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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第143回】

焼夷弾の雨を二度浴びた少年

~国家対国家の戦争でない、国家と非対称の存在のゲリラとの戦いを巡る、見落とされがちな点を拾いあげて考えてみる~

性質・形態が全く異なる二つの戦火に世界は揺れている。歴史的な民族・宗教の相違を背景とし、かつ現代の情報通信技術の発展が様相をより複雑化させていると言えよう。大戦末期、二度の空襲を生き延びた筆者の体験をもとに現在の奇怪な戦火を検証したい。

落ちぶれた国と、とっとと離脱した国の戦争

 プーチン・ロシアの「ソビエト再興熱」の発作による奇襲的侵略戦争に遭ったウクライナ。イスラム過激派ハマスの小型ミサイルの雨とテロリスト集団による越境攻撃を、農業協同体が受けたイスラエル。理不尽な奇襲攻撃を受け、無防備な国民が殺傷された自衛権発動の反撃で、世界は1年半以上も続いて長期戦化しているロシア・ウクライナと、ハマスとイスラエルと、二つの戦火を抱えた。

 この二つは明らかに違う。一方は曲がりなりにも国家対国家の戦争で、他方は国家とゲリラとの戦闘だ。しかもそれぞれ特異な条件を抱え、それが戦火の様相に影響している。

 ロシア・ウクライナ戦争は、二つの独立国家間の戦争ではあるが、それだけではない。かつては世界を二分する大国だったが、いまは落ちぶれてきた元連邦国家の中核と、その一部に組み込まれていたが崩壊過程でとっとと離脱・独立した国家との戦争だ。それも、当面の姿で見ればそういえるが、長い歴史を紐解けば、どちらが主でどちらが従だったのか、なんともいえない面もある。国家体制や軍事の問題なら話はまだ単純だが、文化・宗教や民族のルーツにまで係わる話だから、ややこしい。近代国家と近代国家が国益の確保で衝突したといったようなわかりやすい形でなく、どろどろした要因が複雑に絡み合う。それがこの戦争をことさら異様にも醜悪にも凶暴にもしている感じがある。

割り振られた国と追われたゲリラの非対象衝突

 ハマスとイスラエルの衝突はより複雑だ。イスラエルは第二次大戦後の戦勝国の談合でユダヤ民族ゆかりの地に領土を割り振られた人工的新興国家だ。ハマスはそれで故郷を奪われた先住民族の抵抗集団の一つだ。イスラエル建国当時、この地域は基本的にイギリスの植民地的支配地で、その前は確かにイスラム教を信奉するアラブ系諸民族が割拠していたが、イスラム教の始祖モハメッドが生まれる遥か前から、ここにはユダヤ人が千年以上も住み着いていた。彼らがこの地を去ったのは、アラブ系に圧倒されたのか、地域的に近い東ヨーロッパを手初めにより住みやすく稼ぎやすい土地に移っていったのか、筆者は知らないが、いずれにせよアラブ系が最初にここに住みついていたわけではない。

 とはいえ現にユダヤの国イスラエルは敵意の海の中で存立しているわけで、周囲すべてが敵国か潜在国だといっても過言ではない。それらの周辺国家はイスラエルを目障りに感じてはいても、現代的軍事国家になったイスラエルや、ましてその後ろ盾のアメリカと正面から戦争する力もないし、開戦する口実もない。そこでかつてレーニン・スターリンら共産主義者が裏でつながりを持って支援していた近隣国の「同志集団」を動かし、それぞれの国に対する反抗活動を組織化する手を編み出して駆使したのに学んだのか、各地の同信者集団と意を通じて、政治的・軍事的に動かすようになった。

 それがイスラム・ゲリラだが、それらの中でイスラエルのガザ地区を仕切るのがハマスだ。彼らが反イスラエル周辺国の支持と援助で強化され決起したのが今回のテロ攻撃であり、イスラエルとハマスの非対称の戦火だ。

