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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第95回】

主人持ちのテレビ(NHKなど)に報道・言論の自由なんかない

〝公共放送〟の在り方をめぐって、日本・オーストラリアそれぞれで当局との紛議が起きたが、両国間には同列には到底語れないほど質に格差がある。紛議の内容を検証するほど、NHKがいかに言論・報道機関として半人前か、よくわかる。

〝公共放送〟めぐる日豪の紛議
 2019年の後半、オーストラリアの〝公共放送〟ABCと日本の〝公共放送〟NHKで、それぞれ放送内容をめぐって当局と紛議が起きた。この問題は最終決着に至らないまま、ともに年を越したようだ。

 この紛議には、報道・言論の自由の基礎・基本にかかわる、重大で本質的な論点が存在していた。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、ABC・NHKの両当事者や彼らに肩入れする〝応援団〟一味は、その論点をことさらずらして一般化しようと企み、無知な視聴者大衆を巻き込んで彼らの根本的誤謬を正当化し、かつ現に進める左翼的な世論工作をより拡大しようとしている。

 本題である〝公共放送〟の基本的性格、見方によっては弱点とも恥部ともいうべき要素について論ずる前に、まずABC・NHKそれぞれの当局との紛議について説明すると、ABCはかつてアフガン戦争に参加したオーストラリア陸軍の兵士の一部が、現地で戦闘員でもゲリラでもない、子供を含む一般民衆を殺害したという〝調査報道〟で、ニュース源との関係を問われたのが端緒だ。

 この古びた〝ニュース〟が、事件当時現場に居合わせた同僚兵士の回顧談が端緒なら、格別問題にならなかったろう。実際はオーストラリア陸軍省が軍紀上の事件として調査・記録し、秘密指定して保管する資料が、直接流出したようだ。そこで捜査がはじまった。

 ABCのテレビ・ニュースをキャリーするNHKの海外ニュース紹介番組で、同時に流れるイギリスBBCの関連項目とともにたまたま見たのと、断片的な新聞記事を読んだだけだから、情報量は不足している。事柄の性質上、報道主体の立場を反映して、豪・英のテレビも外電中心の新聞もバイアスがかかった取り上げ方をしている。その点を補正して判断した前提の話になるが、当局が直接疑いを持ったのは、取材し放送原稿を執筆した記者ではなく、取材源の陸軍省職員だったようだ。彼の捜査と証拠固めが目的で、少なくともその名目で、記者の身辺と勤務先のABC局内にも捜索の手が及び、それが〝報道の自由〟に対する侵害だとして紛議になった。

マンガのようなNHKの騒動
 NHKはそれに較べればマンガのような下らない話だ。中曽根康弘首相の〝国鉄分割民営化〟の成功に倣って小泉純一郎首相がヤナギの下の2匹目のドジョウを狙った〝郵政民営化〟は、郵便の大赤字と、郵貯・簡保という庶民的零細金融・保険のユニバーサル・サービス網の分断、そして事業の収益向上を焦った簡易保険事業の不正販売問題を生み、いまも災厄を垂れ流し続けている。その中でNHKの情報番組「クローズアップ現代+」が2018年4月に簡保の不正問題を取り上げ、末端の郵便局員の〝告白証言〟を根拠に「郵便局員が保険〝押し売り〟」という刺激的なタイトルでオン・エアした。その続編を〝被害者〟の情報提供で作ろうとして、〝証言者〟を集めるためNHKの公式ツイッターでマンガ動画のタレ込み募集をかけた。

 そのマンガ動画が余りに低俗で強い悪意を前面に出していたこと。そもそも〝取材〟目的のタレ込み募集を公式ツイッターを使ってマンガ動画でやるのは、到底正当な取材行為とは考えられないこと。こうした理由で民間会社になった日本郵政の幹部がNHK経営委員会に抗議。動画の削除と謝罪を要求した。

 これを受けてNHK会長は、事情を調べたうえで続編企画の制作延期を決め、日本郵政に謝罪した。そしてNHK経営委員会は、この件で会長を厳重注意処分にした。ところがNHKの番組制作現場、NHKの労組・日放労、そして朝日新聞を筆頭とするお定まりの左派報道機関や毎度同様の顔触れの左翼〝学者・文化人〟が、〝前歴を笠に着た圧力だ〟〝NHK上層部の制作現場への不当介入だ〟〝これでは公共放送・NHKの理念が守られない〟と騒ぎ、立憲民主・共産・社民など左翼野党も同調して政治問題化したのだ。

