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大石久和【多言数窮】

思考の局所性と臨機性

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 民族の経験が民族性を規定するのは当然なのだが、われわれはG7などの民主主義国家と同じ群に属するから、特に西ヨーロッパの人びとと同じ価値観を有すると考えているというか、もっと正確に言えば、考えたがる性癖を有している。

 しかしそれは、そうありたいと考える日本人の願望でしかなく、実際にはこの彼我の間には、少々の努力では越えることなどできない大きな懸隔が存在している。その大元にあるのが、何度か紹介している「彼らが経験してきた紛争の規模、頻度とその残虐性」と「大規模殺戮はほとんど経験していないが、予期せぬ自然災害によってもたらされる偶然性の高い死の強要」という相互の経験の相違なのである。

 いま、ユーラシアには全体主義の中国やロシアなどと、民主主義の西洋諸国が存在し、直近ではウクライナ侵略をめぐって鋭い対立が生まれているが、上記の紛争経験についていえば両者ともに同じような厳しい経験をしてきており、紛争経験に大きな相違はない。

 紀元1世紀に限って大歴史事典を用いて周辺からの中国本土への侵入、侵略の様子を調べたことがある。わずか100年の間に20回を超えるほどの異民族からの襲撃や攻撃が記録されていたのだ。異なる民族同士の紛争が凄惨な殺戮を伴うのは常識というべきで、そのため大版図を維持する論理が、いつの時代にも「強烈な権力集中と、その権力による強圧的暴力」であり、それが中国では他民族には理解できないレベルになるのも当然なのである。

 以上のように見ると、ユーラシア大陸から切り離された縁辺の民族として、離れ小島群に存在するわれわれは「中国人などのような厳しい経験を欠く《みんなから離れたところにいる孤立した民族》」そのものである。こうした違いは繰り返し頻発してきた、大量の命の犠牲を必然とする紛争が常に身近にあったかどうかが規定しているものなのである。

 彼らが愛する者の死を経験しながら獲得していった思考の「長期性、全体性と網羅性、論理性や合理性と感情の排除、更に時間や時代の変化への理解と対応性」というように眺めてみると、われわれ日本人は長い歴史の過程でこれらの思考の型をほとんど何一つ身につけてこなかったことがわかり、そのことに慄然とせざるを得ないのだ。

 作家の山本七平氏は先の大戦では一兵卒として太平洋戦線で戦ったが、「アメリカ軍は一度日本軍に敗れた作戦は二度と採用しなかったが、日本軍はいつも同じように戦い、いつも同じように負けを繰り返していた」と述べている。

 最近の一例を示してみよう。全体が見えていない議論の典型が、わが国での原発運転の可否論である。韓国の釜山周辺には原発銀座と呼ばれるほどに多くの原発が立地していること、中国の原発は東シナ海沿岸に大量に存在していること、そしてこれらの場所は最大風速80mという強力な偏西風が東向きに吹く、日本の直上の西側に存在するということが、わが国ではまったく紹介されないで国内立地の原発議論がなされている。

 万が一のことがあっても汚染された空気はソウルや北京にはほとんど向かないで、日本に吹いて来ることになるし、現にそのような研究報告も出されているのだ。このことは毎年のようにやって来る膨大な黄砂の量を考えれば一目瞭然なのだ。他国の主権に干渉できないのは当然だとしても、これを踏まえた議論や考察がこの国のどこにもないのだ。

 いま、わが国では経済はまったく成長せず、そのために歳入が伸びず歳出をほとんど増やせず、内需が欠けたままであるから経済政策の失敗の象徴であるデフレに1995年という大昔からはまり込んだままで、2023年の今でも抜け出せないでいる。

 1997年から2017年までの名目政府支出の伸び率は、日本が0・5%、韓国8%、イギリス4・5%、フランス3%であり、その結果、この期間における名目GDP伸び率は、日本が0%、韓国6%、イギリス4%、フランス3%になっている。

 これがデフレから脱却できない最大の要因であり、そしてデフレとは国民の貧困化の原因なのに歳出削減を叫び続けて、なおデフレを助長する主張ばかりがメディアを占領しているのだ。そこに、安全保障と少子化対策の増税議論が登場しているという狂い方なのである。

 安全保障とは国民の生命財産を守ることなのに、アメリカから戦闘機とミサイルを買うことから一歩も出ていないから、地下壕も電線類の地中化も話題にもならない始末だし、2023年のバイデン大統領の一般教書演説との比較が象徴的だが、自国の経済成長のためにインフラ整備を強化するなどの発言は、わが国の政治家からは一言も出ないのだ。

 宅配便のヤマト運輸は、運転手不足などを理由に4月末には「東京から各県庁所在地への翌日配達が困難になってきた」と発表したが、これは確実に経済の足を引っ張る。日本の高速道路はリンクがつながらないミッシングだらけであるのに加えて、多くが暫定2車線で正面衝突の危険があるため70㎞/hという低速の速度規制のままであることが効いているのだ。

 この改善こそが物流のレベルを保証し、経済活動を支えるのだ。韓国はすでに暫定2車線高速道路は卒業したから、自動車による移動速度も日本が全国平均でほぼ60㎞/h程度なのに、すでに77㎞/hを実現している。

 こうした状況にあるにもかかわらず、1995年に退任した元大蔵事務次官の齋藤次郎氏は、「財務省の最も重要な仕事は、国家の経済が破綻しないように財政規律を維持することです」といい、「入省して徹底的に教え込まれたのは、財政規律の重要性でした」と述べ、この間の国民の著しい貧困化などをまるで無視した発言をしている。

 日本国憲法は、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と規定する。

 しかし、1995年の財政危機宣言以降、国民は福利を享受できていないという憲法違反が続いており、政治に無関心で物言わぬ国民は残酷で無慈悲な政治にさらされ続けている。

 こうして東アジアの経済大国であった日本は、一人勝手にずっこけているのに解決策の模索もできない哀れな貧国として、恥さらしな姿を世界に示すことになっていったのだった。

(月刊『時評』2023年7月号掲載)