四つに組む地上戦と「人間の盾」策略との違い

 国家と国家の戦争は、基本的には職業軍人やプロの下士官から、徴集されて一定の訓練を受けた兵士たちで行われる。ロシアとウクライナの戦争も、侵略者プーチン・ロシアの空軍が無通告の奇襲でウクライナの首都・キーウやその周辺を爆撃し、陸軍の大兵力を空輸で送り込んだ上に、中・長距離ミサイルや長射程の大口径砲でウクライナ各地への砲撃を開始して始まった。事前の緊迫する両国間の情勢に応じて一定の危機意識を持って備えていたとはいえ、大規模な奇襲を食ったウクライナ軍は、緒戦段階では立ち遅れを免れなかったが、対ロ宣戦を布告して攻防を本格化させてからは、欧米から緊急供与された最新兵器による砲爆撃で応酬するだけでなく、自国内で展開される戦いだけに当然陸軍を総動員して地上戦で四つに組んで戦っている。

 一方ハマスとイスラエルの戦火は、過激派軍事ゲリラと国家との非対称の戦争の常で、ガザ地域を実効支配するハマスが周辺のイスラエル領に越境テロ奇襲を仕掛け、協同営農の集落を4桁の数の小型ミサイルで攻撃すると同時に、破壊・略奪と人質にする婦女子中心の住民誘拐を狙った集団が襲撃したのが発端だ。これに常在戦場態勢にあるイスラエル軍は直ちに反応。以降、双方ともに気球、模型飛行機やドローンまでを利用した空爆とミサイル中心の砲撃の応酬に移行したが、当然ながら双方の兵力には格段の差がある。だからこそハマスは多数の人質を取る策略をとったわけで、こうした「人間の盾」に阻まれ、またガザの地下に張り巡らした地下道兼地下陣地に立て籠もる抵抗や、地上の住民が受ける戦闘に伴う被害予測も壁になって、イスラエル軍が意図する地上戦闘によるハマス殲滅作戦は、容易ではない。

 国家と国家の戦争は、手続き的には国家の意思表明である宣戦布告で始まり、一方の征服か降伏、または双方の合意による停戦・交渉を経て講和成立で解決する。しかし国家とゲリラの非対称な関係で発生する戦火は、突然始まり、戦闘行為が止んだり、いつの間にか再発したりしながら、ずるずる尾を引く。

かつてと様相の異なる現代の戦争

 現代の戦争は、砲撃手段の極端な長距離化と、なによりも航空兵器が通常化して、空からの攻撃が日常化したため、かつての国家対国家の戦争では基本的に成立していた、戦地と交戦相手の一般民衆の生活地域との区別がなくなった。今日の戦争では「銃後」はもはや存在せず、ミサイルはじめ各種の飛行兵器や都市爆撃に特化した爆弾は、大きな戦費に耐えうる国家に限らず、ゲリラの武装集団も後ろ盾の近隣国から支援されたり、自ら製造したりして、調達・装備可能になっている。

 それと符節を合わせるように、報道の主力が活字による印刷媒体から電波・映像に移って、戦闘・破壊の姿が即時に映像で世界に拡がるようになった。その映像は、戦場への立ち入り制限や、残酷なシーンをカメラに撮らせない国家と国軍による規制のない、ゲリラ側の軍勢に紛れて撮影されることがほとんどだという事情や、各国から殺到するテレビの映像を情報戦・心理戦に利用しようとするゲリラ側の策略、さらに伝える側の視聴率本位の商業的意図も作用して、とかく感情的に反応する視聴者の耳目を引き付けやすい、刺激的な図柄に偏りがちになる。戦争そのものが異様にショーアップされ、偏った「見た目」基準だけで評価されがちになった。

「市民への被害」報道のおかしな現象

 正規の戦争とゲリラ相手の非対称の戦闘は本質的に異質で、本来ならそれらを律するルールが国際的に別々に存在すべきだろう。報道機関がその状況を報じる場合も、すくなくともどちら側の軍についていって撮った映像か、明示すべきだと思われる。

 ところがそうした考え方は存在しない。別のルールがあるべきだ、という問題意識さえも、国連など国際諸機関も、自由民主主義国家・権威主義的独裁国家の、どちらの側からも、もちろん各国のテレビ・報道界からも、提起されたとは聞いたことがない。

 イスラエル軍は、国際戦争法規に沿い、軍服を着て戦闘員と非戦闘員の区別を明瞭にしている。ハマスは手に銃を抱えて戦闘をしていても軍服はなく、戦闘員と非戦闘員の区別はつかない。いつでも物陰から敵を攻撃するが、形勢不利となれば武器を投げ棄て一般市民のふりをして「人民の海」に潜る。それがゲリラのゲリラたる所以だから、彼らを追尾して発見し、殲滅して、組織を根本的に壊滅しようとすれば、周囲の市民が巻き添えを食う確率は高くなる。しかしその巻き添えに関して、国家の場合は戦時国際法・戦争法規に違反したとして、強く非難され糾弾される。

