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大石久和【多言数窮】

日本人には難しい安全保障理念の獲得

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 ウクライナへのロシアの侵略が始まり、戦争はどんな理屈でも、いつでも、どこでも起こりうる時代が来ていることを世界は実感させられてしまった。この事態に憲法の存在や条文がこの国の安全を保障すると言っていたリベラル系の人びとは、動揺を隠せないはずなのだが、完全に沈黙したままで、過去の発言を訂正することもできないでいる。

 そもそも日本人に安全保障を理解することができるのだろうかについて産経新聞社の「正論」(2023年1月号)への執筆の機会を得たので、これを敷衍して論を展開してみたい。

 ウクライナ侵攻直後にも、この国で展開された議論の中に「ウクライナ人は戦わず国土を明け渡せ」とか「他国に避難せよ」とか、およそ世界には通用しないどころか、バカにされるだけの主張がメディアに流れたのは残念なことであった。われわれはなぜそのような愚かな議論に終始しているのだろう。

 われわれは、かつて「尚武の精神が豊かな民である」と自らを規定してきたが、それはそのようになりたいという憧れというものであって、民族の実体ではないのだ。尚武の実態がないから尚武を煽ったというのが本当のところだろう。なぜなら、日本人は長い歴史のなかで大量の殺戮を伴うような厳しい戦いや紛争に遭遇していないからである。ユーラシア人の歴史的経験とはまったく異なっているのである。

 つまり、われわれの先祖たちの死の原因がほとんど紛争ではなかったのだ。われわれ日本人が愛する者の死に出会わなければならなかったのは、紛争ではなく前触れもなく襲い来る地震などの自然災害であったのだが、ユーラシアでも災害はあったものの、人びとが経験した大量死は紛争による大規模な殺戮や虐殺であったのだ。

 注意深く物事を眺めてみると、ユーラシア人の持つ「紛争死史観」と世界のなかでわれわれ日本人だけが持つ「自然災害死史観」がどのような違いをもたらしているかが理解でき、安全保障を暮らしの内部概念として定置させることがいかに難しいことかがわかるのである。

 なかなか気付かない事柄も含めて、われわれ日本人がいかに紛争死史観からほど遠い存在か、つまりは安全保障が理解できない民なのかを事例を通じて眺めてみよう。

①一神教

 明治時代になって、それまで禁教とされていたキリスト教が誰でも信仰できる宗教となった。かつて強烈な信仰心を持った人びとが存在していたにもかかわらず、明治以降にも爆発的に信者が増えることもなく、今日に至っている。

 これをなんと考えればいいのだろう。一神教とは程度の差はあるけれども、唯一絶対の神を信じ、その命令に絶対的に従うことを誓う宗教である。これは強力な敵と対峙して戦いを始めるために、絶対権力を持つ司令官の命令を遵守する兵の姿なのである。

 徳川宗家の子孫である徳川恒孝氏は「絶対的な服従と信仰を求め、これを破ったもの、信じないものには厳しい罰を与える強い性格の神」が一神教の神だというが、このことからも戦いの指揮者の性格を持つ神だとわかるのだ。

 トップの命令に絶対的に従う兵で構成されていなければ、その軍隊はもろく弱いものになる。つまり、一神教とは紛争死史観を持つ人びとのための戦いの宗教なのだ。

 恨む相手もいない自然災害死史観の世界にいるわれわれは、命令する絶対的な神に代わり、ひたすら救済してくれる仏を必要としたのである。

②言葉

 先の大戦時にイギリスの首相だったチャーチルは、回顧録のなかで「日本語は作戦の変更には不便な言葉であった」という意味のことを書いている。彼の言うように、日本語は論理の組み立てに便利なように磨かれてきた言語ではなく、揺れる情緒のやりとりに特化して洗練されてきた言葉なのだ。

 戦う存在であるはずの武家の平忠度が、木曽義仲からの攻撃による都落ちの途中に、自分の歌が勅撰集に掲載されるかどうかを確認するために、身の危険を顧みず京に引き返したのだ。日本語は武家ですら和歌に思いを託したように情緒伝達のための言語なのである。

 ドイツ語や英語の強弱やイントネーションに富んだ語音を聞くと、意思や命令を確実に絶対的に間違いなく伝達できるように磨かれ発達してきた言葉だと理解できる。日本語は紛争時の確実で明確な意思伝達用には向いていない言葉なのだ。

③家屋のドア

 家族の安全を守るための家屋のドアが日本ではほとんど外開きで、ドアノブを切られると暴漢の侵入を防ぐことができないものだが、海外の家屋ドアは圧倒的多くが内開きであることにどれだけの人が気付いているのだろう。

 一家で家具を積めば外敵の侵入を防ぐことができる内開きドアだが、玄関周りに傘立てや靴を置いたりすることができないという日常の不便性を持っている。われわれは非常時の安全性を犠牲にして日常の利便性を優先しているのである。

 この民が安全保障を理解できないのは当然のことなのだ。

④殺人用語の少なさ

 日本語で「人殺し」を意味する言葉は、殺人、殺戮、虐殺くらいしか考えつかないが、英語を調べると、大量殺戮だけでもいくつもの用語が存在する。holocaust火による大虐殺、genocide組織的な大量虐殺、carnage戦場での大量虐殺、massacre無防備の相手の大虐殺、slaughter大量虐殺、という次第である。

 興味や関心のある領域の語彙は豊富になるといわれるが、大虐殺の様式ごとにこれだけの用語を用意しなければならないユーラシアは、まさに各種の大量殺戮に満ちあふれていたことがわかるのだ。この殺戮語彙の豊富さと貧弱さの違いは、われわれが紛争を意識して構えることなど、もともと無理であることを示している。

(月刊『時評』2023年1月号掲載)