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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第78回】

「一帯一路」は知らん顔でやり過ごそう 習近平の策謀に騙されるな

 日本における共産中国の大国化ロードマップとも言うべき「一帯一路」政策への論議は、欧州やアジアからの注目度に対しやや冷淡だが、これには相応の理由がある。拡大・膨張路線を取りつつ国内資金の逼迫が深刻な“隣人”に対しては今後も敬遠しておく方が上策だ。

最も冷淡なのが日本?

 中国共産党総書記にして中華人民共和国国家主席である、習近平の唱える「一帯一路」なる“政策”を、どう捉えるべきなのか。そして、この“政策”に、日本はどういうスタンスで対処すべきなのか。
 このテーマが、現に日本でマトモな論議の対象になっているとは、必ずしも思えない。安倍首相は、メディアに聞かれれば一定の関心があるかのように答えているが、これは多分にリップ・サービスというものであって、本気になって相手にする気があるようには見えない。財界の大勢も冷淡で、限られた一部の層、つまり共産主義や中国に対する“盲従派”や“友好屋”、さらにその下地の上に利害打算を乗っけた連中は別として、「一帯一路」に世界中で最も冷淡なのが日本ではないか、という気がする。
 それには、それ相応の背景があるだろう。中国は日本にとって、論議の余地のない隣国だ。ただし、ただの隣国ではない。こじんまりと清潔に暮らす我が家の隣に、地所こそ広いが、雑然と並ぶ無数の長屋が建っていて、そこにあまり柄のよくない貧しげな連中が、騒々しく、いかにも不穏かつ不潔な状態で、住んでいる。これが、長らく多くの日本人に染みついた、中国の印象だろう。
 歴史の中のごく一時期、当方に非があったといわざるをえない局面があったことは、否定できまい。しかし、長い隣人付き合いの大半の歳月、日本はもっぱら相手方の、数の多さ、鼻息の荒さ、押しの強さ、がめつさ、がさつさに圧倒されて、どうも望ましい隣人ではないな、と鬱陶しく感じながらも、さりとて引っ越すわけにもいかず、仕方ないか、と溜め息ついて過ごしてきた、というのが大方の日本人の本音であるはずだ。
 それが共産党一党独裁体制を70年続け、統治力・経済力・軍事力を飛躍的に向上させるとともに、広大な国土や支配海域をさらに拡大しようと図り、モロモロの武器を大量に保持して見せびらかすのに加えて、国際的に定着したルールを無視し、武力とカネで自国の欲求を通そうとするようになった。極言すれば、貧乏長屋が突然成り金の反社会的暴力集団の根城になったのにも似た、いよいよ付き合いたくない、物騒な相手になった感じなのだ。これでは、敬遠しておくのが上策、という空気が定着するのも、当然といわなければなるまい。