 しかし現に世界中の報道機関は、今回の戦火の発端が、ハマスのゲリラ攻撃でガザ近接地域の住民や野外コンサートに集まった若者たちから多くの犠牲者が出たテロ行為であるのを忘れて、あるいはわざと無視して、それに対するイスラエルの正当防衛権によるガザでの地上戦で生じるおそれがある「なんの罪もない市民が受ける被害」を伝える。これは考えればおかしな現象なのではないか。

国際法規に照らして不公正

 現行の国際戦争法規は、一世紀も昔の第一次世界大戦の直後に生まれ、第二次大戦の体験を踏まえて部分的に修正・加重された。それからすでに70年以上たっている。その間に兵器体系も戦闘の様相も一変した。なによりも現在の戦争は国家間の闘争から、国家とゲリラとの非対称の抗争が多くなった。

 ハーグ陸戦法規の規定では、軍服を着て武器を手にする敵とは戦って当然。軍服を脱ぎ武器を捨てて降伏すれば保護の対象だが、軍服を脱ぎ捨てていても武器を手にしていれば便衣隊と認め敵兵として扱う、といった程度を決めているに過ぎない。いまゲリラは意識的に平服を常用して高度な兵器を操り、相手方を襲って大きな打撃を与える一人前の軍事組織だが、彼らに対処する国際法規はない。

 最もバカバカしい滑稽な一例をあげれば、ロシア軍による侵略先ウクライナでのこどもの誘拐とロシア本土への連行は、戦時国際法が定める悪逆非道な非人道的行為とされ、直接の下手人も、被害者の総数も個々の氏名さえ確実でないにも拘わらず、早々と国際司法裁判所に提訴され審理されて判決が確定し、ロシア軍の最高司令官プーチン大統領が主犯として国際指名手配され、国際司法栽判制度の加盟国に立ち入れば即逮捕・拘留されても文句をいえなくなった。

 一方ガザに近接するイスラエルの村落や野外コンサート会場でハマスのテロリストが誘拐した人質は、ごく一部がさまざまな交換条件の代償として小出しに「解放」され始めていて、それが朗報として国際社会でも報道でも好感されているが、犯人の追及や最高責任者の処断があったとは寡聞にして聞かない。イスラエル当局が、当時捕らえたハマス・ゲリラの捕虜を尋問して現場の指揮官や命令権者を特定し、将来の戦犯裁判の証拠とすべく備えている動画を見た憶えがあるだけだ。これはプーチン大統領が気の毒になるほどの、ひどい偏りと不公正ではないか。

戦間期に進歩した重火器

 あくまで軍事に疎いシロウトのウロ覚えのレベルにすぎないが、飛行機が戦闘の場に登場した当初は、第一次大戦末期にカイゼル・ドイツ軍がフランス戦線で主に偵察目的に低空で飛ばした小型機の、操縦席の後部シートに乗る戦闘員が、塹壕に立て籠もる敵兵に向けて銃を発射するか、手榴弾を落とすかしたのに対して、塹壕の兵士が小銃か機関銃で応戦する、といった程度だったのではないか。

 それが「戦間期」と呼ばれる第一次と第二次の二つの世界大戦の間の20年余の間に、航空機の諸性能もその交戦手法も、爆弾やミサイルなどの火器の性能も、格段に発展・進歩を遂げた。第二次大戦当初にはヒトラー・ドイツ軍による欧州戦線のメッサーシュミット戦闘機の大活躍や、V2ロケットによるロンドンへの渡洋直接攻撃、東條・日本軍がありったけの航空母艦群に満載した艦載攻撃機を一斉突入させた、ハワイ・真珠湾に集結するアメリカ太平洋艦隊への宣戦布告以前の根こそぎ的な奇襲爆撃、という域に到達する。

 それらに対する英米側の復讐攻撃が、イギリス空軍機の大群によるドレスデンやベルリンの都市大空襲、アメリカのB29爆撃機を存分に使った東京・大阪などの都市部に対する徹底的な無差別空爆、その極限の広島・長崎の都市中心部への原爆投下だった。

