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大石久和【多言数窮】

政治は言葉

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 かつて、マーガレット・サッチャーが初当選するまでの苦労を紹介し、わが国の議員候補者の選抜が甘すぎるとの批判を述べたことがある。彼女が保守党の強い選挙区で候補者になるためには150人もの候補者候補と競わなければならなかったことも紹介した。

 そこには、党による面接があり、絞り込まれた候補者候補メンバーでの演説会があり、その評価を党員による投票で行うという小選挙区の民主制や分権制が確立されていることも示した。これらの紹介は、わが国ではそれがほとんど行われていないと指摘するためであった。

 厳しい候補者選定をやってこなかった結果、日本では世襲議員がきわめて多くなるという結果が生まれた。最近の状況は世襲が多いというレベルをはるかに超え、福沢諭吉が「親の仇だ」と述べた門閥政治に近づいている。

 日本と国柄が異なることもあるのだろうが、サッチャーは政治は言葉であることをよく理解して、そのための訓練を長い雌伏の時代に行ってきていた。自伝には「紙を見ないで話す訓練をした」とわざわざ記すほどだった。

 政治家が人びとを自分に引きつけ主張を理解してもらうためには、相手の心内に飛び込むことができる言葉を持たなければならない。そのためには、言葉の一つ一つに意味があり、巧に組み合わされた情緒と論理が相手の心を揺り動かさなければならない。

 定期購読誌の『月刊選択』2021年11月号では「政治家の『言葉の劣化』を憂う」という記事が掲載された。そこには、美しく響くもののほとんど内容のない言葉の羅列がこの国の政治を覆っているとの嘆きと憂いが吐露されていた。

 2021年は政権選択の総選挙があり、また二大政党の代表者を選ぶ選挙が続いたから、多くの言葉が政治の世界から国民に向けて発せられ、支持の獲得に懸命となった。しかし、そこで発せられた言葉の多くは、耳を覆いたくなるほど空疎なものであった。

 以下に、若干の例を示す。

 国民に寄り添う政治、誰一人取り残さない政治、共感力のある政治、温もりのある国、美しい国、全世代の安心感、思いやりの政治、まごころの政治、一人一人が大切にされる社会、希望と安心のある社会、普通の安心が得られる社会、多様性を力に理不尽を許さない社会。

 わが国を運営する責任者を選ぶという政党の代表選挙に、このような言葉しか発せられない国に明るい将来などあるはずがないと感得できる「中身ゼロ」の言葉の羅列である。換言すると、絶対に責任を追及されることのない言葉の羅列だ。

 内容のない責任を伴わない言葉しか発することができない政治が、解決すべき問題に対峙できず、日本国の凋落を生んできたのだ。

 先進国で唯一20年以上にもわたって実質所得が伸びない国、世帯所得が660万円から550万円にと大幅に低下した国、スイスIMDが示す国の競争力がひたすら低下していく国(2020年には韓国が23位となったのに対し34位に転落した国)、コロナが始まって2年以上経過するのに、いまだにコロナワクチンを自国開発できずにアメリカの製薬会社に物乞いを続けざるを得ない科学技術研究後進国。

 国民に寄り添い、温もりのある国にするというなら、具体的に国民を豊かにする処方箋を提示しなければならないのだ。政治とは理念も大切だが、具体の方法論の世界なのである。

 立憲民主党の代表選挙で女性候補者は、女性の活躍や登用の機会増大を目指して「多様性を力に」と述べたが、憲法は改正しないとも主張した。女性が活躍できる社会とするために、フランスでは1996年に「女性と男性の平等に関する憲法改正」が提起され、「公職と公選による公務に女性と男性が平等にアクセスする」との法規制の根拠となる憲法改正がなされたが、日本ではこのようなことをしなくても女性活躍社会が到来すると考えているのか。

 また、ドイツ憲法はいまだに連邦基本法だが、このドイツ基本法にも1994年に「国家は男女の平等が実際に実現するように促進し、現在ある不平等の除去に向けて努力する」との規定が追加された。

 彼女は、ドイツでは憲法に当たる基本法の改正をしなければ男女の不平等は解消しないと考えたが、日本では改正しなくてもできるのだという確信があるのか。そうだとすると、なぜわが国が世界の先進国のなかで女性の登用が最も少なく、人材活用に多様性がない国であり続けているのだろう。

 そもそも、フランスやドイツが世界大戦直後に制定した憲法に男女同権条項を持っていたにもかかわらず、大戦後50年も経った時点で、上記に示したような女性の権利の獲得や参加機会の向上のための憲法改正などの努力をしてきた事実を彼女は知っているのか。

 憲法改正といえば、九条改正の是非という、ほとんど神学論争の世界にこびりついたまま、こうした女性の地位向上の努力を憲法段階から積み上げてきているフランスやドイツを見習おうともしてこなかったのが日本政治であり、追加していえば日本の憲法学者たちである。

 政治の世界から意味のある言葉や責任を伴う言葉が消えているということは、日本の政治から思考や思索、論理などが消え、事実を踏まえる努力もなくなっていることの象徴なのである。

 この世界の延長に、日本経済の発展成長やそれに伴う税収増、そして人びとの所得の上昇、国民の裕福化が生まれるはずがない。競争力や賃金など、多くの面で韓国に抜き去られている国となったが、韓国に抜かれたという危機感も政治からまるで聞こえて来ないのだ。

 「国民に寄り添う」と言うのであれば、先進国で唯一所得がまるで伸びない国民生活を何とか改善して欲しいのだ。「誰一人取り残さない」というのであれば、コロナのために職を失い自殺に走ろうとする若者たちに、自死に至る前に救済の手を差し伸べて欲しいのだ。

 この国はもはや先進国の体をなしていないが、今後とも先進国クラブG7に属し続けたいのであれば、せめてこれらの国と国家の責務についての価値観を共有したいのである。

(月刊『時評』2022年2月号掲載)