“目覚めた巨人”に変化

 中国は極端な多民族・多文化・多宗教の雑然たる集合体なのだから、国とか国民性とかという、一般的な表現でくくるのは実は困難であって、絶えず変転するときどきの統治主体が示す言動で推し量るほかない面がある。しかしながら、どの主体が統治した時期も、夜郎自大、白髪三千丈、そして萬里の長城が象徴する尊大・誇大・巨大、の性癖に、変わりはなかった。ただし大きく構えてみても、それが必ずしも大きな成果に結びつくとは、限らない。というより、むしろ口ほどには実績が伴わないのが、彼らの常態だった。
 その辺が、遠く離れたところで、ほとんど無関係・無関心に過ごしてきて、最近俄に羽振りがよくなった相手を、損得づくで視野に入れはじめた欧米と、日本との違いだろう。近くで長く住み暮らし、話半分どころか、極端に法螺話ばかり聞かされてきた日本が、またかと「一帯一路」をマユにツバをつけて聞き、簡単には信じようとしないのも、当然というべきなのだ。
 欧米、ことに日本を含む先進社会に共通する価値観やマナーのルーツになっている西欧の、かつての中国に対する評価は“眠れる獅子”という域に止まっていた。しかし中国が共産党体制下の“改革開放”で世界の生産大国・金満大国にのし上がったここ半世紀に、西欧・ことにEUの中核を占めるドイツやフランスの彼らを見る目は、“目覚めた巨人”という肯定的な評価に変わった。
 日本を見る視線も大差ないのかもしれないが、そもそも西欧にとって中国は、遠いアジアの異文化が支配する異国にすぎない。それでも日本は、太平洋に浮かぶ海洋国家として開かれた印象があるし、価値観にも共通する面が多い。しかし中国は陸続きではあるが、果てしなき道をどこまでも歩き続けた末に現れる行き止まり、地の果てに存在する、異様な思考と風習の国、といった感じなのだ。
 海を越えた夢の先の国と、長い土ほこりのドン詰まりに存在する異様な国。そうした感じの差は、例えばプッチーニの二つの歌劇、中期の「蝶々夫人」と、絶筆である「トゥーランドット」の対比にも現れているのかもしれない。前者はアメリカの海軍中尉の現地妻になった、長崎の町娘の悲劇だ。これに対して後者は、謀反で国を追われて中国に逃げたタタールの王子が、中国の皇女が夫となる男性を公募するために、不正解なら斬首する、と公言した謎掛けに挑み、プッチーニが喉頭ガンで死んだあとをアルファーノが補作した終幕によると、謎解きに成功して別々に逃げていた父親の王とも再会し、民衆の歓呼の中で皇女と結ばれる、という荒唐無稽な筋だ。リアルとオカルトの極端な対比が、彼らの日本観と中国観の違いを端的に示している、といえるのだろう。

西欧にとっては中国の前にロシア

 西欧・EU各国の感覚でいえば、広大な領土を持ち、強権・独裁的な統治体系をとり続け、なにかといえば軍事力に訴えることをためらわず、彼らと必ずしも価値観を共有しない隣国といえば、それはなによりもツァーリ時代・ソビエト体制下、そしてプーチンの治政を通じて、ロシアである。彼らと中国との間に、ロシアが存在する。中国の軍事大国化を恐れる前に、ロシアの脅威が問題なのだ。
 仮に中ロが一体となって西欧に攻撃を仕掛けてきても、軍事的脅威の度合いはロシア単体に多少の割増がつくくらいの話で、本質的に大差ない、むしろ、かつて同じ共産国だったのに、中ソ対立という事態を起こしたほどだから、遠交近攻の理で、遠い中国は近いロシアに対する牽制球として使える可能性もある。害は少なく、ダメモトかもしれないが、一定の利用価値も見込める存在なのだ。
 西欧、ことに現にEUの経済的・政治的中核であるドイツにとっては、中国はなによりもチープな日用雑貨の調達元であり、比率的には低いにしても、なにしろ膨大な人口を擁する国だから絶対数は大きい、富裕・中間層に向けた、ベンツからフォルクスワーゲンなどのクルマを主体とする、高額消費財の輸出先である。とりあえずは儲け先、場合によっては投資先にもなりうる存在だ。それどころかメルケルの胸の中には、「一帯一路」はかつて第一次大戦前のカイゼル体制、さらに第二次大戦前のヒトラーが、海洋国家には金輪際なりえない、というドイツの地政学的な制約条件のもとで描いた、欧亜大陸の制覇構想である、ベルリン―ビザンチン(イスタンブール)―バクダッドを繋ぐ、“3B政策”を逆向きに拡大した延長版が「一帯一路」だと考え、それなら利用価値もありうる、と歴史的脈絡に立ってソロバンを弾く心理が、まったくないとも限るまい。