今日につながる戦略的思想

 日本の真珠湾攻撃は軍港が対象だったから民間に対する加害は極めて少なかった。しかしドイツのV2はロンドン市街そのものを標的にしていた。ドレスデン・ベルリン、そして東京の1945年3月10日が皮切りの一連の日本の都市空襲、広島・長崎の原爆投下は、それに対する米英側の報復というほかない。彼らの狙いが日本やドイツの代表的都市を民衆の生活圏ぐるみ完全に破壊・消滅させることによって、相手側の戦意を挫き、無条件降伏に追い込むところにあったのは明白だ。

 このとき戦術的手段が戦略的思想に転化したわけだが、世界大戦規模の本格戦争が核兵器による相互抑止作用で起きにくくなった今日の国家間の武力衝突にも、国家と強力な兵器・兵力を持つ非政府軍事組織が起こすテロ行為にも、この思想は持ち込まれている。今回のロシア・ウクライナ戦争でもハマス・イスラエルの衝突でも、空からの都市攻撃、民衆に及ぼす加害を顧慮しない戦術が日常的にとられている事実は指摘するまでもない。

 是非善悪は別として、現代の戦争・戦闘では「なんの罪もない民衆に犠牲を強いる」ことは、もはや不可避になっている。ただ国家間の戦争では、いずれ和平交渉の段階に移ることも計算に入れて、爆撃の規模は大きいとしても回数は限られ、ほぼ予測も覚悟もつくのに対して、ゲリラが仕掛けるのは、規模こそ小さいが回数が多く、予測不可能で、心理的影響度は侮り難い、という違いがある。

45年4、5月の空襲体験

 アメリカ軍のB29による東京大空襲のとき筆者は満14歳の中学生だった。1945年4月13日から14日にかけての、大編隊による深夜から払暁まで焼夷弾を大規模に落とす無差別空襲を、東京・小石川の家で体験した。5月25日から26日にかけては、焼け出されて移っていた赤坂の亡祖父の家で経験した。この2回の大空襲は、それに先立つ3月10日から11日にかけての東京旧市内の東部、いわゆる下町を徹底的に焼き尽くして焼死者10万人を出した大空襲にくらべれば、家の建て込み方が少ない山の手の住宅地が中心だったために、焼死者の数こそ少なかったが、それでもこの計3回で、東京35区といっていたころの旧市内は、ほぼ完全に灰燼に帰した。

 焼夷弾といっても一様ではない。筆者が体験したうち4月は、500ポンドつまり250キロ弱の油脂焼夷弾だった。5月は長さ40センチ、太さ10センチほどのエレクトロン焼夷弾という、着地の瞬間に燐光を発して激しく燃え上がる小型弾を、鉄の輪で束ねて落とし空中で分解・飛散させるものだ。前者は住宅街に100メートル間隔くらいに落ち、爆発引火すれば油脂が四方に飛び散り、向こう三軒両隣を一気に燃え上がらせ延焼する。後者は空中で分解するから、ほぼ一線に焼失帯ができ、枠の鉄の輪や底板も殺傷兵器として作用する。

 二度ともたいして広いともいえない庭に落ちた。前者は筆者が立っていた位置から数メートルの、離れとの渡り廊下を隔てた近さだが幸い不発だった。爆発していたら筆者は爆死していただろう。100メートルほど離れた大本営参謀の家に同じ爆弾が直撃して発火して、防空壕(空襲の爆風や小型弾の直撃に対応するための壕)にいた一家全員が焼死した。後者は数発が母屋の屋根・2階から天井を突き抜け1階の客間に落ちて発火、たまたま父親が勤務先の当直で不在で、60代の祖母と30代後半の母親と3人いっせいに粗末な防空壕から飛び出し、客間の横を擦り抜けて玄関から逃げた。家に落ちただけで10発近くで、当然直撃死の危険はあった。

諦観が先立った反応

 市電(路面電車)が走っていた国道246号線から赤坂御所に沿う空堀まで走って見ると、左側は燃えていない。右側は道沿いの能楽堂が盛大に燃えていて、その火が風向きによって御所の土手まで届く。しかし左側は木造の住宅街でこれから延焼するのは明白だ。右側は能楽堂の火さえ通り抜ければ、赤坂区役所や山脇女学校の校舎など鉄筋ビルが続いて、エレクトロン焼夷弾の延焼はない。そこで祖母を背負い、母親を叱咤して風の息つぎに乗じて空堀の難所を抜け、御所の東南門前にきた。多くの避難者が広い構内に逃げられると思って集まっていたが、巡査や御所の役人、兵隊まで出てきて門を開けない。人込みに焼夷弾の鉄枠が落ちて直撃の死者が出た。