安全保障に関わる豪の問題
 この二つの紛議は、違うといえば天地ほど質が違うが、〝公共放送〟で起きた問題という共通する面も持っている。違いから触れるが、ABCは明らかにオーストラリア陸軍の軍紀と情報管理、大きくいえばオーストラリアの安全保障の根幹にかかわる、政治的な問題だ。事案の軽重はあるが、仮にも軍が機密指定して漏出を禁じた情報が外部に出た事実が明らかな以上、流出先が外国の情報機関であれ国内の報道機関であれ、その経路を調べて流出源を突き止め、漏洩元に対する注意や配置転換、状況によっては軍紀・公務員規則に基づく懲戒処分、刑法犯としての軍法会議付託などの対応をしなければならない。

 同時に、情報入手が報道機関に認められる範囲の正当な手段だったか。金銭や酒色による買収行為・脅迫や役所・自宅に不法侵入した窃取など、不法な方法をとっていないか。その確認の必要もあったはずだ。

 オーストラリア独特の政治構造の反映も、考えられる。日本と違ってこの国は、保守と左派との間でしばしば政権交替が行われる。現在は保守政権だがその前は労働党政権で、それも労働党内部にも根強く存在する親米路線を否定し、極端な中国すり寄り政策をとる人物が首相だった。この時期に中国が経済面でも移住の面でもオーストラリアに急激・広汎に浸透し、各地で摩擦を起こしただけでなく、中央・地方の政治家と利権を巡る多くの疑惑を生んだ。それが連続して発覚し、現在の保守政権下の豪中関係にも暗い陰を落としているといわれている。

 加えて習近平独裁体制が強化される中で、〝一帯一路〟と称して東シナ海を足場にヨーロッパに向けた海陸の交流ルートの開拓・定着を図る中国が、メイン・ストリートのインド洋とはまるで方角違いの太平洋、それも中部のマーシャル諸島海域からさらに赤道周辺・南太平洋にも手を伸ばし、米豪日三国による太平洋秩序を打ち破ろうとする動きを顕著に示している。太平洋中央からオーストラリア大陸の東側に散在する島嶼国に対して、資金供与とセットに中国企業が施工する、つまり中国が利益を吸い上げる仕組みを強要し、工事した設備に機器を潜ませて、探知した情報を中国本土に常時送信を可能にするような、通信・港湾インフラの整備を進めている。

 最近はより露骨になり、インド洋のスリランカで奏功した、資金提供の担保として押さえた土地に、いつでも軍事利用に転換できる海洋拠点を構築する仕組みも、太平洋海域で広げているとされる。こうした状況では、今回の情報漏出が軽率なヤクニンと軽薄なテレビマンの単純な偶発事件か、どちらか一方が中国のスパイないしはその協力者か、両方とも中国のスパイ組織の構成員か、そこを確認する必要があると、オーストラリアの軍・情報機関・警察が考えないほうがおかしい。

 性根の入ったスパイなら、そう容易に泥は吐くまい。ABCはABCで〝報道の自由〟のお題目を下ろすわけにはいくまい。こうなれば双方が睨み合う形勢は動かず、真相は関係者間ではほぼ察しがついても表面に出ず、有耶無耶になってしまう確率が高いかもしれない。事柄の性格上、それもありうる。

旧軍部の致命的欠陥を彷彿
 これにひきかえNHKのほうは、問題自体も下らないが状況も幼稚で、まるで話にならない。言論・表現の自由への圧力だ、NHK運営の自主性・自律性を定めた放送法への経営委員会の不当な介入だ、と批判側は主張するが、左翼的独り合点、見当違いのアジだ。

