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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第84回】

たかがクジラ されどクジラ

 世間で言うほど日本の食文化を支えた主役とも言い切れないクジラだが、今や狂信的なクジラ・イルカのマニア・クラブと化したIWCからの脱退は当然だ。実際に海外からも国内偏向マスコミからの反応もそれほど激しくなかった。安保に欠かせない、友好国が多いとはいえ、日本と感覚の違いはあるという事実を示す手頃なテーマといえるのではないか。

東大駒場寮で知った味

 クジラには、戦中・戦後の苦難の時代を体験した多くの同世代人と同様に、筆者にもさまざまな思い出がある。

 イマドキのテレビに決まって登場する、学校給食のメニューにたまに登場してみんなが喜んで食べた、というのは、明けて数え年で90歳の大台に乗った筆者にくらべれば少なくとも一回りは若い、やっと後期高齢者に仲間入りしてきた世代の話だ。小学校に入学した年にシナ事変が起き、旧制中学三年の夏に〝大東亜戦争〟が敗戦に終わった筆者の世代には、学校給食はまだ一般的には存在していなかった。1930年代の中ごろ、いわゆる農村恐慌のころ冷害が甚だしかった東北地方に一部で実施されていた例はあるが、あれはあくまで非常事態下の応急措置だったのだ。

 筆者がクジラの味を知ったのは1950=昭和25年の新学年に合わせて、〝戦後教育改革〟で生まれていた東京大学教養学部の駒場寮に入ったときからだ。筆者はその前年に入学した〝新制東大〟第一期生なのだが、東京生まれの東京育ち、本来は〝焼け跡闇市〟の超住宅難の時代に、地方出身学生でも入るのが容易でない寮に入れる立場ではない。しかし敗戦後の世相混乱の中で父親が破産し、焼け跡にやっと建ったバラックも競売に付されて、一家離散した。たまたま教養学部の前身である旧制一高の最後の生徒が卒業して寮を出ていき、教養学部の第二期生が入学・入寮してくるまで、かなりの時日の空白が生じた。そのドサクサに紛れて、所属していた教養学部野球部が旧制一高野球部の部室をそのまま引き継いでいた、北寮一番寝室の空ベッドに潜り込むことができたのだ。

 因みに東大野球部には一誠寮という合宿所が本郷・追分にあって、戦災にも遭わなかったのだが、それとは別に新制大学の発足当初に教養学部野球部というものができた。

 正規の二軍ではないが、本郷の野球部と無縁でもない。新制大学になって旧制高校と同様に教養課程で必修になった体育の単位が、運動部に属していれば自動的に与えられる、というので便宜的に生まれ、その〝魅力〟で入った学生も少なくなかった。それでも一部のメンバーは本郷の本隊に加わって東京六大学リーグ戦に出場した。残るメンバーも東京六大学野球連盟の登録部員証を与えられて球場に無料入場できたし、立教大学の二軍や青山学院・学習院など〝改革〟で大学に昇格した元高専のチームと練習試合もしていた。

 教養学部野球部は体育受講免除の〝恩典〟がたった一年でなくなってしまい、それじゃ意味ない、という話で2年余で本郷の本隊と合流して消滅する。しかし筆者と同期の第一期生のチーム・メイトから、竹田晃と渡邊融と、のちの東大野球部監督が二人も出た。

戦後の〝改革〟に伴う混乱

 余談を重ね〝戦後学制改革〟に触れると、日本は明治維新・王政復古から間もない1872=明治5年の〝学制頒布〟いらい、国家の基幹となるエリートを養成するコースと、さまざまな職能の実務者を育てるコースを低年齢の段階から分けて教育する、ヨーロッパ型の複線システムをとってきた。前者は国の行政・学術の幹部養成機関である九つの帝国大学(京城・台北を含む)を頂点に、その予科的な位置づけで語学を中心に基礎的教養を積む旧制高校、男子だけの旧制中学という組み立てだ。後者は専門の単科大学を頂点に据え、そこへの進学課程であるとともに自己完結型の教育機関でもある高等専門学校や専門学校、その前段の中等教育機関としての工業学校、商業学校、水産学校、農学校などがある、という構造になっていた。