 空が白み、避難者全員の端々に目が届くようになって、やっと門が開き御所内の隅っこの林に避難者を入れた。左側の神宮外苑周辺から表参道周辺では、延焼の火と熱でかなりの死者が出たから、筆者の判断は間違っていなかったが、御所の役人や巡査・兵隊のやり口はまったく予想外で、内心憤激した。当時御所には三笠宮がいて住まいも焼けたようだが、朝方になって見舞いと称して避難者に顔を見せた。しかしだれも頭も下げずに黙殺、彼も早々に引き揚げていったものだ。

 正規戦の敵襲には戦争参加の気分が出る。広島や長崎の原爆のような確実に民間人を皆殺しにする暴挙は論外だが、いかに大規模とはいえ、焼夷弾による空爆は、もちろん運も左右するが、対策と逃げ方で「勝った」気分になりうる。どうせ戦争も先がないという見通しが常識化していたこともあって、東京の「焼け出され」の反応は、リメンバー・パールハーバーじゃあ仕方ねえな、という諦めが先に立つのか、そんなに激しくなかった。

後年の糧となった精読の時期

 3か月後には掌を返したように、マッカーサー万歳・民主主義礼讚を唱える新聞やラジオが、5月25日の空襲では皇居や御所の一部が焼かれたこともあって「鬼畜米英」を連呼したのにくらべれば、空気が違っていた。

 5月の同じ夜に通っていた中学校も全焼した。級友のほぼ半分は奥日光の、時節柄客がくるわけもない湯治宿で、開墾作業の傍ら学習することになった。残る半分は縁故を求めて地方に散った。筆者は縁故組だったが、都落ち先の中学に転校書類を取りに仮住まいの事務局にいくと、担任がいて、こういった。

 転校先に行く必要はない。背伸びしてもいいから家で本を読んでいなさい。戦争はもうすぐ終わる。秋には焼け跡のバラック校舎、君も防空壕に小屋掛けした住まいでも帰京して勉強を続けよう。いままで君らにしていた教育は変える必要はないという確信がある。母親の里で、転校した中学に行かず、小地主が客を脅かすための飾りにしている応接間の書棚の世界大思想全集を片端から読んだ。分からなくても、ともかく読んだ。その蓄積が、のちにどれだけ役立ったことか。

 筆者の中学は当時日本に2つ、別に高等女学校が2つ、計4つしかない国立の中学だ。戦時下の全教官の口癖は、君たちにとって戦争は軍事教練に励むことではない。世界の名門中学、イギリスのイートン、ハロー校の生徒以上に勉強することだ、だった。英語は戦時下でも一貫して最重要教科で、授業時間数も多く、冒頭の教官に対するスタンダップ・バウの挨拶から出席点呼に答えるヒヤ・サーに始まり、授業中は日本語一切厳禁だった。

宗教・民族の形態が不変なら

 明治の開明教育、大正のリベラリズム教育の源流になった国の実験校だが、校舎を焼かれても反米英の言辞を吐く生徒は見かけず、すでにそのころは戦局不利の責めを負って退陣していたが、東條・開戦首相を信奉する生徒も、もちろん教官も、まったくいなかった。

 ドレスデンやベルリンの伝統中等学校も、空襲した英米機よりヒトラーやナチを嫌う、同様の気風・気概だったのではないか。そう考えると、見渡す限り焼け跡の廃墟から20年たたずに、日本が世界第二位の経済大国、西ドイツがヨーロッパ経済のトップ・リーダーに、それぞれ民主政治・自由経済のもとで復興した理由が、解ける気がする。

 戦争というものは世界から宗教・民族がいまの姿を保つ限りなくならない、と筆者は考える。ともに独善・偏狭・排他・憎悪の元凶だからだ。とりわけ軍事テロは、憎悪に基づく確信犯の行為だから、なくならない。現に進行する二つの戦争を見て敗戦日本とドイツの奇跡を考えると、特にその思いは強い。野蛮国ロシアと戦うウクライナ、終わりのないテロに直面するイスラエルは、大変だ。

(月刊『時評』2024年1月号掲載)