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大石久和【多言数窮】

メディアの自死

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 日本のメディアは一体どこまで敗走を続けるつもりなのだろう。「事実そのもの」をタイミングよく有権者に伝えたり、主権者としての判断を助けるための解説や説明を「偏らない事実に基づいて」行うという役割を放棄したままでは、信頼の回復は不可能だと思えるのだ。

 最近は、大臣会見のすべての様子などをネットですぐに入手することができるから、メディアが一部の発言を切り抜いて編集し、ほとんど勝手に大騒ぎしていることなど即刻バレバレなのだが、何度も繰り返して懲りていない。

 なぜこれが繰り返されるのかというと、事実によって主権者・国民が判断を下すことができるための支援をするのではなく、ある主張を込めたムードを盛り上げることが目的化しているからである。事実の伝達は二の次になっているのである。

 ここでは「事実」という言葉を使ったが、一般に、メディアは「真実を知らせる」とは標榜するものの「事実」という用語は使わない。この二つの用語の定義に区別のない国語辞典もあるが、「真実」とは「話者が正しいと信じること」なのであって、事実そのものではない。

 この用語選定そのものが報道姿勢を明確に示している。つまりは事実ではなく、主張を読者に伝達しようとしているのである。だから、時に事実がねじ曲がるのである。


本夏彦氏は、「金日成が息子の金正日を後継者に選んだときに、正気の人間は笑ったが新聞は笑わなかった」と記したし、中国の文化大革命の際には、「文化大革命をたたえて『中国の青年の瞳は輝いていた』、『北京の空は青く澄んでいた』式の報道に明け暮れた」とも述べていた。

 また、天安門事件が起こった時には、当時、あるメディアが「死者は出ていない」と繰り返したことも記憶に鮮明なのだ。このことは、彼らが「忖度のかたまり」であることを示している。

 北朝鮮への帰還運動の時もそうだった。日本からの帰還船が北朝鮮の岩壁に近づいた時のことを、後に脱北して日本に戻った人が語ったことがある。「地上の楽園」に到着したはずなのだが、岸壁にいた先に帰還した人が一生懸命に「船から下りずに、そのまま日本に戻れ」と合図していたというのだ。

 もちろん、そのようなことはできないから上陸してしまい、悲惨な経験をして日本に再帰還したのだ。ところが、こうした帰還の様子を取材するために北朝鮮まで出かけた一部のメディアの記者は、なんと「北朝鮮の人々の目は輝いていた」と報道したのだ。

 メディアは責任をとらない。この報道を受けてそれを信じ、北朝鮮帰還を急いだ在日朝鮮人や日本人妻も多くいたことだろう。帰還した人々がどんな苦労をしてきても、帰還運動を煽ったメディアは責任をとっていないし、とるそぶりもない。

 現在のメディアを信じる・信じないは人々の自由だ。しかし、あの太平洋戦争・大東亜戦争時の報道も含めて、「メディアが過去の報道に対して責任をとったことはなく、それは現在も将来も変わることなどないのだ」ということをよくよく理解した上で、メディアが流す情報に接しなけばならないのは、「とんでもない判断ミスをしてしまった」と嘆かなければならなくなる側はわれわれ情報の受け手の方だからである。

 かなり過去の話を紹介してきたが、昔話を紹介したいから書いているのではない。現在進行形の事案も満ちあふれて、主権者の判断を狂わせているからなのである。典型例のいくつかを紹介したい。

 わが国の財政が大変に厳しく、逆進性の極めて強い究極の大衆課税である消費税を上げざるを得ないと多くの人々は信じ込んでいる。今回の景気後退期の増税は、3%増税時よりも国民の消費を落ち込ませるなど「増税したのに税収が落ち込んだ」という状況を生みつつあるが、メディアの影響を受けて主権者のかなりがこの増税を支持したことも事実だ。

 その支持の背景の一つが「国の借金が1000兆円にもなり、財政はやがて回らなくなる」と信じ込まされているからである。信じているのは、財務省がそのように発表し、メディアがそのままそのように報道するからなのだ。

 「国の借金」という表現を用いるには「日本国がどこかの国からお金を借りている」という事実がなければならない。主語が「国」なのだから、当然そうなる。ところが、そのような事実はないのだ。わが国は、「現在でも世界最大の債権国」なのであって、純債務国ではない。国を主語とする言い方で言えば、借金国ではなく世界一の貸し付け国なのである。

 正確な表現は「政府の借金(債務)が1000兆円に達し、それはつまり国民(=民間)が1000兆円の貸付金(債権)を政府に対して持っている」ということなのだ。政府の債務はそのまま民の債権となるのは当然だ。消費増税に耐えて政府を支援しなければと考えている国民は、「政府に対して1000兆円の取立権(債権)を持っている」のである。

 「おぎゃーと生まれた赤ちゃんが一人900万円もの借金を背負って生まれてくる」などとの説明もなされることがあるが、もうおわかりの通り「おぎゃーと生まれた赤ちゃんは、やがて両親などから引き継ぐ(相続する)ことになる政府へのお金の取り立ての権利」を持って生まれてくるのだ。

 つまり、「国の借金」という表現は、いまの日本には当てはまらない間違った説明なのである。にもかかわらず、毎年、メディアがこの説明を繰り返すのは誤りを散布しているようなものなのだ。

 また、お父さんとお母さんの稼ぎでは家計を維持できないため、多額の借金があるにもかかわらず「毎月多額の銀行借り入れ」をしているのが日本の財政の実態だ、とも説明する。では実際に、政府に貸し付けているのは誰なのかを明示すべきだが、そんなものは存在しないのだ。

 落ち着いて考えたいのは、政府に借金があり債務を抱えているということは、民間に政府への貸付金があり、民間は政府から取り立てることができる債権を同じ金額だけ持っているということなのだ。そしてこの債務は、経済成長による税収増で相対的に小さくなっていくのである。

 消費増税の影響で国民の消費が大きく落ち込むなど、経済の先行きに大きな暗雲が立ちこめている。それに国難級の新型肺炎が加わるが、政府は最近まで「景気は緩やかに回復している」と大本営発表を繰り返し、メディアもまた戦前と同様に、それを忠実に報道している。
(月刊『時評』2020年4月号掲載)