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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第131回】

不定期シリーズ3 ジャーナリズム最後の段階としてのテレビ〝情報番組〟 ニュースの劣化は底抜け状態 就職で不動産屋と二股かけたニュースキャスター 金融業界ボスが会長に居座る公共放送の低俗一途

今さらながら、テレビの劣化はとどまるところを知らず、ニュース番組でもジャーナリズムへの志は喪われ、NHKには報道と娯楽の分別が付かないトップが就く、そして同じ顔触れの〝専門家〟が複数局を股にかけて同一コメントを繰り返す。もはやテレビは、ニュースを、国民をナメているとしか言いようがない。

あまりに隔絶した将来像に仰天

 腰を抜かすほど驚いた、といっても決して過言でも誇張でもない。心底、驚き呆れた。

 この秋の話だ。武士の情けで敢えて名を秘してやるが、某民放テレビ局の夕方のニュース番組で、男女2人組のキャスターの片割れの男が、あとで言及するNHKを含めて、このところこの種の番組の常套手段になった本業の合間の私的雑談で、季節の話題として来春卒業の大学生の就職内定式をとりあげた。そして自分は就職の際に、現に社員出演者を務めるテレビ局と某不動産関連会社を受け、ともに内定を勝ち得たが、悩んだ末にこの会社を選んだ、といったのだ。

 テレビ局と不動産業。後者も現にテレビCMを盛大に打っている大手だから、本人としては、有名企業を二つ受けて二つとも内定を獲った、と自慢するつもりでいったのかもしれない。しかしそうだとしても、筆者としてはびっくり仰天するほかない。

 この二つの業種は天と地ほど違う。テレビもジャーナリズムの一角とするなら、そこで働くのを志すことと、不動産業で働こうというのとでは、青年が描く自身の将来像として余りにも隔絶している、と思うからだ。

 不動産業といっても、業態は千差万別だ。超高層ビルを中心に一つの街区を作り出す、ディベロッパーと呼ばれる開発事業もある。個人住宅関連でも、プレハブ・メーカーから町の工務店まで多種多様だ。一方には、巨億の高層ビルの社屋スペースの仲介から場末の廃屋の売買も扱う業者までの、売買・貸借の仲介専門もある。テレビ局員の男があげたのは始終CMを出す大手の仲介業者だ。

 職業・業態に貴賎はない、という建前論は当然承知している。だれもが必ずしも希望する職種で生涯働けるわけではない、という現実も無論弁えている。しかしディベロッパーが建築を学んだ青年や都市政策に強い関心を抱く学生にとっては野心的な志望目標だとしても、テレビが娯楽産業とは別にジャーナリズムの側面を持っているなら、そして現に報道の側面を持つ職務に当たっているなら、質的に全然違う覚悟と目標意識が欠かせまい。

テレビ業界には享楽路線も

 発足当初は低レベルの娯楽映画にすら及ばぬ〝電気紙芝居〟(Ⓒ大宅壮一)と呼ばれ、茶の間の安直な娯楽装置の位置付けだったテレビだが、民間放送の電波がキー局・地方局を通じ新聞社系列に応じて割り当てられた経緯も反映して、当初から新分野の開拓者を意識していた欧米諸国のテレビ専門局にくらべて、報道・言論機関の色彩がより強調された観があった。ニュースや政治・経済・国際情勢の討論番組などは、系列新聞社が送り込んだ編集部門の管理職が出向して、ニュースの構成や討論テーマの決定、出席者の選定などに当たった。本場アメリカでニュース伝達のリレーの最終走者として画面に現れるアンカーマンと呼ばれる、日本ではニュースキャスターと呼ぶ役回りや、討論の司会にも、記者出身者が当たっていた。筆者も16年半勤めた新聞記者から、フリーの立場ながら系列のラジオ、さらにテレビ報道の場に移り、都合17年半、定時ニュースのキャスターや、ラジオでは土曜の午後、テレビは日曜の朝が定位置だった政治討論の司会・進行役を務めた。フリーの政治記者として評論執筆や講演に活動の場を広げてからは、討論する側にも加わったが、70年も昔の新卒・就職に際しては、新聞記者以外、念頭になかった。