 敗戦に伴って日本に進駐したアメリカ占領軍総司令部は、旧制高校-帝国大学のコースを大日本帝国の支配層養成機関と位置づけ、これを解体してアメリカ・ソビエト式の大衆社会的単線システムへ切り替えることを、憲法改正、陸海軍解体とともに、占領政策の三本柱の一つに位置づけた。そして表向きは占領軍総司令部の要請に応じてアメリカ政府が派遣した〝教育使節団〟の〝勧告〟に日本政府が従う、という形で帝国大学と旧制高校を廃止、国立レベルは旧帝大と地元の旧制高校を統合した四年制の新制大学に改組して、旧制高校段階の前期2年を教養課程、帝国大学レベルの後期2年を専門課程とした。

 別に国公立レベルでは、既存の単科大学を核として国公立の高等専門学校・専門学校や教員養成の高等師範学校・師範学校などを大合併させて総合大学にしたり、旧制大学が存在しなかった地域では、地元の旧制高校や高専、中等教育教員養成の高等師範学校や小学校教員養成の師範学校など、複数の専門教育機関を寄せ集めて総合大学化したりして、最低でも一つの県に一つの国立大学がある体制にした。私立の旧制高校では、独自の校風を維持するとして、単独で新制大学にするケースも多かった。

 それまでは日本女子大・東京女子大を典型に、〝大学〟と称するが旧大学令に依拠した正式の大学でない、実は専門学校を加えても、〝大学〟数は極めて少なかったが、この〝改革〟で、駅弁が売られるほどの規模の町には必ず大学があるようになった。そこでマスコミの一角に、新制大学を〝駅弁大学〟と嘲笑する声が出た。〝改革〟以前の旧制で修学を終えた世代や、たった1学年しか違わないのに〝改革〟過渡期に旧制の最後に引っ掛かった学生も、なにかと新制大学を軽んずる。新制大学生にしてみれば、勝手に制度を変えたくせになんたる言い草だ、という憤懣が募るのも道理で、東大や京大などの〝旧帝大〟系が主軸になった占領下の第一次全学連は、占領軍・文部当局への怒りが起爆力になったといっても、決して過言ではなかった。

 これも余談だが、食糧難は現に平和ボケ・テレビドラマが誤伝するように、戦時中が最もひどかったわけではない。戦時中は善くも悪くも憲兵も経済警察も機能しているから、そう無茶なヤミ行為はできず、大都市でも少ないながらも米麦の配給が維持されていた。極度に悪化したのは、社会のタガが緩んで底抜け状態になった、敗戦後の話だ。

 1947=昭和22年には、前年秋の収穫を冬のうちに食い潰し、春に蒔いたタネはまだ育つどころではないという、いまも北朝鮮で〝春窮〟と呼ぶ状態に陥り、大学・高専では新学期早々、食糧がないから学生寮などとても維持できない、という理由で夏休みを大幅に繰り上げ、なんとか自分の才覚で食いつないで秋には教室で再会しよう、という〝食糧休暇〟なる珍制度が採用されたほどだ。

90食に対し、〝外食券食堂〟25枚

 筆者が駒場寮に入ったのは1950=昭和25年だから、それまでの3年間で食料事情も多少は改善されていた。それでも居住に必須の主食配給登録をしている駒場寮で、寮委員会食事部委員が運営する食堂も含む〝外食券食堂〟(というものが〝国民酒場〟と並んで準配給機関として町のあちこちに存在していた)で米麦にありつくことができる外食券の配給は、一か月30日90食に対して、25枚しかなかった。65食分はいわゆる欠配で、自分でなんとかせい、というわけだ。

 父親の破産・一家離散で、仕送りなどあるわけがない。日本育英会の奨学金月額1800円を得たが、それだけでは自活するには心細い。中学と本郷野球部の共通の先輩の口利きで週六日の家庭教師のアルバイト先を得られ、午前中は寮で寝ていて昼食に外食券を使い、午後は野球部の練習、そのあと水道で体を洗い、ユニフォームを学生服に着替えて家庭教師先に行き、どうせカネの使い方なんか知らないから月謝は適当でいい、ただし晩めしをよろしく、という条件で切り抜けた。日曜はメシがなくても夕方にドブロクでも呑めば過ごせる、というわけだ。