 「朝日新聞」2019年10月3日の記事は、〝クロ現〟の暴走、ことにNHKの公式ツイッターで悪意に満ちたマンガ動画を使ってタレ込みを募る手口に対して、「(放送行政を所管する)総務省情報通信政策局長を務めるなど放送行政に詳しく、2009年7月~10年1月に事務次官を務めた」現日本郵政の上席副社長が、NHK経営委員長に文書で抗議した点を、圧力だと問題視する。そしてこれを受けて経営委員会がガバナンス(企業統治)強化の観点でNHK会長を厳重注意し、会長らNHK執行部が自らの非を認めて陳謝する文書を日本郵政側に送った点を、経営委員会や会長による放送法違反の報道現場への介入だ、と主張している。

 「朝日」はこの問題で数多くの記事を載せているが、前掲の記事では「NHKの編集の最終責任者は会長だが、実際は放送総局長が分掌し、個々の番組は現場に任せる運用だ」と書いている。確かにそれが実情だが、これこそがNHKのガバナンスの不備、不徹底の象徴であり、問題の根源なのだ。

 こうした組織運営のあり方は、「ワガ国ノ軍隊ハ世々天皇ノ統率シタマフトコロニゾアル」(軍人勅諭)という建前のもと、実際は軍政は陸・海軍大臣、軍令は陸軍参謀総長と海軍軍令部長がそれぞれ分掌し、さらにその権限はそれぞれの下部機関にずるずると際限なく降ろされていき、実態は統帥権つまり天皇大権の名のもとに、軍閥内部の派閥争いの勝者、それもその陣営の血気盛んな下っ端の青年将校の意のままになるという、日本の旧軍部の壮大な無責任体制を生んだ、統制の致命的欠陥の引き写しであるからだ。

 放送法は日本放送協会(NHK)を一般放送事業者(民放)とは別の一章を設けて規定し、「経営委員会は、協会の経営方針その他の業務の運営に関する重要事項を決定する権限と責任を有する」、「会長は、協会を代表し、経営委員会の定めるところに従い、その業務を総理する」、と明記している。

 会長が最大の業務である「放送番組の編集等」の〝総理〟に関して落ち度があったとすれば、経営委員会がそれを咎め、正す「権限と責任を有」することは、明確だ。会長がその権限を放送総局長をはじめ、さまざまな局長や地域・職種の管理職に〝分掌〟させ、さらに〝個々の番組を〝(制作)現場に任せ〟て放任すれば、まさに下克上そのものであって、下級幕僚や青年将校が勝手に国防を私議し戦争を企図し、戦闘行為まで独断専行した旧陸軍と、同様になってしまう。最高責任者の経営委員会が〝現場〟の暴走を〝総理〟して抑止すべき会長を監督する〝権限と責任〟を果たすのを怠れば由々しき問題だが、法を忠実に執行するのならなんの問題もない。

自由の司祭という思い込み
 「朝日」の記事は、そこの見方が完全に逆立ちしている。「朝日」には昔から、自分が言論・報道の自由の司祭だと思い込むヘキがあるようだ。それに加えて、ここぞと力点を置く記事には「角度をつける」(2014年に設置された「朝日新聞の慰安婦報道を検証する第三者委員会報告書」の岡本行夫委員の指摘)つまり特定の視点を決めて臨む社風がある。要するに〝言論・報道〟の名で政治・社会現象を裁判官として断罪するわけだ。

 その体質が、戦時下の朝鮮人従軍慰安婦に関する延々とした誤報の連鎖や、慰安婦問題で社長の引責辞任と足掛け13年に及ぶ記事13本の一括取り消し、という大失態を生んだ。あるいは、この問題の追及の端緒になった、2011年の東日本大震災とそれに伴う巨大津波が引き起こした、東京電力福島第一原子力発電所の苛酷事故に関する、政府事故調査委員会の場での、吉田昌郎所長証言の、悪意に満ちた歪曲報道にも、つながった。

 今回も、かつて監督権限を持っていた元事務次官の〝官〟の圧力に対するNHK〝制作現場〟の〝民〟の抵抗、という観念的な図式に立って、反官・反権力の左派的〝角度〟つきの記事にしようとして、筆が滑り〝青年将校〟を持ち上げる、「朝日」の常日頃の主張とはまるで正反対の、〝見当識失調〟を起こした観がある。おまけに一連の記事で放送法の条文を引用したのはいいが、引用した内容と条文の数字が違うという失態も演じた。これでは放送法を熟知する日本郵政上席副社長に、バカにされても仕方なかろう。

