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森田 実の「国の実力、地方に存(あ)り」⑲

紀伊半島の未来を拓く「半島一周高速道路」建設、最終段階へ -二階俊博衆議院議員の50年間の悲願実現へ-

二階氏と著者
二階氏と著者

「政治の原点は故郷にあり」(二階俊博・自由民主党国土強靱化推進本部長)

紀伊半島一周高速道路の実現へ

 二階俊博衆議院議員の50年にわたる努力が実りつつある。

 紀州・和歌山は、江戸時代には日本有数の大都市であった。家康は大阪の陣の後、10男・頼宣を紀州に置き、西国への備えとした。徳川御三家・紀州藩の始まりである。海運が大きな役割を担っていた当時、紀州は海路の要衝でもあった。紀伊半島は、江戸と大阪、政治と経済の中心を結ぶ海陸の枢要地として栄えていたのである。

 しかし明治維新以後、和歌山は国土幹線軸から外れた。私はこれを明治政権による徳川への意趣返しではないかとみているが、とにかく、以後の歴史を通じて紀伊半島は長く国土開発の外側に置かれてきた。東名、名神などの高速道路が敷かれ東名阪がつながる中で1974年に大阪と和歌山をつなぐ阪和自動車道も整備された。しかしその後の整備は遅々として進まず、紀伊半島は全国の高速道路のネットワークから取り残されていた。半島を一周する高速道路の整備は、紀伊半島で生活する人々の長年の悲願であった。

 そして、昨年12月、那智勝浦町と太地町を結ぶ「串本太地道路」(18・4キロ)の起工式が行われた。紀伊半島一周高速道路(近畿自動車道紀勢線)開通の最後の1ピースとなる区間である。

 起工式に駆け付けた衆議院議員の二階俊博・自民党国土強靱化推進本部長(元幹事長)は、「さまざまな困難を乗り越え、高速道路の紀伊半島一周はようやく未着工の区間もすべて事業化が決定した。早期完成に向けて、ともに頑張りたい」と感慨深げだった。紀伊半島一周高速道路の実現は、政治家・二階俊博の切なる願いだったのである。私は2022年1月26日、二階氏を自民党国土強靱化推進本部長室に訪ねた。

二階氏の50年を振り返る

「1983(昭和58)年12月、紀伊半島一周高速道路の実現を訴えて総選挙に初挑戦した。この道路は、私のふるさとである和歌山の皆さんにとっての〝希望の道〟だった。県の発展を願う多くの同志の皆さんと心を一つにして、全力疾走を貫いてきたことがようやく実現した」と二階氏は振り返る。

「私は大学卒業と同時に遠藤三郎代議士(静岡県第2区)の秘書になった。遠藤代議士は建設大臣も務めた有力政治家で、当時、日本列島の大動脈となる高速道路整備を訴えていた。東名高速道路建設促進議員連盟会長を務めた遠藤先生のもとで、私もその実現のために奔走した。

 その後、和歌山に帰ってみると高速道路の計画もなければ話題にも上っていないという状況だった。東名地域とわが故郷との格差を感じて、別の国なのかと思ったほどだ。県議として県の委員会で『国土の均等ある発展という言葉は死語になったのか』と厳しく迫ったこともあった。紀伊半島を一周する高速道路を作ると言うと、〝大きなことを言うな〟と陰口を叩かれたこともあったが、私は何も大きなことだとは思っていなかった。この紀伊半島にも当然、『国土の均衡ある発展』がなされるべきだ、と思っていた」

 2期県議を務めた二階氏は、1983(昭和58)年に国政(衆議院)に活躍の場を移す。この時も、「紀伊半島一周高速道路」の実現を訴えた。

「やはり県会議員では、国会や政府を動かすのはまどろっこしい。ならば自分が衆議院議員になって一勝負しようと思った。道路がなければ車は通らないし、車が通らなければ人と人との交流が生まれない。紀伊半島は道路さえあれば発展する。国会議員になって建設省(当時、現国土交通省)や日本道路公団(当時)に毎日のように足を運んでその必要性を訴えた。政治には、役所だけでは目の届かないところを後押ししたり、引っ張ったりする責任がある」

 2009年には、当時の民主党政権が「コンクリートから人へ」のスローガンで、公共事業を縮小する動きがあった。高速道路の整備計画もすべて見直すという。二階氏は、自ら先頭に立ってデモを行うなど、国土の均衡ある発展を訴え続けた。私もこのデモ行進に参加した。

「当時は道路建設推進などと言わない方が、国民に受けが良かった。しかし、均衡ある発展のために、私は紀伊半島一周道路が必要だと言い続けた。自民党の国会議員で、デモなんかやる人は少ないだろうけども、怒りの声を上げなければならない。格差は、その是正を叫ぶ地域の声がなければ、どうしても置き去りにされてしまうものだ」と二階氏は話す。

