
2025/10/06
25年前から日本で記者として活動していますが、いまだに驚くことがたくさんあります。フランスで生まれ育った私には、日本の文化、社会、習慣、日本人独特の考え方など、まだまだ分からないことばかりです。仕事をしながら、日々学んでいます。学んだことをさらに取材し、理解した上で記事やルポルタージュにしてフランス人の読者やリスナーに伝えています。まさに記者の役割です。
母国であるフランスでは日本ブームが起きています。従って、多くのマスコミが日本についての記事を掲載しようとし、出版社は日本についての本を出版しようとします。そのため多くのフランス人記者が日本に来て、取材をします。日本語も話せず、日本の社会を理解していないにもかかわらず、無理やり記事にするのです。場合によっては本も出版します。割と良いものもあれば、どうでもいい内容もあります。でも、とんでもない内容であればあるほど話題性が高くなり、フランス人は信じてしまうのです。100回嘘をつけば事実になるみたいな現象が起きてしまっています。
象徴的な例は「蒸発」です。10年ほど前から、多くのフランス人にとって日本は「蒸発」の国となっています。そう言われても、読者の皆さんは「意味が分からない」と戸惑うかもしれません。約10年前、フランスの新聞や雑誌が、突然姿を消して失踪した日本人についての記事を掲載しました。同じテーマを取り上げたテレビやラジオの番組もたくさんあります。「日本での蒸発」という現象として説明されています。立教大学の中森弘樹准教授は「ジャーナリストたちのいう〝蒸発〟とは、人が唐突に姿を消してしまい、戻ってこないことを指しています。失踪と意味はほとんど同じです。この言葉の用法は、日本語としても間違っているわけではありません。実際に、〝蒸発〟は人の失踪という意味で、1960年代から70年代にかけて、日本のマスメディアの報道で盛んに用いられていたという経緯があるからです」と指摘しました。ただ、現在の日本社会では、その意味での「蒸発」という言葉を聞く機会はほとんどありません。また、日本で失踪する人は他の先進国より特に多いとは言えません。フランスでも、突然姿を消した人は年間数千人ほどいます。つまり、「蒸発は日本の社会問題」とは言えないのに、さもそうであるかのように10年以上前から繰り返し報道されているのです。
きっかけは『Les évaporés du Japon(日本での蒸発)』という一冊の本でした。フランス人で記者のLena Mauger(レナ・モージェ)氏と写真家のStéphaneRemael(ステファン・レマエル)氏が数回来日し、失踪経験のある数人を取材し、写真の多いノンフィクション書籍を出版したのです。英語版も出て話題になったので、多くのマスコミが「蒸発」について報道するというブームになりました。私はずっと違和感を抱いていましたが、当時は特に何もしませんでした。時が経てばブームは終わると思っていたからです。実際、数年後には『日本での蒸発』への人々の興味は薄れていました。ところが驚いたことに、今年の5月、突然またこの話題が爆発的に取り上げられたのです。本が再版されたことが原因です。全ての大手マスコミは再び『日本での蒸発』に高い関心を持つようになってしまいました。
もっとも気になっているのは、その本とマスコミが強調している数字です。なんと「年間10万人の日本人が失踪し、家族や職場から離れ、別の場所、別の名前で暮らしている」と説明しているのです。誰もその数字を確認せず、「『Lesévaporés du Japon(日本での蒸発)』という書籍によると」とも書かず、完全に事実として「年間10万人が消えている」とさまざまな記事で報じています。しかも、「警察は一切捜査しません」と報道するマスコミが少なくありません。
私は自分の本や記事で、警察が毎年発表する「行方不明者届受理件数」および「所在確認件数」というデータを説明しながら「年間10万人が失踪することは完全に間違いです」と何度も書いてきましたが(編集部注)、世の中では「10万人の蒸発」というイメージが固定されてしまいました。マスコミが報道した誤った情報が独り歩きし、ここまで波紋を広げてしまうと、個人が修正するのは不可能です。しかし幸運なことに、海外で誤った情報が大きく報道される問題に気付いた立教大学の中森准教授へのインタビューを通じて、数年前から正しい情報を発信しています。ただ、今回の「蒸発」の現象の例だけであれば解決できるかもしれませんが、日本と日本人に関して話題になった他の誤報もたくさんあります。大手マスコミが誤った内容を報道することによって、AI(人工知能)が間違いをそのまま学習して拡散するリスクは高く、記者としていくら頑張っても負けてしまいます。それを考えると、私は怒りと同時に絶望感に襲われるのです。
編集部注:警察庁の発表によると令和6年における行方不明者数は約8万人だが、その後見つかる人も多数いる。
(月刊『時評』2025年9月号掲載)