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森田 実の「国の実力、地方に存(あ)り」⑪

犬山市は日本を代表する歴史文化都市であり日本の宝である/石田芳弘元犬山市長の郷土愛に学ぶ

犬山祭の様子。車山と犬山城の共演。(写真提供:犬山市)
犬山祭の様子。車山と犬山城の共演。(写真提供:犬山市)

「故郷! 故郷の山河風景は常に、永久に、我が親友である。恋人である。師伝である」 (石川啄木)

「日本の宝」犬山市

 「犬山は、日本の宝として残すべきまちですね」と語ったのは、都市工学界の第一人者の伊藤滋氏(2006年当時、早稲田大学特命教授)である。当時の犬山市長石田芳弘氏との対談での発言である。同感である。

 犬山市には美しい自然があり、すぐれた文化遺産と歴史がある。犬山市民はこの自然と文化遺産を大事にし、守り抜いている。

 犬山市は品格のある都市である。市民たちは自分たちのまちに誇りを持ち、深く愛している。

 犬山市は愛知県北西部の、犬山城と日本ラインで知られる観光都市である。木曽川が山地から平地に出る地点にできた扇状地の扇頂部に発達した城下町である。

 木曽川と尾張丘陵一帯は飛騨木曽川国定公園に指定されており、自然が保護されている。犬山城より上流の木曽川は日本ラインと呼ばれ、急流下りと鵜飼で有名である。付近にはモンキーパーク、リトルワールド、桃太郎神社、成田山名古屋別院大聖寺などがあり、東郊には入鹿池畔の明治村などがある。

 犬山市は観光地として超一流である。国宝犬山城、国宝茶室如庵、城とまちミュージアム、ユネスコ無形文化遺産の犬山祭、国史跡東之宮古墳、世界かんがい施設遺産の入鹿池、鵜飼、桃太郎祭、日本ライン夏まつり、朝市、犬山里山学センターなど、観光客に人気がある文化財と施設が多い。

木曽川の鵜飼。1300 年の伝統がある。(写真提供:犬山市)
木曽川の鵜飼。1300 年の伝統がある。(写真提供:犬山市)


犬山聖人・石田芳弘元市長

 石田氏が愛知県議会議員から犬山市長になった時、私は、石田氏を「ミスター犬山」と呼んだ。その後、石田氏と何回か会ううちに、私は石田氏を「犬山聖人」と呼ぶようになった。石田氏の限りなき郷土愛を知ったからだった。

 石田芳弘氏は1945年10月13日に愛知県犬山市に生まれた。名古屋市にある名門高校の東海高等学校を経て、同志社大学卒。卒業後に実家の酒類業を継いだが、27歳の時、ふるさとの市長になる志を立て、政治の道に進み、自民党大幹部の江崎真澄衆議院議員の秘書となった。10年間秘書をつとめたあと自立し、1983年、愛知県議会議員。1995年に犬山市長選に、現職を破って当選し、初心を実現した。

 市長在任中、特に力を入れたのは「犬山城および城下町の再生」と「教育改革」(市立小学校全校に30人学級導入)だった。市長時代の業績は大きい。石田氏は2006年10月31日まで犬山市長をつとめた。

 21世紀初頭から始まった地方分権の流れの中で、地方自治こそ民主主義の基礎であると考え、2007年2月、石田氏は愛知県知事に挑戦した。善戦したが、わずかに及ばなかった。欧米先進国の地方議会を視察し、地方議員も予算を編成し、行政を担うことができる議院内 閣制を提案したいというのが石田氏のビジョンであったが、夢は頓挫した。

 その後、2009年8月の衆議院選挙に民主党から出馬し、当選。あの歴史的な政権交代劇を体験した。

 しかし、自分の政治家としての役割は、国政より地方政治にありと考え、再度地方の首長選挙に挑戦するも、挫折した。

 石田氏ほどのすぐれた政治家が野にいることは日本の大損失である。しかし、石田氏は度重なる不運に負けていない。石田氏は今「祭」の研究に取り組んでいる。至学館大学コミュニケーション研究所の所長に就任し、日本の伝統的祭こそ千年持続社会の力を内蔵し、国連の目指すSDGsの理念と重なるところがあるという研究を始めた。一方、従来より会長を務めている(一社)犬山祭保存会の実践を通じて、地域コミュニティの再生を目指している。私は、石田氏の新たな活動を知り、石田氏を「犬山聖人」と呼ぶことにした。

 地域社会の聖人は各地にいる。私の故郷は静岡県伊東市である。「伊東聖人」と呼べる人物は詩人の木下杢太郎(本名は太田正雄=東大医学部教授)である。私は1945年4月に神奈川県小田原市の相洋中学に入学したが、「相模聖人」と呼ぶべき偉人がいた。二宮尊徳である。近江にも聖人がいた。中江藤樹である。中江藤樹は特に青少年の教育に熱心だった。

 石田芳弘氏は教育を重視した中江藤樹に似ている。石田氏は市長時代に、特に教育改革に努力した。

石田市長時代の教育改革

 「犬山市における教育改革 その全体像を捉えるための試論」と題する論文がある。

 研究者の矢田朋子氏は、石田市長の教育理念を「皆と協力し合い、常に学び続ける喜びを知る子どもを育てること」とし、犬山市がこの理念に沿った改革を実践している点に注目した。石田市長は、この教育理念を実践するため文科省との対決をいとわなかった。石田市長は「少人数学級」「少人数授業」「チーム・ティーチング(複数の教師で1クラスを担当)」などに取り組んだ。この取り組みは今日も続いている。

 教育は地方自治の岩盤であるとの信念のもと、石田市長は幼児教育から学校教育、生涯学習まで、改革を実行した。

 石田氏は市長時代、「犬山の子どもは犬山で育てよう」と叫び続けた。この結果、犬山市民と教育委員会、議員などの教育改革への意識の統一がなされた。石田教育改革により、犬山市民全体に「子どもを大事にする」意識が広がっている。石田氏は市長退任後も側面から教育改革をバックアップしている。

 石田氏は中部大学『アリーナ』第16号(2013年12月15日発行)「なぜ私は政治家になったのか」の中で、こう語っている。
「僕の経験から言うと、政治とは未知なるものへの挫折多き冒険であります」

 石田氏の人生は孔子の人生に似ている。孔子も政治に深く関与し、挫折したのち思想家となり「聖人」になった。石田氏も成功と挫折の政治生活のあと、思想家になり「聖人」になった。

 私が初めて犬山市を訪問したのは1974年夏だった。

 親類の江崎真澄代議士主催の夏期セミナーに講師として招かれたあと、江崎代議士に誘われて、犬山市観光を体験した。木曽川の鵜飼と犬山市の名所旧跡を見学した。この時、江崎代議士秘書をしていた石田芳弘氏と知り合った。石田氏は強い光を発していた。私は石田氏が将来、社会に大いに貢献する政治指導者になると確信した。今では石田氏は「犬山聖人」になった。私の予感は的中した。
(月刊『時評』2020年11月号掲載)

森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。
森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。