 当時の日本は武運拙き〝焼け跡・闇市〟の敗戦国だが、そのかわり文運長久の機運は高かった。大手の新聞社は難関だが、ローカル紙や専門紙もある。隣接領域の雑誌社・出版社が雨後のタケノコのように生まれていて、それぞれが旗幟を鮮明に活発に動いていた。新聞記者に、よりはっきりいえば一管の筆・一本のエンピツに生涯を託す志を持つ青年には、修行過程で生活上の便法として不動産業界に身を置くことはありうるとしても、当初から不動産仲介業と報道・言論の世界に二股かける考えの持ち主は、絶無だったろう。 

 もっともテレビには、少なくとも日本のテレビ業界には、新聞社が持ち込む報道・言論を当然の本義とするジャーナリズム路線と、映像が決定的にモノをいう映画の世界から持ち込まれた娯楽的・享楽的路線との、二元対立が常にわだかまっていた。運がよければ番組に出演する若い女優や歌手とつき合うチャンスを掴める、映画の制作現場に近い職場だと思えば、幅広い業種の企業とのダブル就職活動も自然の話だったのかも知れない。目算が狂ってなんの因果かアナウンサーになり、ニュース的な番組を担当する羽目になったものの、テレビをジャーナリズムのハシクレといまだに信じている旧石器人のような時代遅れの視聴者の批判なんかオレ様とはなんのカンケイもない、と思っていたことも、まったくありえないとはいえまい。

趣きを変えた〝お友達人事〟

 そうしたいまのテレビの世界の異質・異様な顔合わせの極限に、税金まがいの視聴料を全国民に強要して成り立つ〝公共放送〟の頂点に、金融業界の超大物が鎮座ましましている姿がある、といえるのではないか。報道・言論の世界と金融業界とは、不動産業界よりさらに距離が遠いだろう。NHK会長には、かつては新聞界の古株や文人気質の外交官あがり、学会の長老、といった人たちが座っていた。労組の力が強まり、その委員長が社会党左派の議員になって、虎の威を借りた局内左翼分子の横行が目立ったせいか、現場を掌握する内部実力者が会長に据えられた時期もある。そのころは政治記者OB・製作畑の実力者・再び政治記者OBの会長が続いた。

 筆者の感じでは、15年ほど前に終わったこのトップ体制のNHKが、報道・言論だけでなく教育・教養の面でも、国家が維持する公共機関の位置に値する一定のレベルを堅持していたと思うが、その後管理部門出身の会長時代を経て、安倍晋三元首相の〝お友達人事〟と定評があったいまの超場違い筋の会長になって、大いに趣きが変わった。

 彼の本来の専門領域である経営の分野で、かねがね組織の肥大化と経費の増大が問題化していた体質を引き締め、一部の中波・衛星の〝波〟の整理・廃止を図る一方で、懸案のテレビ衛星契約の視聴料を引き下げる面では手腕を発揮し、世間の予測より大幅の値下げ案の策定に持ち込んだのは、評価できるだろう。しかし専門領域外のことに対しては軽々しい口出しは慎めばいいのに、視聴料値下げを決めるより前から、放送内容に関して、現状は堅苦しい、もっと多くの視聴者が楽しめるようなものにしたい、と主張してきた。

 しかし娯楽的要素の多い〝電気紙芝居〟調なら、民放がいくつもあるのだから、そこに任せればいい。仮にも、もともとは逓信省直轄の政府の現業部門だったNHKが、いまだに公社公団的な経営形態で、税金まがいの視聴料を強制的に徴収して存立している以上、明確な公益的な目標がなければならない。それはまず災害などの緊急事態に対応した広報体制を常に整えておくこと、そして迅速・的確な報道に徹することでなければなるまい。

 民放も、国民の共有財産である公共の電波を、国の時限的な免許のもとに私的・営利的に利用している事業体だ。したがってその公的側面に対応する義務として、公正・的確・迅速な報道が事業の一環に求められるのは、改めて指摘するまでもない。ただNHKに対してはその要求度が格段に高い、彼らの場合は視聴者にとって親しみやすい、楽しい番組を提供するのは断じて至上の使命ではない。

