カナダの大使館に逃げ込み、旧館中の留守番が用意した紅茶で過ごしたそうだ。焼け跡にひょっこり出てきた。

 被災後1週間ほど、だれとも知れぬ黒焦げ死体が2つ2軒先の門前にある、タタミ2枚分ほどの一面焼け跡の防空壕で、父親を含む5人で暮らした。そして祖母と母親の3人、身一つの難民として上野駅で満員列車に潜り込み、北陸の母親の里に落ち着いた。

80歳の感想は全部ヤラセ

 筆者は1950年代の大阪の新聞社の社会部サツ回りを振り出しに、活字と電波の双方で政治中心のジャーナリズムの世界で生き、ことしが70年目になる。いまも本稿を含めて4本の連載記事を書き続けているが、ほぼ隠居暮らしで大方の年寄りのように、テレビの前で的外れが甚だしいアナウンスやコメントに、バカヤローと怒鳴ることがある。戦争報道のたびに、いかにも素朴げな老人を使って、戦争はいけませんねえ、戦争だけは二度としてはなりません、と勿体振って独りごとをいわせているときが、最も多い。

 あれは全部ヤラセだ。戦争体験者という触れ込みだが、ウソ八百だ。彼らの口調・身振りはせいぜい80歳だ。戦時下はせいぜい赤ん坊、親や他人の話を誇張する〝語り部〟と称する職業的〝騙り屋〟だ。実際に従軍した兵士は現存者は最若でも95歳。戦地になった沖縄を別とすれば、至近距離に焼夷弾が落ちて発火したり、敵の戦闘機の機銃弾が遠くから一直線で迫るのを身をもって体験した人間は、いま若くても85歳以上だろう。

 戦争には〝する戦争〟もないとはいわないが〝される戦争〟もある。必ずしもしようと望んだわけではないが、相手方の策謀によってせざるをえない局面に追い込まれて始めざるを得なかった戦争もある。日本の近代史を考えれば、日清・日露の戦争と昭和の一連の戦争の最後になった真珠湾奇襲に始まる日米戦争は、後者に分類するのが妥当だろう。満州事変や支那事変には、前者の傾向も診られないものでもなかろうが。

 いずれにせよ開戦の決断をするのは政治家であり、その背後には軍人集団がある。民衆にとっては戦争はすべてが〝される戦争〟だ。現にウクライナで展開されている〝プーチンの戦争〟は、権威主義独裁国家が絶対権力者の思い込みによって戦争を突発される、その恐怖とメカニズムを端的に示した。いやも応もなく、突然目の前に降って湧く戦争もあるし、それによって引き起こされる民衆の無数・無限の悲惨もあるのが世界の現実だ。いけません、してはなりません、と呪文を唱えていれば避けられるものでは断じてない。

 それならどうすればいいか。それはこれから考えるとしても、平和ボケの思考停止状態は断じて脱しなければならない。プーチンの同類は遠くない土地にも存在しうるのだ。

(月刊『時評』2022年6月号掲載)