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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第79回】

「平成」あと半年 改めて問う 不毛の根源(上)

 漫然と時日が過ぎる中、「平成」も残すところあと半年余。改めて今、マスコミがおそらく直視するのを避けている問題について検証する。第一は、「論より証拠」を裏返しにした、「〝証拠"より論」という視角が、いまや喫緊のものになっているのではないか、という点だ。

予想通り漫然と時日を消化

 現天皇が「お気持ち退位」の意思表示で始動スイッチを押したタイム・テーブルは、容赦も忖度もなく正確に回転して、「平成」の世は余すところ半年余となった。
 筆者は本誌の今年2月号から4月号までの3回にわたって、中村草田男の「降る雪や 明治は遠くなりにけり」(1931年作。『長子』所収)の句を引きあいに出し、この句が「明治」の世が終わってから正味13年半にも満たなかった「大正」を挟んではいるものの、実はまだ20年も経っていない昭和6年の春に発表されている事実を指摘して、「平成」が終わって新しい元号の時代に移ることは、二代昔の世になってしまった「昭和」が遠く忘れ去られていくことだ、という問題提起のもとで、「平成とはいったいどんな時代だったか」に関し、私見を述べた。そして、かつて「昭和」終焉に当たり、産経新聞の『正論』欄の筆者として大喪当日の欄を担当し、またフジテレビの連続45時間にも及ぶ『Xデー特番』の単独司会者を一貫して務めた体験を踏まえて、「昭和」が苦難と苦渋と苦闘に彩られた「光輝と成就の時代」であったとすれば、「平成」は自らの努力不足・勤勉の欠如を棚に上げて不平不満・身勝手な文句を並べ立てる「怠惰とミーイズムの時代」といわざるをえない、と断じた。
 さらに新聞・電波・総合雑誌、そして多くの論客の著書による分析と評価を通じて、マスコミ各分野が競って多彩かつ無数のさまざまな視点・論点に立った「昭和」論を生み出していた往時にくらべ、これから展開されるだろう「平成」の総括は、量的には多く、世間に溢れ返っているように見えても、テレビやSNSが垂れ流した映像のゴミの山から、思いつきで拾った"絵〟を並べて、幼稚園の定番卒園ソングよろしく、あんなこともあったね、こんなこともあったよ、と断片的"事実〟を並べるだけの、平板で安易極まるものになるだろう、と予測した。
 メディアの世界は、まさに筆者の考えた通りの状況を具現しつつ、漫然と時日を消化しているように思われるが、あと半年余に迫った「平成」の30年間を冷静に考えると、とてもそんな世相風俗のパッチワークで語られていいほど、簡単なものでないことは明白である。あるいはまた、テレビの"ニュース芸人〟どもが、軽薄な台本作家が走り書きした手垢まみれの台本に沿って、こんご口々に合唱するに違いないのだが、リクルート事件に始まりモリ・カケに終わった、というほど安直なものでないことも確実だ。

無秩序、惰性、放漫財政の30年

 たまたま日本では「平成」の名で一括して捉えているが、1990年に始まり、ミレニアムをまたいで2020年に至る、この30年間は、国際政治・世界経済的に見れば、ソビエト崩壊によって東西冷戦が終結し、アメリカ一国が世界で"極〟を形成する"ユニポール〟時代を迎えたかと思ったのも束の間。EUやイスラム諸国、BRICSと総称される新興経済国などが台頭して多元化・多極化が趨勢となる中で、それぞれが自らの立場・主張・利益に固執する、無秩序・無統制、前代未聞の混乱・混迷の30年だった。
 国内政治を見ても、初期の細川・羽田政権と終期の鳩山・菅・野田政権と、二つの非自民政権が、ともにハプニングめいた成り行きで出現したものの、極度の無知・無能・無経験をさらけ出して破綻する一方で、唯一政権運営能力を持つ自民党も、活力・知力・能力の衰退は覆うべくもなく、その日暮らし・政策不在の惰性状態に陥ってしまった。
 経済面でも、バブル崩壊に伴う"空白の20年〟が、"アベノミクス〟の放漫財政が齎したケガの功名によって一息ついた感はあるものの、少子高齢化と社会の成熟が必然的に招く需要の縮小つまり消費の低迷、老朽化する公共インフラの更新と膨張せざるをえない社会保障負担に対応できない財政の無力、こうした差し迫った懸案に対応する有効な手だてはまったく打てないまま、漫然と財政赤字を積み増し続けている状況にある。
 これら多面的かつ根源的な課題のそれぞれについて取り上げることは、限られた誌面の及ぶところではないし、そもそもマスコミの世界で六五年暮らしてきた筆者にとって、多少は手の届く領域もあるが、知見に乏しい分野も少なくない。そこでこれらのそれぞれについては、別途専門家の識見を待つことにして、ここではその背景に共通に存在する問題点、それもマスコミが、全然気づいていないわけでもあるまいに、たぶんわざと目を背けて直視しようとしない二点にしぼって、論じることにしたい。

