
2025/12/08
10月14日、長野地方裁判所の前。雨の中、多くの報道陣が外で待っていました。14時過ぎ、裁判所から飛びだしてきた記者がカメラの前で「死刑。死刑判決」と叫ぶように言いました。4人が殺害された事件の裁判員裁判で、被告人に死刑が言いわたされたことを全国のテレビ番組の生中継で報じたのです。その場にいた私は違和感を覚えました。一体なぜ「死刑判決」がこんなに盛り上がってしまうのか?その後SNSで、判決についての一般人のコメントを読み、さらに疑問に思うようになりました。
その直前の10月9日、私はパリにいました。10月9日は、フランスで死刑廃止法が公布された記念日です。1981年のことでした。私は当時11歳でしたが、よく覚えています。私は子どもの頃から死刑反対の立場です。70年代に起きた冤罪の可能性のある事件が当時話題となり、私が反対意見を持つきっかけとなりました。死刑囚は、犯人ではない可能性がありながら死刑執行されたのです。私からすると死刑は拷問と同じこと。死刑は世界中で廃止すべき刑罰なのです。
1981年9月、国会で死刑廃止法が成立しました。当時、世論の6割は死刑制度を維持すべきと考えていましたが、当時の法務大臣で元弁護士のロベール・バダンテール氏の尽力で、国会議員の過半数が死刑廃止を選択したのです。彼のおかげでフランスの司法は「人を殺さない司法」になりました。
去年の2月に95歳で亡くなったバダンテール氏は、死刑廃止制度成立から44年後の今、ヒーローのように扱われています。今年の10月9日、パリで巨大な式典が行われ、彼は国家的偉人の殿堂パンテオンに祭られました。主な理由はフランスにおいて死刑を廃止した法務大臣だから。私は式典に参加するため、その数日前にパリに着きました。すでにパンテオン周辺は準備中で、本屋ではバダンテール氏が執筆した書籍の特別コーナーが設けられ、彼が表紙を飾った雑誌も複数ありました。街のあちこちにバダンテール氏のポスターが貼られるなど、高揚した雰囲気に包まれていました。
10月9日当日、パンテオンの前に数千人もの市民が集まり、式典に参加しました。マクロン大統領をはじめ、多くの政治家もパンテオンの中にいましたし、私も記者として入口付近で出席できました。とても感動的な式典で、テレビでもラジオでも生中継で放送されました。多くのフランス人にとって、バダンテール氏は最も人間性のある法務大臣だったのです。
彼は「正義は復讐ではありません」とずっと強調し続けていました。犯人に刑罰を課すことは当然ですが、それは復讐とは違います。犯罪被害者の支援やケアは必要ですが、それは別の制度です。犯人の死は、被害者の心のケアにはならないのです。
また、死刑には抑止力はありません。それはバダンテール氏の発言というだけでなく、世界中の多くの研究結果でも示唆されていることです。日本でも「死刑になるために」数人を殺害した容疑者や被告人が何人もいます。つまり死刑は抑止力ではなく、殺人を教唆する刑罰になってしまっているのです。
フランスでは死刑賛否両論は190年間続き、ようやく1981年に廃止という結論に達しました。アムネスティ・インターナショナルによると、2024年末の時点で145カ国が死刑を法律上、または事実上廃止しました。死刑存置54カ国の一つが日本です。
日本人のほとんどが、死刑は正しい刑罰、社会による復讐だと思っているようですが、議論はほとんどありません。国民がきちんと死刑について考えたのか疑問です。死刑とは、国が国民を殺す権利があるという意味です。日本において、その判断を下すのはたった9人(裁判官3人と裁判員6人)。9人は意見が一致しなくても、過半数で死刑判決を課すことができます。皆、人間ですから判断に間違いが絶対ないとは言い切れません。しかも死刑を執行するかどうか、いつするかは法務大臣の判断です。死刑囚は数年や数十年にわたって執行の恐怖に怯えながら日々を送っており、完全に精神的な拷問と言わざるを得ません。
多くの国民は、死刑は最悪の犯罪者の刑罰であり、自分とは関係のないことだと思っています。本当にそうでしょうか?袴田事件を見れば明白です。無実の人でも突然逮捕され、冤罪に基づいて死刑判決を受けるリスクはゼロではありません。日本ではすでに5人の元死刑囚が無罪になりました。つまり、彼らは間違った死刑判決を受けたのです。たとえ死刑は執行されなくても人生が奪われました。その可能性があるというだけでも、死刑を廃止すべきではないでしょうか。
(月刊『時評』2025年11月号掲載)