 なぜこんなザマになったのか。その理由は10月18日付「朝日」の社説の、

 「公正な報道活動は、圧力や横やりにひるまず問題を告発する覚悟の上に成り立つ。NHKであれ朝日新聞であれ、その基盤を守る重責を忘れてはなるまい」、

 という部分にある。これを当然の主張のように受け取る向きもあるかもしれないが、実は大間違いだ。「朝日」のいう〝公正な報道活動〟は、そもそも自分の能力、才覚だけで生きる〝覚悟〟を持つ個人、あるいは自立して経営する新聞・出版・放送企業に〝成り立つ〟ものだ。独立独歩で自らの生計を賄うことができず、いいトシをして親の扶養家族を続けている人間は、一人前扱いされない。自力で収支を償うことができず、親会社の補給金や国の補助金なしにはやっていけない企業も、マトモな会社とは見られない。それと同様に、視聴料という名で税金紛いのカネを国民のフトコロから、それも最高裁判所の確定判決という国家権力の最高の発動を根拠に、巻き上げて〝成り立つ〟NHKは、言論・報道機関として半人前、というほかないのだ。

NHKに対する歴史的な違和感
 NHKのような姿を、古い表現で〝主人持ち〟という。世の中には多種多様な〝主人持ち〟がいるが、この言葉は大正デモクラシーの残像とソビエトの興隆の中で肩肘張って横行していたプロレタリア作家が、私小説専門の志賀直哉らをプチブル文学の典型と批判したのに対して、志賀側が、お前らこそスターリンやコミンテルンのいうがままの〝主人持ち〟の身ではないか、と反論したことに始まる。昭和戦前から敗戦後・高度成長前夜の左翼全盛時代までは、必ずしも共産党系だけでなく、政党・宗教団体・業界や企業、労組・団体などの機関誌紙を〝主人持ち〟の新聞・雑誌と呼び、自分たちと明確に区別するのが新聞記者社会の通念だった。

 早い話、機関紙の類いは日本新聞協会に加入できない。協会が加入社の記者のために設けた建前の記者クラブにも出入りできない。NHKは協会にも記者クラブにも加入を許されていたが、それはエンピツとメモ帳しか持たない放送記者だけに限られ、映像カメラやまして録音機材は、政治家・高官私邸の〝夜回り〟はもちろん、公式の記者発表のとき以外は記者クラブに立ち入り禁止だった。放送記者でさえ、NHKをもじって、イヌ・アッチ・イケー、という地口を日常的にいわれていた。いうまでもなく、飼い主に忠実な〝イヌ〟は〝官憲の手先〟の蔑称だ。冗談めかしてはいるが、新聞記者が視聴料で食っているNHKに対して抱く、違和感を示していた。

 「朝日新聞」も他の中央紙・地方紙や民間放送のラジオ・テレビと同様、読者が払う新聞代や広告主が払う広告料を中心に、出版収益・事業収益、社有不動産の賃貸収益なども加えて経営しているはずだ。断じてどこかの団体の補助で運営する機関紙ではない。それならオレは独立不羇の言論・報道機関だ、という矜持があるだろう。なければならない。「朝日」の論説委員ともあろうものが、言論・報道にかかる初歩的かつ伝統的な区別を弁えず、別の見方でいえば「朝日」を、明らかに法と最高裁という権力機構の作用で「成り立っ」ている〝主人持ち〟のNHKと同一視するという、自らを貶める不見識を働いたのは理解不能だ。万人の目に左寄りと写るに違いない「朝日」の論説委員にも、いまや遠い昔の左翼全盛時代の常用語の基礎知識を、持ち合わせていないのかもしれない。