ドメスティックな問題が占める比重

 それはさておき、繰り返しになるが、日本にとって中国は、一貫して圧迫感と拒絶感、恐怖と軽侮の交じり合った視線の先にある相手だった。それにひきかえ、ロシアはどこか親近感が漂う、ロマンの対象にもなりうる国だ。逆に西欧・EUにとって、ロシアは常に脅威と野蛮の二語で捉える相手だが、中国は関心の埒外だった。これは大きな差だ。
 習近平が「一帯一路」という“政策”を打ち出した狙いは、国内政治専門の筆者には領域外の話だが、表向きの、中国を中心とするアジアとヨーロッパとの新たな“道”を開いて両者の経済的なつながりを飛躍的に拡大する、というだけではないことは、だれにも一目瞭然だろう。もちろん経済的な視点もあるには違いないが、同時に国際関係や軍事・安全保障上の観点もあることは明らかだ。ただし、日本やアメリカにとっては、軍事的・安保上の視点が先に立つだろうし、西欧・EUにとっては経済的側面のほうが、より強く意識されるだろうことは、否定できまい。
 そうした要素に加えて筆者は、中国共産党内部の勢力抗争と生産力・資金力・財政力の三つがからむ、中国のドメスティックな問題の占める比重が意外に大きいのではないか、とも思っている。
 かつては日本が、領有する台湾の付属島嶼の感覚で、新南群島と呼んで統治する、というより管理していて、戦後は沿岸国が協議して帰属を決めることまでは決まっていたが、仏領インドシナの独立やベトナム戦争などで長期にわたって棚上げされたままの、南シナ海一円に散らばる島々が問題の発端だ。これらの島々について習・中国は、原則論として領有を主張するだけに止まらず、上陸・占拠して実効支配する行動に乗り出した。その口実のひとつが、ここは「一帯一路」の玄関先になる海域だから、ということだった。
 しかし実際は航路開設・安全確保という建前から大きく外れて、軍事利用が先行した。いくつかの島で短期間に軍事基化が進み、大型軍用機用の滑走路も複数がすでに完成していて、実際に使用されている。
 「一帯一路」の“一帯”は、建前としてはその名が示す通り、上海・広州・香港などシナ大陸沿岸の港から、南シナ海・インドシナ半島沿海・シンガポール・マラッカ海峡・ベンガル湾・インド洋を経て、アラビア海に至る、海上輸送ルートを指すとされている。一方“一路”は、中国の中枢地域から新彊ウイグル・キルギスタン・カザフスタンなどの旧ソビエトから独立した新興イスラム国を通り抜け、シベリア鉄道に合流して、ヨーロッパ各地につながる鉄道が本線だろう。そこに、旧来の中国東北部、つまり旧満州からシベリア鉄道に伸びる路線。さらに“一帯”の終着点になるアラビア海の港から、イラン・ジョージア・ウクライナを経て、EUに直通する新線の建設。中国南部から最短・最速で製品を積み出すルートになる、“一帯”沿岸のベトナムやマレーシアの港に通ずる路線。そして、こうした鉄道網につながったり、平行したりする、自動車専用道路。これらによる大ネットワークとされている。

欧亜を結ぶ往来に効果

 もし、そうした大風呂敷が完全に実現すれば、たしかに欧亜を結ぶ人の往来や貨物の輸送に大きく役立つだろう。“一帯”は事実上の海洋勢力圏の構築になるのだし、“一路”は有事の際の戦闘部隊の移動ルートになるのだから、その軍事的意味、安全保障上の影響も、極めて大きいことになる。そして現実に、“帯”の中心位置になるスリランカの港湾建設で、中国は用地の租借と建設・整備費の借款を政府と締約して本腰を入れて当たっているし、“路”の一部としてすでに完成している、ウイグル―キルギスを抜けてシベリア鉄道につながる貨物輸送
も、盛況のようだ。それだけではない。中国は“帯”の終着港を突き抜けた地点のアフリカ東北端のジブチで、日本の海上自衛隊も参加する国連の海賊対策の国際行動の一環に加わるのを奇貨として、独自の海軍基地を構築した。インド洋に面するアフリカ東岸にも、海軍の寄港地を築いているという。さらに、インドネシア・オーストラリア・ニュージーランドなど、そしてここもかつて日本が国際連盟の信託領として統治していたミクロネシアの一部の国など、“一帯”とはまるで方角違いの海洋国にも手を広げ、利権を供与してシンパ政治家を丸抱えしたり、彼らに口利きさせて政府・地元自治体や企業に投融資して港湾や鉄道の建設に関与したり、観光“開発”に中国の企業が直接乗り出したり、さまざまな活動をしている。最近は南大西洋に面した南アメリカの反米国家や、キューバを筆頭とするカリブ海諸国にも進出しているとされるが、これらは経済的な進出ではあるものの、世界規模で第二次世界大戦後に確立されたアメリカの勢力圏の外延部に、軍事拠点、少なくとも橋頭堡となりうる布石を打つ狙いだった、と見て間違いないだろう。
 これらの事象は一挙に、かつ一連の関係性をもって生じただけに、アメリカと太平洋を二分する海洋勢力圏の確立を意図する中国の覇権主義的野心の現れ、と捉えることができる。もちろんこれらは、現段階では“点”のネットワークに止まっていて、“帯”のレベルにはとても至っていない。万一にもこれが“帯”に発展したら、米中正面衝突の大事件になりうるが、衛星で地球上の出来事はすべて看視できる時代だとはいえ、世界の要所要所に“点”を網羅したというだけでも、世界規模の軍事大国の威信を示す、象徴的意味を持っているといえよう。

