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大石久和【多言数窮】

日本植民地論の必然

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 言語学者の鈴木孝夫慶応大学名誉教授は、「日本語と外国語」(岩波新書)のなかで、日本で販売されている雑誌名のほとんどがアルファベットを用いた英語であることを批判して、次のように述べている。

 「いったい日本以外の国で、このように自国民だけしか読まない(読めない)出版物の名前を、しかも国民のすべてが理解するとは限らない外国語で表紙を飾るという不可思議なことが流行しているだろうか。もし、あるとすれば、それはどこかの国の植民地である。」

 鈴木氏の指摘はまさにその通りなのだ。植民地の場合は支配国の言語を強要されているのだが、日本の場合は強制されているのではなく、自発的に自らの意思で外国語表記を選択していることがさらに大問題だと考える。

 強要もされないのに、自分の意思で相手(=アメリカ)にすり寄っている姿なのだ。つまり、この日本語放棄は日本人による日本忌避とアメリカへの迎合を示している。

 この現象は雑誌名にとどまらない。2007年に法務省はローマ字を用いた商号の登記を認めたというが、その後、アルファベットの日本企業名が随分増えてきた。

 日本人を相手に日本で活動している日本企業が自社の正式な名称に「日本語を用いない」のだ。いくら普及してきたといってもアルファベットは日本語ではない。SOMPOやAIGは誰を相手に保険事業をやっているのだろう。AGCのガラスを買うのはどの国の人なのだろう。

 雑誌名や企業名の外国語(ほとんどが英語)表記は、もう迎合のレベルを超えた日本人の「アメリカの植民地化願望」の表れと言えるものだ。そして、その先頭に、自国の政策をe-Japanなどとアルファベットで表現して、属国願望を丸出しにして恥じるところのない日本政府が存在するという情けない始末なのだ。

 よく言われるように、日本人が文化を持てたのは「かな」を発明したからで、男性が漢字に拘泥している間に、女性たちが思いや物語を自在に「かな」で表現することができたことが日本文化の源流となったのだった。

 この「かな」を用いて、微妙な心の綾を表現してお互いの人間関係を確かめあってきたのだ。複雑な一人称や二人称を使いこなすという世界でも稀有な民族になり得たのも「われわれの文字と表記」があったからである。

 戦後の「日本語放棄・英語化議論」に際して、断固として英語化に反対した福田恆存氏は、イギリス人女性の「日本人ほど人の心の綾に敏感な民族はない」との言葉を紹介している。その心の綾を表現するために、和歌を大切にして人と人との交流の手段としてきたし、後には俳句を発明して、自分の心境をきわめて凝縮して人に吐露してきたのだ。

 これらは、かなの発明と漢字交じり文という手段がなければ、なし得なかった文化の創造だったのだ。この文化は今後も継承されていくのだろうか。

 最近はあまり関心がなかったから誰が出ているのか長年知らなかったが、2020年のNHK紅白歌合戦出演者名簿を見て愕然とした。なんと驚くべきことに、女性側出場者20人中に10人、男性側出場者21人中に8人も、名前がアルファベット表記の人が含まれていたからである。

 以前からカタカナ名の歌手がいたりしたことはあったが、ここまで日本人の歌手名がアルファベット化してしまったのかと、驚きのあまり腰を抜かしたのだ。

 紅白に出場するというのだから人気歌手に違いない。多くの日本人がこのアルファベット表記名の歌手を応援し、支持しているということなのだ。いまの日本人の気分が、「日本語文字を捨てて、アメリカ文字であるアルファベットを用いること」を支持しているのである。

 自国の言語や自国の文字を大切にしない民族が栄えるはずもない。最も深い思索は自国語でしかなし得ないからである。しかし、誤った財政再建至上主義にこだわってきたことから、たった25年間で先進国の地位を失い、人びとが貧困化し続ける国家では、国民は自国の文化を顧みる余裕をなくすほどに自信を失っていったということなのではないか。転落していく国の文化など、誇るに値しないということなのだ。

 こうした一連の現象は、自らの安全保障を預けておすがりするしかない宗主国=アメリカに、ひたすらゴマをすることとした日本人の深層的な心理の具体的表出に違いない。

 沖縄県の尖閣諸島の日本領海に、中国海警局の大型艦船がきわめて頻繁に出没して、日本漁船が中国船に追われるという状況が生まれている。もし、海上保安庁の艦艇が引いたり、漁船の警護を緩めたりすると、「中国による実効支配状態」が簡単に実現してしまうだろう。

 そうはならないように日本も必死に領海を守る努力をしている。そして、歴代アメリカ大統領に、この領域が日米安全保障条約の適用範囲にあることを宣言してもらっている。

 しかし、日本の若者は「この無人島を守るために、アメリカは自国の青年の血が流れることを容認するだろうか。そのようなことをアメリカがするはずがない」と考えている。

 また、日本は実質的に中国海軍傘下となった海警局と本格的にことを構えることもできないとも考えている。何しろこの20年間、日本の防衛費はまったく伸びなかったから、いまや表面上の中国の軍事費だけとの比較でも10分の1というレベルなのだ。軍事費は積分値として装備に効いてくるから、この差はとんでもない戦力・戦闘力の差を生んでしまったのである。

 地政学的に見ると、ミサイルと核弾頭を持つ中国と北朝鮮のフロントに立ち続けなければならない日本であるにもかかわらず、中国と比べると相対的にはほとんど非武装といってもいいレベルにある日本の安全保障の危うさを若者は感覚的に理解している。だから時代の情勢変化を理解せず、75年前の価値観のままの古色蒼然たる憲法学者などバカの極みだと見極めている。

 財政再建至上主義によって国民の貧困化が進行し、40%近くもの雇用が非正規となってコロナで失業と自殺が急増しているのに、ほとんど何の手を打とうともしない日本政府を若者は諦めたのだ。だから、コロナ対応を見た作家の村上春樹も日本の政治家は最悪だと述べたのだ。

 いま日本の若者が恭順と信頼を捧げる相手は日本国ではなく、アメリカ合衆国なのである。 

(月刊『時評』2021年2月号掲載)