〝証拠より論"の喫緊と「責任感」のなおざり

 その第一点は、イロハ歌留多の「論より証拠」を裏返しにした、「"証拠〟より論」という視角が、いまや喫緊のものになっているのではないか、ということだ。第二点は、高い地位にあるものの「責任感」のあり方、すなわちノブレス・オブリージュという、古くて常に新しい問題が、余りにもなおざりにされていないか、という疑問である。
 まず第一点だが、"平成〟の30年が通信と情報、そしてコミュニケーションの様相を一変させる歳月だったことは、だれもが認める事実だろう。これまでもさんざん書いてきたことだが、1970年代にそれまでの光学的撮影機とフィルムによる映像収録に代わって、エレクトロニクス技術を十二分に駆使した、ハンディな撮影機とビデオテープによる収録、そこから直接映像を編集する機器が出現したことで、メディア環境は激変した。当初はテレビ事業者だけが高いコストをかけて新システムを導入する状態だったが、たちまち技術的にブレークスルーして、高度化・小型軽量化・低価格化し、こうした装置が家庭や個人のレベルに普及するようになった。
 それと同時に、有線の固定式か、せいぜい自動車に搭載できるように"小型〟化した無線システムしかなかった電話が、だれもがポケットに入れて持ち歩くことができる、携帯電話に変身した。さらにその携帯電話が、単なる通信機器ではなく、当初は大部屋一つを天井まで占領するほどの規模で真空管を連結しなければ動かせなかったコンピュータによる情報の集積・記憶・検索の機能を丸ごと組み込むことで、通信と情報処理の機能を一体化したスマートフォン=スマホに発展した。スマホは、旧式の携帯電話同様、衛星通信のネットワークを通じて、国内はもちろん世界のどことも交信して、文字情報だけでなく動画映像まで、照会・検索・伝達・交換することを可能にした。そうした"進化〟が一挙に劇的に進んだのが、日本で"平成〟と呼ぶ時代だったのだ。