相次ぐ融資をめぐるトラブル

 土地やカネの貸し借りをめぐる紛争は、個人間でも厄介なのに、国と国の関係ともなればいよいよ面倒な話になる。先にも触れた通り、中国はスリランカから港湾用の国有地を租借し、借款方式で資金を供与して埠頭や倉庫などを建設したが、完成した施設の稼働率や収益力と借款の融資条件が釣り合わず、紛議になっているという。こうした中国の借款や融資をめぐるトラブルは、ポリネシアの一部の国の観光事業や、ニュージーランドの港湾でさえ、起きているという。
 新興国の中には、得てして分不相応な豪華施設をつくろうとして、返済計画など考えずに多額の借款や融資を受けるケースがある。貸手側が巧言を弄して貸し込めば、やがて借り手側が返済不能に陥って債務奴隷化し、貸手側の属領化したり、そこまではいかなくても、借り手が貸手の傀儡にならざるをえなくなる事態が、十二分に起こりうる。こうなると実質的には融資に名を借りた侵略行為であって、搾取の極限というべき姿だ。
 マレーシアで親中派の政敵政権を打倒して92歳で首相の座に返り咲いたマハティールが、中国南部からカンボジアを経てシンガポールに至る、「一帯一路」の一角を成す“一路”の鉄道の領内建設計画を破棄したのも、すでにカンボジアを完全に属国化している習近平・中国の、経済をエサにした“債務奴隷化搾取術”を警戒したからに違いない。マルクス・レーニンも、スターリン・毛沢東も口あんぐりの成り行きというべきだが、「一帯一路」はつまるところ、共産中国の大国化のロード・マップ、「習近平思想」の具体像を伴った集約といっていいだろう。
 五年二期までの総書記の任期制限を撤廃したうえに、「習近平思想」を「毛沢東思想」に並ぶ党の指導理念だと中国共産党規約に明記させた習だが、毛に“思想”があったとは到底思えないものの、習はその毛と較べても“思想”とはより縁遠いというほかない。ただし習には、毛に欠落していた実務処理能力が備わっていることは、否定できまい。その意味で、一時は共産中国だけでなく、日本にもイタリアやフランスを中心としてヨーロッパにも、氾濫していたが、いまは手にする若者もいなくなった「毛沢東語録」の赤い小型本よりも、「一帯一路」の目論み書のほうがまだマシ、というべきなのかもしれない。
 ただし、習にとってそれは「一帯一路」がまずまずの成果を残したときの話だ。もし成功しなければ、党総書記の任期制限をなくしたとはいえ、党内にわだかまる反太子党派の反乱を招き、独裁的最高権力者の地位を追われないとも限らない。

