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大石久和【多言数窮】

羽田空港の国際線化のことなど

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 高市首相は頻繁に海外に出かけているが、先般もインド首相と会談をして、夜半に羽田空港経由で帰国した。そして短時間で公邸に到着した。このように、現在は羽田空港が東京の代表的国際空港の機能を果たしている。

 2010年には羽田空港の本格的な再国際化(1978年の成田空港開港までは、当然だが羽田が国内・国際の両便を担っていた)が始まった。それはD滑走路の完成や国際ターミナルの開業などがその契機となったのだが、成田空港を滑走路2本にしたままで、便利な羽田の新滑走路建設と国際化を進めることができたのは、なぜなのだろう。

 ここには、一般の「羽田空港国際化史」では、ほとんど語られない歴史が秘められているのである。その一つが千葉県の事情の変化である。

 千葉県では長い間(20年間)にわたって、沼田武氏(1922~2011)が知事を務め、京葉道路や東関東自動車道、東京湾アクアラインや成田空港の関連整備に力を注いできたと高く評価されてきた。そして、沼田氏は成田空港について「何人の千葉県民が血を流したのか、わかっているのか」と頻繁に述べていて、「日本は千葉県民の犠牲の上に、本格的な国際空港を持つことができている」のだとの認識を示してきた。

 この沼田知事の意向を無視して、羽田の国際化を発議して議論することなど、およそ不可能だったのだが、2001年には千葉県知事が堂本暁子氏に変わったのだ。もちろん彼女も県民の苦悩を知らないはずはないのだが、空港開港と県民の流血を行政側の責任と関係付けて感じてはおらず、つまりは千葉県は新しい時代を迎えたのだった。このように首都圏では、羽田の国際化を議論できるキッカケの一つが生まれた。

 さらに建設大臣・国土交通大臣に扇千景氏が就任した(2000・7~2003・9)。扇大臣は、建設省に問題が生じた後に、建設行政から最も遠い政治家として白羽の矢が立ったのだが、羽田の国際化に言及したことがあり、大臣発言としては、と批判されたこともあった。

 こうした中、本格的に国際化議論を主張し始めたのが、石原慎太郎東京都知事(1999・4~2012・10)だった。実は、扇大臣と石原知事とは旧知の仲で、友人的な関係を持っていたことから、空港や道路の問題について共闘的な活躍ができたのだった。

 国土交通省は、成田空港の容量的限界と、過去の経緯から拡張の難しさを理解しており、同時に航空便の増大への対処と、成長著しい韓国の仁川空港などへの対抗を模索し始めていたところだった。

 こうして国土交通省は大臣のもとに、東京都知事をはじめとする関東のすべての知事と、政令指定都市の全市長から構成される協議会を設け、羽田の国際化議論を進めて行くことにしたのだった。筆者は、この議論に事務方の代表として参加した。

 その結果、関東の全知事と全政令市長が合意して、比較的近距離のアジア便などの国際線中心などという限定付きながら羽田を国際線化することになったのだ。振り返ってみても、よく堂本千葉県知事が難しい条件を付けずに同意してくれたものだと感謝している。

 国際化に伴う空港容量拡大のために、新たな滑走路が必要となり、多摩川の河口に洪水時の円滑な流水を確保しつつ桟橋を整備して、D滑走路を設けることにした。これも建設省と運輸省の時代だと話がまとまらなかったのではないかと言われたものである。

 成田に配慮して、近距離の航空便を担うと国際化した羽田空港は、現在では多数のヨーロッパ便なども担っている。羽田空港は4本の滑走路を持ち、2本の滑走路から同時離陸できる能力を持つこともあって、今や首都圏を代表する国際空港に成長した。

 羽田空港の国際化への「石原・扇コンビ」の働きも、いまは語る人がほとんどいないことが悲しく、当事者として参画した筆者は、二人の役割と貢献を紹介する使命を感じている。

 実は、紹介すべき事例がもう一つある。

 それは、東京外郭環状道路の凍結解除である。1967年に都知事になった美濃部亮吉は、当時の道路建設反対、道路公害反対の風潮に乗って、1970年に外環整備の凍結を決めてしまった。美濃部時代の都政については、いろいろ検証すべき事柄が多く、後世に多大の負担をかけていることも多いと感じているが、この外環凍結も反対運動に迎合した将来の東京の姿造りに背を向けた判断であった。

 美濃部知事は、海外の思想家が述べた「1人でも反対があったら橋を架けない」という言葉を紹介して凍結を正当化しようとしたが、このセリフには「橋が建設されなければ、人々は泳いで渡るしかない」という後段がついていたのだが、これは省略していたのだった。

 これに挑戦したのが、石原・扇コンビだったのだ。2001年、大臣の外環視察は33年ぶりとの報道のなか、石原知事と扇大臣は揃って外環の現場を視察した。筆者も道路の責任者として同行したのだが、さすがに扇大臣ならではと感じた場面があった。

 現地に到着すると、子供たちが「公害道路反対」などのスローガンを書いた看板を持って座り込んでいたのだ。すると、扇大臣は子供たちのところに駆け寄って、「座り込んでいないで立ちなさい」と言い、そのうえで「東京に用のない車は、もっと外を走って欲しい、東京を走らないでと思わない?」と環状道路の意義を述べて呼びかけたのだ。

 子供たちは、素直に「ハーイ」などと言ったのだが、そこにお母さん方がやってきて「この子供たちは、自発的に座っているのです」などと頑張ったのだが、小生の見るところ、すでに勝負あり。記者連中もこれを見ていたはずなのだが、報道があったか、記憶にない。

 こうしたことがきっかけとなって外環道は凍結が解除され、同時に高架式という道路構造も地下式に変更して都市計画をやり直し、再スタートしたのだった。

 どのような分野の政策でも、その背後にはその推進に汗をかいた「個人」を隠し持っている。個人の努力や困難への挑戦がなければ、何事にせよ、新たな時代は始まらない。羽田空港の国際化にしても、外環整備の再開にしても、このコンビの努力がなければなしえなかった政策の実現だったのだが、現在ほとんどどこにも紹介がないのは残念なことである。

(月刊『時評』2026年9月号掲載)