新聞・テレビの没落と堕落

 通話だけの機能しかない携帯電話はともかく、いまやスマホは単に会話や文書の送受信だけでなく、音声を伴った動画をかなりの長さで記録し、編集・保存・送受信したり、古今東西の百科事典・歴史年表・各種統計や人名記録などあらゆる事項を検索して一定の意図に沿って集積・整理したり、そうした作業や分析のうえに立った独自の"情報〟を流したり、といったことを可能にした。こうした変化は、だれに対しても高い利便性を保障する反面で、だれもが情報操作や謀略情報の流布が容易に可能になったことを、意味している。かつては権力機構や、少なくとも一定規模以上の大組織でなければ、能力的にも費用的にもできるわけのなかった手の込んだ情報を武器に使う細工が、ちょっとした知識・操作能力さえあれば、イタズラ半分でも、愉快犯的動機でも、政治的・党派的な意図でも、老いも若きも、右も左も、個人レベルで簡単に実行可能になったのだ。
 言い換えると、相当の資力を要する活字・電波メディアと違って、だれもが発行・発信元になれるエレクトロニクス・メディアが、急速に普及・成長・拡大したのだ。それと裏腹に、かつて栄耀栄華を誇っていたテレビは新しいパーソナル・メディアに圧倒されて、内容的にも経営的にも下降線に入った。その反映は、まず費用対効果が極めて悪い報道の分野に大きな経費をかけない、という経営姿勢となって現れた。そして、ロクなコストをかけずに刺激性の高い話題に飛びついて視聴率を稼ぐ狙いから、安易にSNSに流れる映像や不確実な断片情報を、なんの吟味もせず裏づけもとらずに、公共の電波に垂れ流すという、無残な堕落にまで至ってしまった。
 テレビの台頭以前にマスコミで無冠の帝王を自負していた新聞も、自らが政治に働きかけ、系列企業として支配・育成したはずのテレビに、下克上のかたちでカネも政治力も握られて没落した。かつては少なくとも報道に関しては、ヴェテランの新聞記者が系列局に天下ってすべてを取り仕切り、テレビ局員を指導・教育していたのに、いまやテレビ・キー局の入社試験の落ち武者が、不本意入社で新聞社に拾われているケースが少なくないという、主従逆転の姿になって久しい。
 全盛期の新聞では、"スクープ〟といえば特ダネで号外を出すレベルのニュースを指していたものだし、独自ネタであっても、確実にウラをとったうえで、その断片的"事実〟が一連の全体状況の中でどう位置づけ、評価されるものか、執筆した記者はもちろん、出稿するデスクも、紙面に載せる整理者も吟味し、部長や当日・当夜の編集責任者の目も通したうえで、はじめて活字にする仕組みを確立し、維持していた。
 しかしテレビは、多少とも視聴者の注目を引くと思われる映像なり音声を入手したら、あったもんはあったもんだろ、と居直って信憑性の確認も裏とりも、全体の脈絡に照らしたニュース価値の評価も考えずに、たとえ本質的に当面する問題の本筋から遠く逸れた断片的な風聞にすぎなくても、独自に入手したニュースだと称して、センセーショナルに伝えて憚るところがない。テレビ本隊でさえそうなのに、経費節減でマスコミの底辺にあって資質的にも能力的にも貧しく、きちんとした職業的訓練も受けていない、ヤジ馬集団ともいうべき制作プロダクションに、ニュースの根幹部分の制作を丸投げしているケースも少なくないのだから、話にならない。

罷り通る、放言レベルの情報

 そこに、いまや"個人通信社・無規範テレビ局〟と化した、SNSと総称されるパーソナル・コンピュータ・メディアが加わったのだ。彼らにも広告がつき、受信数に応じて金銭が得られる仕組みができたことが作用し、昔なら酒場の無責任な放言か、井戸端会議の噂話に過ぎないレベルの"情報〟までが、世の中に大手を振って罷り通るようになった。
 決定的瞬間に遭遇したシロウトが撮ったスチール写真が新聞紙面を飾ることは、昔から珍しくなかった。同様のことがテレビにあっても、必ずしもおかしくはないだろう。しかし、仮にも税金まがいのカネを取って運営する国家機関であるNHKが、放送の中で視聴者に動画投稿を呼びかける、などというザマは、取材態勢を縮小して他力本願でニュース素材を得ようという狙いだけでなく、投書魔にも通ずるシロウトの自己顕示欲を刺激して視聴料の収入拡大につなげようという、一石二鳥のあざとい策略が見え見えの、醜態というほかない。そのうえに、実際のところあるのかどうか、少なくとも公の場には登場されない非正規の"音声〟が、肝心の"声〟抜きで一人歩きし、話題最優先・面白半分メディアのテレビを皮切りに、似たような体質の週刊誌、さらに情けないことに新聞までも巻き込み、野党も無定見に便乗して政局化する事態は、どう考えても異常というほかない。
 いうまでもなく、初老の高級官僚と若い女性記者の二人きりの"酒場〟での費用支弁も不透明な"取材〟。その場で盗み録りした会話の無断録音。その"素材〟を自らの報道目的で使うのならまだしも、週刊誌に提供つまり売り飛ばしたこと。そうしたトリプル職業倫理違反の産物であるにも拘わらず、党派的意図と絡んだ"証拠〟となり、大ニュースに仕立てられた、財務事務次官のセクハラ発言の問題をいうのだが、ここには論じ、質し、正すべき視点は山のように存在する。しかし対話全体の流れと切り離した片言隻句の録音がある、つまり"証拠〟がある、という一語だけで、肝心要めの"音〟さえ実は明らかになっていないのに行政、そして政治の信頼性にかかわる大問題になってしまったのは、脱線・暴走も甚だしい、といわざるをえない。
 まさに歪んだ「論より証拠」の典型というべきだが、そんなことでいいのか。テレビや週刊誌が持ち出す断片的な"証拠〟に、ついうかうか引っ掛かって付和雷同式に騒ぐのではなく、いまや「"証拠〟より論」という姿勢が必要になっている状況なのではないか。筆者の問題意識の根源はここにある。