足下の資金が最大の問題

 その肝心の成否は、簡単には進まないし、目立てば摩擦を避けがたい、軍事的な展開ではなく、建設の進捗度や統計数値に端的に現れる、経済面にかかってくることは明らかだろう。ただ経済といっても多様な側面があるし、それぞれ固有の状況も事情もある。そのうち最大の問題は、いうまでもなく資金だ。中国は、実態としては必ずしも一般的に思われているほどの、金満国家でも資金大国でもない。対米輸出は、トランプ大統領が激怒して矢継ぎ早にさまざまな“対策”を打ち出すほど伸びる一方だし、中国の外貨準備高は世界で断トツの状態にある。
中国人の観光客は日本だけでなく世界中を闊歩して、手当たり次第に買い物をしている。中国人の富裕層が、各地で不動産や美術品を買いあさっているという噂も、いきも根強い。
 しかし一皮剥けば、中国の通貨である元の低落は、著しい。外貨準備高が巨額だといっても、いまや欧米や日本などが過去に投資した資金を引き揚げる傾向にある。そもそも中国人が企業活動で公然と、そして資産逃避術としては密かに、国外に持ち出すカネが巨額に達している。中国の統計が信用できないのは世界の常識だが、在外純資産統計、つまり日本なり中国なりの企業や国民が外国に持っている資産と、外国企業や外国人が日本なり中国なりで持っている資産を差し引き勘定した額では、中国は日本の足元にも及ばない。
 “万年不況”とテレビなどで“ニュース芸人”が騒ぐ日本は、貧富の差が拡大する一方で、多くの大企業は400兆円もの内部留保を抱え、いまさら金融機関からカネを借りる必要がない。銀行は一定の信用が置ける貸し出し相手を探すのに、往生している状態だ。もはや買いたいモノも、したいコトも思いつかなくなった高齢者や、いずれ親から遺産を相続できる中堅層を中心に、個人金融資産もじわじわと伸びて、長らく400兆円を前後していたのに、気がつけばなんと1000兆円に達する、という状況にある。

日独仏に頼るほかなし

 実は日本はカネ余り大国なのだ。これに対し中国は、国内大企業の大半を占める国有・軍直轄企業は、恐ろしくてマトモな決算など出せないほど累積赤字を抱えている、という経営実態だそうだ。成り金特有の浪費と、共産党実力者層・富裕層の資産の国外逃避で、資金の流出・枯渇もひどいという。
 それだけでなく、いまや人件費も相対的に高くなって、チープな製品に特化した製造業は、東南アジア諸国やバングラデシュ、アフリカ諸国などに対抗できなくなった。得意芸のニセモノ作りも、国際的な看視・規制が厳しく、昔のようにはいかない。そもそも“一人っ子政策”50年、日本より激しく急速な高齢化で、農業者を含めた生産年齢人口が急減し、この面でも成長に急ブレーキがかかっている。そうした中で、過剰設備・安値輸出が世界的に問題視される、鉄鋼などのハケ口として「一帯一路」はうってつけなのだが、いかんせん、そのために必要な資金を国内で調達する当てがない。それを当面トランプ・アメリカには求めるべくもないから、日本やドイツ・フランスに頼るほかない。それが、習・中国の本音だろう。
 冷えきっていた日中関係がこのところ急速に好転している、という。しかし、日中関係はなにも日本が冷やしたわけではない。先方が勝手に冷やし、冷えきらせ、ここにきて一定の思惑を込めて、やや温ませてきている、というだけの話に過ぎない。
 その思惑が、「一帯一路」のための資金を提供してほしい一心だ、ということは、見え見えだ。いまや中国は、もちろんODAの対象になるような発展途上国なんぞではない。経済大国なのだから、超低金利なのに集まってくる預金の運用先に困っている銀行からの融資に保証をつけてくれ、あるいは政府が運用している年金の積み立て基金から協力してくれ、ということなのだろう。
 しかし、そんな誘いに乗る、義理も、必要も、どこにもない。年金基金はこのところの内外の株高で好成績で、逆にいうとこの調子が続くとも思えないので、乗り換えが問題になるが、「一帯一路」のようなリスキーで、どう見ても徳性に欠ける、二股も三股もかけた打算づくの政策なんかに、官民とも、断じて付き合うべきではない。
(月刊『時評』2018年9月号掲載)