時として〝トラの威を借るキツネ〟に
 閑話休題、オーストラリアのABCやイギリスのBBCがどのような形で国家権力の庇護を受けているのか、筆者は知らない。ABCが国家国民から与えられる特権に応えるべく、日常的にどのような工夫、努力や貢献をしているのかも、知らない。BBCが、少なくともラジオではニュース専門やクラシック音楽に限定した周波数を持っていること。テレビ・ニュースもアメリカや日本にくらべればわりと公正かつ抑制的だし、一般番組も装置の考証に神経を使った連続歴史ドラマや良質のドキュメンタリーなど、一定のレベルを保っていること。事業の面では、ヴィクトリア女王が亡夫の追善のために建てた6000人収容のロイヤル・アルバート・ホールを真夏に2か月近く借り切り、70近いコンサートを連夜廉価で主催し、全プログラムを中継放送するプロムスをはじめ、大きな文化イベントを主宰して国民に貢献していること。などは一応承知している。

 BBCにくらべNHKはもともと低俗だったが、ここ10年ほどは殊にひどい。内容も出演者の顔触れも、民放の二番煎じをぬけぬけ続けている印象が強く、無謀な冒険とか、曲芸飛行や自動車レースとか、興味本位もここまで堕ちたか、という番組ばかりだ。

 こんなシロモノを税金紛いのカネで流す必要が、どこにあるのか。〝主人持ち〟のNHKの〝主人〟が、安倍自民党政権でも行政機構としての政府でないことは、間違いない。〝主人〟は当然主権者である国民全体で、NHKもそう考えているのだろう。だが彼らは視聴者国民をナメきっている。〝主人〟のレベルを極端に低く見ている。だからこそ、批判に遇うと低俗・俗悪化を強めるのだ。

 〝主人持ち〟は時として〝トラの威を借るキツネ〟になる。NHKの対共産中国、極左化する韓国文在寅政権や、国内〝市民団体〟への卑屈な擦り寄り方には、目に余るものがある。その一方で彼らの〝官〟体質は、視聴料収奪に見合う唯一のマトモな貢献である災害時の告知で、〝官〟そのものの気象庁の役人の口調そのままに、直ちに命を守る行動をとってください、と上から目線の命令口調で繰り返すところに、端的に露呈されている。視聴料が化けた潤沢な取材費を使って借りた海辺のリゾート・ホテルの部屋から、私たちは安全なところで取材しています、としゃべりながら、荒れ狂う海の映像を流す無神経さにも、彼らの高慢な〝官〟的体質は露呈されている。隠してもボロは出るのだ。

分割民営化か、選択有料積算制に
 前述の日本郵政の上席副社長は当初、恐らく身分・氏名を隠して〝クロ現〟の内容、とりわけタレ込み募集のマンガ動画に、たぶん電話でクレームをつけたと思われる。そのときのNHK側の対応が木で鼻をくくったような横柄さで、不誠実を極めたので、彼は、これでは話にならん、と怒って身分・姓名を明かして、NHK経営委員会会長に、抗議文を送ったのではないか。彼が記者会見を求められて、〝クロ現〟のスタッフはまるで暴力団だった、と語り、再度の記者会見で詰問口調で撤回を求められても、断固として〝まるで暴力団〟という表現を維持したのは、よほど腹が立った事実があったからに違いない。

 個人だろうが民間の企業・団体だろうが、官庁・行政機関、さらに政治家や政党だろうが、報道で中傷や誹謗、あるいは業務妨害を受けたとき、それに関して抗議するのは基本的人権に基づく当然の権利であり、言論・表現の自由の行使の一形態だ。言論・表現の自由は、なにも言論・報道を業とする企業・団体・個人だけの占有物ではない。もちろん左翼だけの独占物でもない。それがわからないところに「朝日」や、それと通ずるNHKの〝上から目線〟体質の根源がある。

 有料の衛星テレビやSNSを含め、情報化がここまで進んだ時代だ。ラジオ草創期の遺制である税金紛いのカネで運営する〝公共放送〟は使命を終えた。NHKは分割民営化して、国民の共有資産である電波を商業利用するのは民放も同様だから、全テレビ局が非常時には娯楽放送を中止し公益情報周知に徹する義務がある、という制度にすればいい。

 急な転換が無理なら、NHKは無料のニュース・公益情報サービスと、〝放送と通信の統合〟による双方向性を活用した、低廉な教育・教養番組と、制作費を反映した料金の娯楽・遊興番組の、選択有料積算制に移行すればいい。それならすぐにもできるはずだ。

(月刊『時評』2020年1月号掲載)