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大石久和【多言数窮】

偏差値信仰の到着点と多様性の欠如

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 東大の理Ⅲに入れそうもなくなった高校生が自殺テロに走った事件が波紋を広げている。

 かつては優秀な高校生だったようなのだが、理Ⅲが要求する偏差値にはどうしても届かなくなり、事件と自殺を企てたという偏差値偏重の犠牲というべき事件であった。

 とんでもないほど高い偏差値を必要とするこの学部への入学はいろいろな話題を提供しているが、作家の冷泉彰彦氏は今回の事件に絡んで次のように述べている。

「18歳という高い年齢まで『日本の高校の指導要領の範囲内』で『答えのある問題』を紙と鉛筆で解くという極めて幼稚な作業に縛り付ける、この点が大きな問題だと思うのです」

「アメリカのカリフォルニア工科大学に入るためには、学校の成績(内申書)とか、統一テスト(SATなど)の点数だけではダメで、『科学者の卵としての研究テーマと仮説』を持っていることが最低条件になります」

 この冷泉氏の主張は極めて重要な指摘であると考える。理Ⅲに合格するために必要な偏差値を獲得するには、ごく一部の天才を除けば、かなり幼い頃から人としての多様性を放棄して、受験用の改造人間とでもいうべき存在にならなければならない。

 理Ⅲに子供を合格させた親の体験記などを見ても「恋愛は絶対の御法度でした」というのだから、多感な思春期にも人間らしい感性を封印しなければならないし、想像だが日本の古今の文学、海外の長編小説や哲学にのめり込むことなども当然の禁止事項に違いない。

 こうして「必ず答えのある問題を、人より早く、人より多く解く能力」を身につけたものだけが合格するのだが、これは何をしていることなのか。

 企業で働くにしても、独立して起業するにしても、この実社会では答えが明らかな問題など何一つ存在しない世界を生きて行かなければならない。大学入試で判定された「必ず正解という答えがある問題で判定された能力」は社会で本当に役に立つ才能なのだろうか。

 人生は仮説の立案とその検証の繰り返しで構成されている。仮説の提出が出来なければ人生の入り口にも立てないのだ。つまり、「問いの発出力」こそが重要なのだ。

 最近のコロナ騒動で見ても、感染力や重症化率が異なる感染拡大の波が来ても、同じようにまん延防止だとかを繰り返しているばかりで、この国では病床確保や追加接種の仕組みも、検査システムの改善もオンラインでの診療や治療も何一つ進歩などしてはいない。

 海外では状況に応じて態勢などが著しく変化していると言われるし、アメリカではオンライン診療が劇的に進歩し、社会が「コロナに対する強靱性」を獲得してきたとも言われている。

 膨大な感染者を出したアメリカやヨーロッパが景気刺激策をとってインフレになるほどに経済が大きく回り、そのために経済が過熱して金利を上げなければならなくなっているのに、感染者が相対的に極めて少ないわが国が自粛強制を強いられて経済を回していないために、OECD加盟国のなかでもデフレに沈んだままである唯一の国となっている。

 これは、先の大戦に兵として招集された作家の山本七平氏が指摘した「日本軍は何度失敗しても同じ作戦を繰り返していた」という約80年前とまったく同じ現象なのだ。戦前の日本軍も陸海軍ともに「神童」と言われた者だけが合格することが出来たほどの、今で言えば極めて高い偏差値が必要な陸軍士官学校や海軍兵学校出身者が作戦を立てていたのだ。

 ところで、高い偏差値を満たして合格した医学部出身の医師の中には、患者との会話や対話があまり出来ない者がいるという。恋愛もせず仲間の友人たちといろいろと青春を語り合ってきた経験を持たない人には、患者との話し合いによって、症状を確かめたり病気の進行具合を探るといったことが出来ないのだ。したがって検査漬けというように無機質な検査値に頼る医療となってしまうのである。

 高い偏差値が要求されるのは東大の理Ⅲだけではない。他の学部でも東大などの難関大学に合格するために必要な偏差値は非常に高い。つまり、こうした大学の卒業生の多くは合格するまでの間に「たくさんのものを切り捨ててきている」のだ。

 日本国がうまく回っていない根本原因の一つに、この大学入試における偏差値至上主義がある。繰り返すが「答えなど多くの仮説の中から推論を立てて導くことでしか出てこない実社会で発揮すべき能力を、必ず答えがある問題の解答を誰より早く見つけ出したことが評価される」仕組みの偏重で、社会がうまく回るはずなどないのは当然なのである。

 日本では大学入試において、冷泉氏が紹介したカリフォルニア工科大学のような「自分で解くべき研究テーマとその解の仮説」など求められてはいない。また、フランスの大学入試共通試験とでもいうべきバカロレアでは、試験の初日には必ず哲学の出題があるというが、わが国では哲学が入試の問題科目になるなど到底考えられない。

 フランスではこの哲学試験での首席の解答は、有名な新聞ル・モンドに掲載されるという栄誉が付くという。ここでは、知識の多さや、思い出す速さと量が評価されているのではない。「考える力」が問われ、それが高級紙に掲載されるほどに重要視されているのである。

 18歳は江戸時代には成人として扱われていたという年齢である。また、歴史をふり返ると数学者や科学者の何人もがすでに立派な業績を上げていた年齢でもある。ところが現在の日本では優秀な高校生ほど、より強く偏差値競争の世界に縛り付けられている。この年齢層の能力を社会に生かすことが出来ていないのである。最もひらめくことが出来る年齢層をこのような世界に押し込めている無駄、もったいなさを嘆きたいのだ。

 現在は科学から芸術までの多くの分野において日本人の輝きを世界に示せなくなっている。その最大の原因は誤った財政再建至上主義にあるのだが、もう一つは長年にわたる高校での教育や大学入試での偏差値の偏重という才能の多様性の排除にあった。要求される偏差値レベルが高くなりすぎて、受験が「各種才能の枯渇活動」になっているのである。

 独創的で極めて高い能力を発揮することができた日本人が、今それができなくなっているのは、この二つが大きな原因となっているからである。

(月刊『時評』2022年5月号掲載)