地方ニュースの質が極端に劣化

 その分別が、金融業界出の会長にはなかったのだろう。そこにNHKが長く先輩格として、比肩すべき目標にしてきたBBCが視聴料の完全廃止に踏み切るという〝外圧〟が加わる。早急に大幅な引き下げ案を示さなければならないことになれば、一般に事業経営者の感覚ではまず経費削減を図るのが当然だ。NHKであれ民放であれ、経費を食う割りに視聴者受け、世間の評判の面で、ドラマや歌謡番組などの娯楽番組に較べ劣っていて、費用対効果の計算が立ちにくいのが報道であることは、間違いない。常に相応の人数を配置し、いつ、なにが突発するかわからない事件・事故の発生に備える、文字通りの報道の第一線は、経費圧縮の最初の標的だ。

 NHKの場合ニュース、ことに厳しい人員削減の対象になった県域放送局発の地方ニュースの質が極端に劣化したことは、大規模な災害や事故が起きたときに民放と見くらべれば一目瞭然だ。取材者や撮影クルーを含めて出張費や滞在など費用が嵩むドキュメンタリーも、ニュース性の高いものは極端に減り、質的低下、放送時間の短縮を取り繕う苦肉の策か、再放送による穴埋めが増えた。娯楽系番組でも、駆け出しのお笑い芸人を多用したバラエティ仕立てばかりが並ぶ印象になり、固定番組でも例えば芸能人の系図自慢だとか大昔の歌手・俳優の一代記の連続ドラマ化とか、ケチケチ臭、チープ感にまみれた大衆芸能指向がやたら目立つようになった。

民法が重荷を切り抜けた二つの側面

 事実報道に徹したニュースが採算上の重荷になるのは民放も同じだが、民放は国民の電波を商業利用する代償の重荷を、二つの側面で切り抜けてきた。一つはもともと持つネットの仕組だ。まず東京、一部は大阪の会社に電波が割り当てられた民放は、各県に新局の免許が認可されると、それぞれの系列に応じてネット化を進め全国をカバーしていった。県ごとに存在する地方局はそれぞれが独立した会社で、本社機構を備え、県域の発生ニュースに対応する体制を整えている。その費用はキー局会社の経営上の負担にはならない。

 二つ目には、ニュースを単体でニュースとして扱うのではなく、ワイドショーとして娯楽化したことだ。これもアメリカ直輸入の手法だが、ニュースを正統的なニュース価値の評価の順で並べるのではなく、話題性・関心度に応じて〝調理〟し〝味付け〟して番組化し、大衆的視聴者の興味を引きつけようとした。そして高い視聴率をあげ、日用的必需品の流通業やそのメーカーなどをスポンサーにつけ、〝情報番組〟という名の商品化に成功した。公益性を持つ事業として宿命的に負う重荷を収益力の高いドル箱に変えたのだ。

正統的なニュース、すでに絶滅

 いいかえると民放テレビは〝電気紙芝居〟だけでなく〝電気井戸端会議〟を兼ねることでより広い世代の大衆にアピールして、経営的にも相応の成果を上げたわけだ。その手法はニュース報道の面にも浸透した。これは明らかに邪道なのだが、いつしか定着し、NHKにもその手法が〝感染〟していった。

 たった二つの、それも特異なケースを例にとって一般論に拡大されても困る、という批判は出るだろうが、テレビの世界では報道・言論機能の軽視はもはや後戻り不可能の、決定的な状況になっているのではないか。

 早い話が、いま新聞の最終面を開いてテレビ番組欄を見ると、民放には〝ニュース〟と銘打たれた時間が、ほとんど見当たらない。黒字に白抜きでNと記したせいぜい5分程度の枠がところどころに残っているが、これは本来のニュースではない。フラッシュ・ニュースというにも値しない、よくて町の発生事件の一報、たいていは行事などのヒマ種だ。かつて定時に固定して時間をとっていたニュースは、思い思いのタイトルを名乗る〝情報番組〟という〝電気井戸端会議〟に変わった。そもそも当事者自身が〝番組〟と呼び、ニュースとはいわなくなって久しい。