信用喪失は当然の報い

 こうした弊風は、なにも"平成〟の日本固有のものではない。アメリカであれ欧州であれ、多少の程度差はあるとしても、エレクトロニクスが齎したパーソナル・コミュニケーション、あるいは公共性と商業性と個人性の三つの流れが乱立するメディア状況を、権力機関が言論統制などせず、自由奔放に機能させている国では、似たような姿が日常茶飯事になってしまっている。大衆的情報源であるテレビ、それにも増してSNSに流れる断片的な"証拠〟が、政治・社会に微妙に影を落とすコミュニケーションの病理現象が、世界的に一般化してしまっているのだ。
 新聞・テレビの伝えるニュースや解説・論説を、SNSを駆使して片っ端から"フェイク・ニュース〟すなわち眉ツバ情報だと一刀両断したトランプが、彼自身の言い分にも少なからず"フェイク〟くさい面があることを否定すべくもないにも拘わらず、世論の一定部分の支持を掴み、マスコミの圧倒的予想を覆して、大統領選挙に勝利したこと。就任後も、メディアの総攻撃・集中砲火に曝されながら、アメリカでは必ずしも高いとはいえないとしても、40%台の支持率を維持していること。こうした事実は、多くの視聴者が、いまやテレビを代表とする既存メディアを、偽りの"証拠〟を使って情報操作を図る、信頼に値しないシロモノだ、と考えている実情の反映であることを、疑う余地がない。
 現にテレビ・ニュースは、先入観に基づいて無数のアングルの中から意図的に捨った映像だけを使ったり、いつ撮影したのか見当もつかない保存映像を現実と被らせてみたり、似た顔の無名の役者を起用して歪曲・誇張した芝居をさせた"再現映像〟を多用したり、だれの目にも偽造の"証拠〟と一目瞭然にわかる手口を、平然と多用している。これではテレビ・ニュースや、正規のニュースとは一応ワン・クッション置いたつもりで"ニュース番組〟と称しているシロモノも、信用されないのは当然の報いだ。

