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激甚化する災害への対応 関東大震災から100年/国土交通審議官 榊󠄀󠄀󠄀󠄀󠄀 真一氏

さかき しんいち/ 昭和39年12月19日生まれ、鹿児島県出身。東京大学法学部卒業。63年建設省入省、平成28年国土交通省大臣官房会計課長、29年大臣官房審議官(都市局担当)、30年道路局次長、令和元年大臣官房総括審議官、2年都市局長、3年内閣府政策統括官(防災担当)、本年7月より国土交通審議官。
さかき しんいち/ 昭和39年12月19日生まれ、鹿児島県出身。東京大学法学部卒業。63年建設省入省、平成28年国土交通省大臣官房会計課長、29年大臣官房審議官(都市局担当)、30年道路局次長、令和元年大臣官房総括審議官、2年都市局長、3年内閣府政策統括官(防災担当)、本年7月より国土交通審議官。

政府はこれまで自然災害発生のたびに教訓を得、その後の防災政策に生かしてきた。さらなる改善に向けたサイクルに終わりはなく、デジタル化や自治体・企業・NPO等と連携しながらより一層の充実を図る日々である。今回、榊政策統括官には、発生が想定される首都直下型地震を軸に、対策の現状と減災に必要な行動等について幅広く解説してもらった。

国土交通審議官(前 内閣府政策統括官(防災担当)
榊󠄀󠄀󠄀󠄀󠄀 真一氏


関東大震災から100年

 今年は1923(大正12)年9月1日に関東大震災が発生してから100年の節目となります。わが国の災害対策は、こうした大規模な自然災害が発生するたびに、それを教訓として充実・強化が図られてきました。

 この100年の自然災害を振り返ってみると関東大震災による被害の大きさが突出しており、死者・行方不明者約10万5000人、全壊・焼失家屋約29万棟、経済損失は当時のGDPの37%という甚大なものでした。発災日である9月1日は「防災の日」と定められ、わが国の災害対策の出発点となりました。戦後から昭和30年代にかけては各地で相次ぐ地震・台風により数千人規模の犠牲者を記録し、その後、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災と、再び大きな災害に見舞われます。

 各震災における被害の主な要因を比較すると、関東大震災では火災が、阪神・淡路大震災では揺れによる建物の倒壊が、そして東日本大震災では津波が、それぞれ甚大な被害をもたらしており、それぞれの震災の後には、出火防止対策や建物の耐震化、津波からの避難対策等が講じられてきました。

 関東大震災の発災当日、首相は空席でした。8月24日に加藤友三郎首相(当時)が現役のまま急逝し、山本権兵衛に大命が下っておりましたが、まさに組閣の作業中で、親任式は翌2日夜に行われました。これに先立ち、臨時閣議によって現在の非常災害対策本部に相当する臨時震災救護事務局の設置が決定されました。しかしながら、災害応急対策の要であった内務省や警視庁をはじめ、主要官庁が全焼するなど行政機能が著しく低下する中、東京府、東京市、警視庁によって救援活動が行われたものの十分に支援は行き届かず、住民互助(現在のボランティア活動)が救護の中心になったと伝えられています。

 震災からの復興に向け、9月27日、省と同格の帝都復興院が設置され、内務大臣の後藤新平が総裁を兼務して、帝都復興計画の原案の作成を主導しました。第一次世界大戦後の不況により予算を大幅に圧縮せざるを得なかったものの、焼失区域の約9割のエリアで区画整理事業が行われ、隅田川に架かる橋梁、主要な大通りや大規模な公園、公共施設やインフラが整備されるなど、今日の東京の基盤が形成されました。震災翌年の1924年には、現在の建築基準法の前身となる法令に、世界で初めて地震力規定が盛り込まれ、建物の耐震化が図られるようになりました。また、東京帝国大学には地震研究所が設置され、わが国地震研究の発展の基礎が築かれました。

災害の教訓を政策に反映

 戦後の1959年9月、伊勢湾台風が和歌山県潮岬に上陸し、台風としては、明治以降最多となる5098人の死者・行方不明者を出しました。この台風を契機として、わが国の防災体制や制度上の課題が浮き彫りになり、2年後の1961年、わが国の防災行政の基本となる災害対策基本法が制定されます。

 1995年の阪神・淡路大震災では、死者・行方不明者が6437人にのぼりましたが、犠牲者の約8割が建物等の倒壊等による圧迫死でした。この震災を踏まえ、耐震改修促進法が制定され、1981年の新耐震基準に満たない古い建物の改修が強力に進められるようになりました。また、道路、鉄道、港湾等のインフラの耐震対策も一気に進みます。さらに、この災害を契機として、災害によって住家に大きな被害を受けた方に対して最大300万円の支援金を支給する被災者生活再建支援法が制定されました。加えて、政府の初動体制が見直されたのも、このときです。関係省庁の局長級からなる緊急参集チームが組織され、大規模地震等が発生した場合には、30分以内に官邸に駆けつける体制が整備されました。

(資料:内閣府)
(資料:内閣府)

 2011年の東日本大震災では、東日本沿岸部を中心に、死者・行方不明者2万2318人という戦後最大規模の被害が発生しました。この震災を契機として、復興庁が設立されたほか、その後二度にわたる災害対策基本法の改正により、被災自治体が行う応急措置に係る国の権限代行や、国が被災地に物資等を送り届けるためのプッシュ型支援等の仕組みが構築されました。

 また、中央防災会議のもとに地震・津波災害に関する専門調査会が設けられ、震災の反省と教訓を踏まえ、今後、地震・津波対策を検討するに当たっては、あらゆる可能性を考慮した最大クラスの地震・津波を検討していくべきとの共通認識が図られました。これを踏まえ、中央防災会議では、発生確率や切迫性が高い、経済・社会への影響が大きい等の観点から、「南海トラフ地震」「首都直下地震」「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震」「中部圏・近畿圏直下地震」の四つの地震を選定し、被害想定の公表や防災対策の検討が進められてきています。

(資料:内閣府)
(資料:内閣府)