 NHKは見栄を張っているのか、体面上なのか、いまだに番組表もオン・エア時のタイトルもニュースと称し続けてはいるが、各正時に5分ほど置いてある〝ニュース〟はタイトル倒れもいいところのお粗末さだし、正午や午後7時、同9時の〝ニュース〟は、つまるところ民放の〝情報番組〟と大差ない、ストレート・ニュースとその関連情報や周辺開設に重点を絞るのではなく、だらだらと尾鰭をふんだんにつけた世間話に多くの時間を割くようになってしまっている。その意味ではテレビの正統的なニュースは既に絶滅した、といってなんの差し支えもない。

キャスターの判断を前面に

 筆者がテレビ・ニュースを担当したのは35年も前の昭和末期の8年半だが、当時すでに、のちに民社党から参院議員になった木島則夫の〝モーニング・ショーは存在していて、高い人気を博していた。午後には専業主婦向けの午後の〝よろめきドラマ〟もあれば、ワイドショーの〝3時のあなた〟もあった。〝類似商品〟も次々出ていた。

 しかしそれらは、NHKはもちろん民放各社でも、ニュースとは異質の〝番組〟とされていた。ニュースはあくまでもニュースで、決まった時間に系列の新聞・通信社出のヴェテラン記者が、そう長くない時間枠で、淡々と事実関係を伝えるのが常道だった。NHKとの違いは、彼らが記者と同列で取材し執筆した放送記者の原稿をアナウンサーが読んでいるのに対して、民放のほうは読み方は滑らかでなくても、多年ニュースの現場を踏んできた記者の信頼度で裏打ちする点だった。

 筆者がテレビで長く担当したのは、夜11時の15分枠のニュースだ。前後のタイトル部分とCMを除けば正味は12分ほどだが、この時間帯に顔を揃える民放他局は、その日のニュースの総まとめ、という造りにしていた。これに対して筆者は、テレビ局の報道局長がもともと新聞記者時代の部長で、互いによく分かっているので、局側が完全にニュース項目の選択から扱う順序まで、つまり編集一切を〝裏〟で仕切って、キャスターは基本的には記者経験に裏づけられた説得力を武器に伝える、という姿を根本的に見直した。

 そしてキャスターである筆者の判断で、明日の新聞の朝刊の主見出しを、いわゆる面立てに沿って内政・国際・経済・社会の順に先取りし、事実の骨格だけを短く、しかし可能な限り多く伝えるという意図で、ニュースの選択・配列をした。どうしても骨格だけでは消化不良になるテーマに絞って、30秒を限度に映像を排してキャスターを正面から捉えた映像だけで、最低限の解説、筆者のニュース評価や展望を添えることにしていた。

 この方式は一般視聴者にはともかく、政治家や官僚、ビジネス社会の幹部などには便利だと認められ、彼らの視聴度が高かった。電気事業連合会や銀行協会など、個別企業ではなく業界を束ねる団体が並ぶスポンサーの評価もよかった。一方で映画界からの流れを汲むテレビ・プロパーの側からは、新聞流儀の完全な押し付けだ、という強い反発が出たことは否定できまい。

ニュースの〝番組化〟が急速に

 報道局長が専務昇格後、テレビ局から系列出版社の社長という〝上がりポスト〟に移ったのと前後して、筆者もNHKからフリーに転身した人物に席を譲った。それに合わせてそれまで報道局はニュース一本槍、ワイドショーはドラマや歌謡番組などと同様に制作局の所管、としていた〝壁〟が崩れ、ニュースの〝番組化〟が急速に進んだ。ライバルの民放各社やNHKも、その急展開に引っ張られる観を呈するようになった。

 思えばこの時期は、テレビ局と不動産仲介大手の入社を志望した、と現に公言する人物が、まだコドモだったか、やっと少年になったか、という時代だったろう。番組をより面白くしたい、といったNHK会長は、銀行の支店の窓口からちょっと奥まった位置の現場管理デスクで、出納状況を監督していた新任管理職だったかもしれない。別の視点でいえば、筆者や新聞社・テレビ局を通じた先輩・上司が記者として経験した時代は、敗戦から復興に突進する、それ以前にもそれ以後にもなかった〝文運〟の最盛期だったのだろう。