紀伊半島新時代、「関西」復権へ

 そして、ついに昨年12月、紀伊半島一周高速道路の最終段階の区画に着工した。これで、大阪府松原市から三重県多気町に至る約340キロの近畿自動車道紀勢線がつながることになる。開通すれば、和歌山県南の沿岸自治体はすべて高速道路で結ばれ、観光・経済の発展に大いに貢献する。また、災害時を含めた救急医療活動の際には、まさに「命の道」となる。

 私は長年、紀伊半島を旅行者、研究者として見てきたが、この地域には魅力的な観光地が豊富にある。例えば、名古屋から出発すれば、伊勢神宮に参拝し、世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道(三重県、奈良県、和歌山県)」、いわゆる「熊野三山」や高野山もある。日本三大名滝の「那智の滝」や、本州最南端のまち・串本町、田辺市、御坊市などの美しい景観もある。その名の通り美しい砂浜を有する南紀白浜は、歴史ある温泉も湧く魅力的で行く価値のあるリゾート地だ。紀伊半島の美しい景観は、きっとインバウンドにも好評だろう。西側には仁徳天皇陵がある。

那智山青岸渡寺の三重塔越しに見える那智の滝
那智山青岸渡寺の三重塔越しに見える那智の滝

 少し俯瞰して見ると、紀伊半島一周高速道路の実現によって、関西一円が一大観光地としてつながってくる。県都・和歌山からは大阪、奈良、京都へのアクセスが容易だ。私は以前から、東京一極ではなく、関西の復権こそが日本の発展に寄与すると考えてきた。日本は二つの中心をもって、楕円形で栄えていく。そのためには関西が復権する必要があると思っている。既に人気の観光地である京都、大阪からの人の流れが、高速道路を通じて紀伊半島へと広がり、人々は紀伊半島にちりばめられたさまざまな魅力を再発見するだろう。

 前述したように、和歌山は江戸幕府の中心地の一つであった。明治政府は徳川時代の中心地の発展を故意におろそかにしてきたと私は思っている。21世紀の今、いわば明治以来150年の偏った政治の結果として生じた格差を、偉大な政治家・二階俊博氏は、ふるさとの人々と心を一つにしてようやく取り戻しつつある。私は紀伊半島一周高速道路によって、江戸以来ハンディを負っていた紀伊半島の魅力が目覚め、発揮されると思う。紀伊半島一周高速道路の実現によって、大きな歴史の流れの転換が図られたのである。

政治の原点は故郷にあり

 二階氏の政治家としての原点は、国土幹線軸から離れた半島の地理的ハンディを克服し、故郷を豊かにすることであった。県議に立候補する時も、1983年に衆院選挙に出馬する時も和歌山県の発展のために、紀伊半島一周高速道路の実現を公約した。和歌山県選出の参議院議員で、二階氏を師と仰ぐ鶴保庸介氏は、「二階先生ほど故郷を大切にし、頻繁に地元に帰っている政治家はいない」と言っていた。二階氏は言う。

「私の政治の原点は故郷にある。政治の世界に身を置くと、大変な苦労もありますが、故郷の発展のためと思えばどんな苦労も乗り越えるエネルギーが出てくる。故郷の人たちの顔を見て、直接語り合うことで政策が生まれてくる。本を読んで政策を作ったとしても、思い付きをしゃべっているようなもので迫力がない。私にとって、故郷は政治の教科書。故郷がさまざまなことを教えてくれる。故郷の声を国政の場に届け、広く解決の道を求めていく、これこそが政治家の仕事だ。道路問題にしろ、河川問題にしろ、地域の人々が少しでも豊かな生活を送れるように、それぞれの地域の政治家が奔走することは当然のことだ。その姿勢を恥ずかしがることも、批判を恐れることもない。故郷のことをなおざりにする方が恐ろしい。政治の基本が故郷にあることを忘れてはならないと思う」

 率直に言うと、私は近年、自分の選挙区を単なる選挙のためだけの場所としてしか考えていない政治家が増えていると感じている。政治家と故郷との精神上のつながりが希薄になっていることに危機感を抱いている。それだけに二階氏の言葉は貴重である。私は、ふるさとのために働くのが最も大事な政治家の仕事だと思っている。かつて自由民主党のほとんどの国会議員は、自分の故郷の発展のために汗をかいていたが、今はあたかも故郷を失ったような政治家が多くなってしまった。ここにもう一度、政治家が故郷を大切にするという心を取り戻さなければ、わが国の政治は国民から浮いたものになってしまう。「政治の原点は故郷にあり」という二階氏の言葉は、まさにすべての政治家が心に持つべき大切な言葉である。

(月刊『時評』2022年3月号掲載)

森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。
森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。