 その寮の食堂で、ふだんは

 〝カネの茶碗に竹の箸 仏様でもあるまいに 一膳めしとは情けなや いやじゃありませんか兵隊は〟

 の〝兵隊節〟で当時ならだれもが知っていた、軍隊式のアルミ製椀型食器に軽く盛った米と麦が半々の〝米飯〟が7円、他は大根か菜っ葉の切れ端でも浮いていれば上等の薄い味噌汁が1円。計1食8円だった。その味噌汁の実でさえ、同じ寮生である食事部委員がヤミ行為でポリに捕まるのを覚悟で、農家にアタマを下げて手に入れて担いでくるのだ。戦前の〝古きよき時代〟には、寮のめしがまずいといって食堂で暴れて手当たり次第に食器をぶっ壊す、〝賄い征伐〟という蛮行が、旧制高校ではつきものだった。しかし敗戦下のこの時期には、この貧しいメニューに不平不満をいう寮生など一人としていなかった。

 その寮の食堂で週に1回ほどの頻度でカレー汁なるものが出る。親指と人差し指でつくる輪くらいの大きさのクジラ肉が二切れ、常に正確に浮かんでいて8円。〝米飯〟と二椀で15円。それが寮食堂の最高メニューだったが、その日も味噌汁だけの平常食で通す寮生もいた。まさか、70年昔の反捕鯨派だったわけではなく、〝日本古来の食習慣〟にそぐわないカレー仕立てに意義を唱えたわけでもない。単純に7円の負担増を避けたのだ。食うか呑むか、本代を優先するか、カネに拘泥せずアルバイトも最低限に止めて勉強するか。よほどの例外を別としてほぼ全員が貧しかった寮で、〝賄い征伐〟に現れる旧制教育の悪しきエリート意識とは対極的な、それぞれが互いに自分の信ずる生活流儀を貫こうとするエリートのタマゴの矜持が、この苦難の時代にも存在していたのだ。

〝もっそうめし〟完食者の経歴

 またも余談に戻るが、筆者が新聞記者時代の終わりに近づいたころ、というと今年で退社して満50年だから半世紀以上も昔の話になるが、小管の東京拘置所の死刑執行場を視察する法務大臣に同行したことがある。施設を見たあと、いわゆる〝もっそうめし〟、拘置所で収容者に出す昼食が出た。いまは米が7割に麦が3割の比率だというが、当時は6対4だった。同行した記者の大半は一口は飲み込んでも二口目には箸が出ずに大半は食い残す。田中伊三次法相と兵役経験のある毎日の記者と筆者の3人だけがペロリ完食した。

 田中が、おぬし、どのくらい入っていた、軍隊経験がないならムショ入りしたヤツ以外はこのメシは喉を通らないはずだ、という。二軍ともいえぬ番付外の野球部の補欠投手。野手をシートに着かせた試合形式のレギュラー・バッティングを、全部員が四打席か五打席打つために都合九回の表裏分、相手変われど主変わらず、一人で連日300球前後投げて1年で肩を壊し、〝文武両道〟と称して敗戦直後の旧制中学時代から足を踏み入れていた左翼運動に戻り、本郷に進学したあとは東大文学部自治会の幹部だった筆者の経歴は、馴染みの政治家ならたいてい知っている。だから田中はそう筆者をからかうのだが、大臣だって全部食ったじゃないの、といったら、オレは戦時中に京都市議選の選挙違反で禁固3か月の刑を食らった、みっちり務めたぞ、と威張った。そこで、オレは駒場の寮で米麦半々のメシを、それさえ月に25食しかありつけなかった、それにくらべれば米6割は上等もいいところだ、と答えたものだ。

水爆被災の鯨肉の処理

 本題に戻って、新聞記者になって満1年たたぬ1954=昭和29年3月に、南太平洋ビキニ環礁のアメリカの水爆実験に日本の漁船が被災する事件が起きる。当時の所属は大阪本社社会部で、持ち場は西・港・大正・港水上の四つの警察署、大阪海上保安監部・大阪税関をはじめとする国と市の港湾関係の全官公署、そして海運・造船関連の企業、という雲を掴むような広さだ。各社とも同じ持ち場割りで、ともに故人になったが、朝日はのちにモスクワ支局長を務めた木村明生、読売はのちに大阪読売の名物社会部長として鳴らした黒田清が、記者クラブ仲間だった。