 おぼろげな記憶を辿れば、シナ事変に突入する前の〝昭和一桁〟時代の新聞の一面は、注目すべき内外の重要事件でなく三行広告、といっても多くの読者には分からないだろうが、新聞記事3行のスペースで細かく仕切って職人や労務職・店員の募集、入居者を求める下宿屋や貸間主、下請け仕事の発注を求める町の零細企業などの広告が、題字以外の全紙面を埋め尽す、異様な体裁だった。

 テレビが主導するいまの〝情報化社会〟のジャーナリズムは、一時の〝事実〟の発掘・検証・確認を出発点とする世界から、事実を踏まえつつ一定の意図のもとに話題を展開させる〝物語〟の世界に移ってしまった。

〝(党の)物語〟演説にも仰天

 冒頭に筆者の一つの〝仰天〟体験を紹介したが、もう一つ〝仰天〟を並べると、中国共産党大会で党創設いらいの不文律を覆して3期目の5年間の新しい任期に入った習近平総書記が締めくくりの演説で、全中国国民は中国共産党の改革と発展の物語を共有しなければならない、と述べた点だ。決定文献をなによりも重視する共産党の歴史的体質を知るもと共産党専門記者として、習がスルリと〝(党の)物語〟といってのけたのには、驚いた。

 物語には筋立てが欠かせない。起承転結も整っていなければならない。なによりも読まれるためには興味本位、とまではいわないにしても事実の刈り込みや修飾は必要だ。

 つまり物語は特別につくられた〝事実〟であって、事実そのものではない。事実はそれぞれ違うし、偏跛だし、不細工だ。ニュース報道が力の及ぶ限り事実を拾い集めたり、個々の事実の周辺事実を洗い出したりする作業であるなら、それは物語とは全然違う。

 〝党の歴史〟と〝物語〟の間にも、同様の微妙な、しかし決定的な違いがあるはずだ。そうした違いは、意外に意識されたり、認識されたり、識別されたり、していないのかもしれない。虚実皮膜の間、という表現があって、その際どい一線が新聞の解説記事を含めた文筆の世界では勝負の一線なのだが、テレビという〝見せるのが第一〟〝見ればわかるさ〟と割り切った世界では、そうした面倒くさい考え方はしないのだろう。

 いまのテレビ主導のジャーナリズムに、報道本位、ニュース至上主義、といった価値観の持ち合わせはない。世間で話題になっている事柄を、なるべく視聴者の耳目を引くように料理して、同じ素材の味付け方でライバルと競争しよう、という考え方だ。だから、たまたま目前に降って湧いた〝事実〟にいっせいに食いつき、メディア・スクラムと呼ばれる状況で、ほぼ同じ筋立ての〝物語〟を編み出し、騒ぎ立てることになる。そして〝事実〟をしゃぶり尽くすと、新しくだれかがどこかで見つけ出した別の〝事実〟に、またもや雪崩のように押し寄せて、共通の切り口、共通の口調で、ひとしきり騒ぎ立てるのだ。

安直な姿勢の象徴

 そうした中でも物凄いとしかいいようがないのは、コロナであれ、ロシアのプーチンが仕掛けたウクライナへの侵略戦争であれ、どこのテレビを見ても片手の指の数にも満たないほどの〝専門家〟が連日連夜顔を出し、変わり映えしないコメントを飽きもせずに繰り返していたことだ。いうほうは聞かれたから話すのであって責任はなく、チエも芸もないのは聞き手のテレビ局側だが、安倍元首相の暗殺に端を発した旧統一教会の問題については、片手の指の数どころか、ほぼ2人が、全局を駆けめぐってしゃべっていた。

 新聞ならイマドキよほどの事情がなければ4紙も5紙も併読して紙面を比較・検証する人はいないだろう。しかしテレビは故障していない限り、安い機械でも、衛星の討論番組も含めれば両手の指の数ほどある局のすべてを一瞬で見ることができる。そのことを知らないわけでもあるまいに、あの局に出ていた彼・彼女は使えそうだからウチも使うか、と声をかけてお茶を濁すのは、ニュースを、政治・経済・国際問題の討論番組を、よほどナメていて、お座なりにやっているとしか思えない。テレビは、もはやジャーナリズムでも報道機関でもなくなった。これが言い訳のつかない、明白な証拠だ。文句あるか。

※本稿執筆後、NHK新会長が決定した

(月刊『時評』2023年1月号掲載)