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大石久和【多言数窮】

無策の転落途上国

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 先に本コラムで、「2019年の新生児90万人割れ(実際は86万4千人)」ショックに関連してなされた多くの識者やメディアの論説などが、事実をしっかりと踏まえた主張になっておらず、個人の感想レベル程度のものがほとんどであることを紹介し、批判した。

 少子化問題への議論がこの程度で、何の具体策も用意しようともしていないのと同様に、高齢化問題もほとんど何の議論もなされず、政策も検討されていない。

 『LIFE SHIFT』を著して人生100年時代に備えよと警鐘を鳴らしたイギリスの学者・グラットン氏らは、「高齢化において世界の先頭を進む日本の政策を世界は注目している」と書いたが、世界の範となるような政策は何もできていないどころか、検討もなされていない。世界は日本の無策ぶりにあきれ、軽蔑しているというのが現状だろう。

 たとえば、東京都は全国からの人口流入が進み、その分、地方は疲弊を加速しているが、これからは東京自身が今後大変な高齢化を迎える。

 東京都の2020年と2050年の人口を比較すると、75歳以上の後期高齢者人口は169万人から241万人へと大幅に伸び、74歳までの前期高齢者人口も153万人から178万人へとかなり増加する。

 そして高齢者を支える東京都の生産年齢人口は904万人から729万人へ大きく減少するのである 東京の合計特殊出生率は、全国平均よりも0・2ほど低いから、全国からの人口供給が続かない限り、生産年齢減少は全国よりも大きくなる。

 この状況に対して、何か対策が議論され、具体施策が用意されようとしているのか。実に不思議で奇妙なことに、何もしていないのだ。

 この問題は、首都圏・東京一極集中問題の一面であり、「子育てのしにくい東京圏への集中」が少子化と日本のどの都市よりも深刻化する首都圏・東京の高齢化問題を惹起しているのだから、一極集中問題にこそメスが入らなければならないのだ。

 ところが、これについても何の政策も講じられていないのが実態だ。首都機能移転でこの問題を解こうとしたのだが、費用が膨大になると報じられると同時に、各地の誘致合戦がヒートアップして一カ所に絞ることが不可能になると、あっさりと沙汰止みとなり、その後をフォローする議論も運動も完全に霧消したのだ。

 さらに、日本史上かつてないほどに人口を集中させてしまった地帯を近未来に大地震が襲うことは高い確率で確実視されている。これに対して、「何もしない」ことなど考えられるだろうか。ところが、わが日本は、本当に「何もしていない」のである。行政政治の首都機能も、大企業の本社機能もほとんど分散されていないのだ。

 少子化し高齢化していくという現象は、一国の衰退を表す現象である。ということは、食糧自給率が低く、輸入食糧に頼らなければならない国が、非常時はもちろんのこと平常時においても他国に「買い負ける」国になるということである。

 国民が必要とする食糧を、他国と競争して買い取るだけのお金が工面できない国になるということなのだ。数年前の正月に、青森県大間のマグロを日本の寿司店が香港の寿司店に競り負けたことがあった。

 お祝い相場で超高額となった大間のマグロの買い負けなら、そんなこともあるかなで済むかもしれない。しかし、米や麦など基本的食糧が不作になったとき、衰退国日本がアメリカなどから高額となったこれらの産物を国民が飢えない程度に輸入できるのか。

 コロナショックの経済対策でも明らかなように、この国から、事実に基づく論理の通った推論と合理性が急速に消失している。かつては、われわれ日本人もそれなりに持っていた合理性がこれほど無残に崩壊した大きな原因は、財政再建至上主義のもとで「思考を放棄」してしまったからである。

 もともと、思考においても感情においても人間を最も大きく揺さぶる愛する者の死の原因が人間同士の紛争ではなく自然災害であったわが国では、死の原因の追及に合理と論理を貫くことは必要なかったし、できなかったのである。

 そこに暮らすわれわれから見ると津波は偶然発生し、たまたま、そこに居たから死んだのだ。ここには、この死を逃れるための合理思考も論理考察も入り込む余地はない。

 紛争死はそうではない。武器が劣っていたから、兵の訓練が不足していたから、兵の数が少なかったから、負けて死んだのであって、偶然の余地はあるにしてもきわめて少ない。紛争死は論理と合理の世界であるが、災害死は偶然と非合理の世界である。

 この紛争死と災害死の世界の違いは、「あらかじめ備えることができる世界」と「あらかじめ備えることができるわけもなく、事後に縫い繕うことしかできない世界」との違いを生むということなのだ。

 実はこの違いこそ、紛争死史観と災害死史観との最大の懸隔と言えるものなのだ。これだけ科学技術が進んでも、阪神淡路大震災も東日本大震災も予測できなかったし、2019年の台風15号の強風にも、台風19号の広域の大豪雨にも事前に備えることができなかったのだ。今もわれわれ日本人は、「起こってから復旧することしかできない民」なのである。

 だからこそ、自然の猛威が増し、気象の凶暴化が進んできたというのに、防災のためのインフラ整備投資を25年間にわたり削減し続け、世界の先進国が2倍などと伸ばしてきたというのに、なんと気でも狂ったか、半減させてきた唯一の国となったのだ。

 あらかじめ備えることを放棄してきて平然としているのである。このことは、中央銀行総裁の任期が切れそうになのに国会承認が得られず、危うく総裁の空位が生まれそうになる事件が起きても、「国会承認が得られない場合には前職がその職務を続行する」という他国にはある規定を入れようとしないことと、まったく同類のことなのだ。

 冒頭に示した施策立案の怠慢は民族の経験と歴史から来ているから、重いのである。

(月刊『時評』2020年5月号掲載)