欧米世論の右傾化にある構造

 アメリカやヨーロッパで広がる反移民の動きや、その中で拡大する世論の右寄り傾向にも、その底には同様の構造があるだろう。ボロ船で地中海を渡り、ヨーロッパのどこかの海岸に流れ着くべく、小さなボートに乗せて放り出される難民。メキシコから手段を尽くしてアメリカに越境する不法移民。彼らの映像は、さしたる苦労もなく入手できる。
 しかし、時として彼らの中に潜むテロリストや麻薬密輸人に接近し、その実態を捉えるのは、ジャーナリストの本来の仕事だが命懸けだ。そこまでいかなくても、目的地に辿り着いた難民や移民が、思わしい職に就けず生活苦から犯罪に手を染める姿を追うのも、困難だし、危険だし、手間も費用もかかる。
 そこでテレビは、簡単に手に入る"証拠〟映像に、当世風リベラル・ヒューマン調で口当たりよく味付けしたコメントをあしらった"ニュース〟を、安易・安直に流して、自己満足する。そして"良心的〟でリベラルな報道姿勢だと仲間褒めし、正当化する。
 だが視聴者は、テレビ映像に流れる難民の中にテロリストや麻薬密輸人が潜んでいかねないことを知っている。仮にも"ニュース〟と名乗るなら、そこにも触れるべきだと思っている。"不法移民〟は"不法〟がアタマについているのだから、まずその"不法〟性を具体的な証拠に基づいて明らかにすべきなのに、肝心のポイントを避けてキレイ事で済ますのはおかしい、と感じている。なにかにつけ"アメリカに死を!〟と叫ぶ集団が、彼らに向けたアメリカの民生支援削減に抗議するデモで、例によって"アメリカに死を!〟と叫ぶ姿をテレビで見て、彼らの願い通りアメリカが死んでも援助だけは届くと思っているか、と呆れている。しかし、そうした当然の疑問に、テレビも新聞も、"学者〟も"国際ジャーナリスト〟も、全然答えようとしていない。これでは、"偽証〟の上に成り立った"偽善〟が既成マスコミのイメージとして定着しても、自業自得というほかなかろう。
 ましてそうした既成マスコミと二人三脚を組んで空疎な建前論を振りかざし、難民・不法移民を座視してきた左傾リベラルの政権・政党への対立勢力が台頭するのも、民意の赴くところ、必然といって差し支えない。

"論〟抜きの"フェイク〟が闊歩

 話を戻して、"証拠〟をでっちあげることは、エレクトロニクスを駆使した技法を使えば、いまやだれにでもできる行為だ。しかし"論〟を述べることは、そう簡単ではない。それなりの研鑽が不可欠だし、世間に通用するにはそれなりの技術的修練も経験も必要になる。そこがプロとアマ、技能者とドシロウトとの間の、壁であり、違いだ。
 その壁を打ち破る、あるいは打ち破れなくても壁を通り抜ける回路を開くのが技術だ、という考え方がある。近現代を律してきた思考方式がそれだった。その行き着いた先の、少なくとも主要な位置にあるのが、エレクトロニクスでありコンピュータだ、と思われるが、そうした楽天的な技術的進歩主義では賄い切れない分野は、数えるのがヤボというほかないほど世の中に無数に存在している。
 印刷され、街頭で売られ、発行翌日にはせいぜい弁当の包み紙になって終わりと思いきや、綴じ込み、縮刷版、マイクロ・フィルムから電子データとして、未来永劫に"証拠〟が残る新聞は、誤報だ、フェイクだといわれては末代までの名折れだと考える。したがって少なくともテレビに押されて衰退期に入るまでは、神経質に組織として事前の記事管理と事後の記事審査システムを保ってきた。記者もヴェテランになればなるほど専門化を高め、報道・言論の質的向上を期した。
 そこへいくと、事前審査もなく寸刻を争って電波を空中に放出したっきり、事後の検証もしないでやってきたテレビは、政治も経済も、外信ネタも事件ものも、スポーツから芸能までも、お子様ランチならぬ子供ニュース調の、たった一人が上から目線で、なにもかも"これでわかった〟と講釈する仕組みを、いまも取り続けている。常識に等しい話題でも"知られざる〟と勿体をつけ、平板に上っ面をなぞるだけの説明でも"読み解く〟と大層ぶるのは、NHK固有の体質と思っていたらギョーカイ共通の手口になってしまった。「論より証拠」とはいうものの、"論〟抜きの偽装くさい"証拠〟映像と誇張したしゃべりの合わせ技に進化した流儀が、単に公私のメディアの世界にとどまらず、いまや社会の多くの局面にまで、時代の潮流となって及んでいると思わざるを得ない末期症状が、いま、われわれの眼前にあるのではないか。
 角度を変えていえば、いまや"論〟抜きの"フェイク〟が、テレビの世界、メディアやSNSの分野だけでなく、政治をはじめ、社会の多くの局面をのし歩いているのではないか、という思いがある。それが、政治が政治であり、社会が社会である以上は、責任を負わなければならない立場にある階層の、考えられぬ無責任さと深く結びついているのではないか、と思われるのだ。この点は次回に。

(月刊『時評』2018年10月号掲載)