 ビキニでは死者を出した第五福竜丸だけが〝死の灰〟を浴びたわけではない。同じ南太平洋のマグロ漁船も、南氷洋の捕鯨を終えて帰国途中に問題海域を通過した捕鯨船団を構成する多くの船も、被曝したのだ。

 母船やキャッチャーボートの多くは基地の下関に帰ったが、捕獲・解体した鯨肉を積んだ輸送船や一部のキャッチャーボートは大阪港にも帰ってくる。船団の中でも大阪帰港組が最も被曝しやすい海路を通ったようで、船足つまり速度が違うから今日1隻、明日2隻と連日バラバラに入港する。そのたびに、大阪市立大のスタッフを中心とする検査班、海上保安監部や警察などの監視隊、そして新聞記者などが、岸壁が極端に少ないこの港の特性で、沖がかりした船に通船を使って乗り込み、残存放射能の検査に当たったり、積み荷の鯨肉を港周辺の空き地に大穴を掘って埋め、廃棄処分する作業を見守ったりした。

 たぶんいまよりずっと精度が低かったと思われるガイガー・カウンターが、カチカチどころかガーガーと大騒音をたてる帰港船の甲板を歩き回ったり、〝死の灰〟が残っているかもしれないゴミをいじったり、していたものだが、あげくの果てに、埋める対象の積み荷の鯨肉を、ブロックのまま段ボールに詰めて船底の冷凍庫個に入れてあったのだから放射能に汚染されているわけがない、とそこは検査に当たる学者・研究者グループも、海上保安官も警官も、記者も、たちまち意見一致して、持ち帰って食うことにした。バレないようにしような、と互いに念を押しあったうえで、なにぶんにも量がハンパでないから、最上等とされる尾の身の肉を冷凍した段ボール箱だけを選んで、荒縄で縛ってぶら下げてこっそり持ち帰ることにした。

 筆者も2箱、社のクルマに積んで持ち帰って、一つはそのまま自動車部の詰所に渡し、一つは社会部のフロアに持ち込んだが、時間が経つにつれて当然のことながら溶け、箱に血が滲み出してくる。ヘタに持ち回ってポリに怪しまれても、まさか、港水上警察に聞いてくれ、ともいえない。困ったな、と思っていたら、自動車部のデスクからお礼の挨拶とともに、ウチの庶務のオンナの子の実家が社の近くで居酒屋をやっていて処理にお困りなら任せてくださいといってる、と電話があった。常連客の同期生が早速居酒屋に担ぎ込んで、飲めや歌への大盛り上がりになったそうだが、酒を呑まない筆者に、きれいに処理したステーキ用の尾の身を10枚ほど、新聞紙に何重にも包んでくれた。それでも勤務明けの帰途の地下鉄の車内で新聞紙から血が滲み出し、冷や汗をかいた覚えがある。

伝統的食文化というほどの比重?

 というように、いくつかの記憶をたぐり寄せても、クジラを食うのは日本の伝統的食文化の一つだ、といってみても、いつも、だれもが、どこでも、食っていたとは、到底いえないように思う。同様に、捕鯨やクジラ関連産業が、日本経済や水産業の中で、一定以上の比重を占めていたとも考えられない。

 近海捕鯨でいえば、北から宮城県や千葉県や和歌山県の、それも限られた漁村だけで捕鯨の方法や処理の手法が受け継がれており、特定の地域だけで食材として日常的に利用していて、他の多くの日本人はごくたまに興味本位で料理屋で食ったり、敗戦直後の窮乏期だけは一応珍重したり、安価だから学校給食や社員食堂で利用したり、していたのが本当のところだろう。〝ヒゲ〟や骨は工芸材料としても活用していたが、それもごく少数の特殊な専門業者が、地場産業にも及ばない小さい規模で加工・出荷していたのが実態だったのではないか。ふつうの漁村では、一頭揚がれば七浦潤う、といったように、滅多にない僥倖、思いがけない獲物、期待していなかった臨時収入、という感じだったはずだ。

 南極捕鯨は、役割を分担した多船種・大規模な船団を組み、年に一度の大航海で採算をとる業態だ。資金力一つ見ても、容易な話ではない。大洋漁業が日魯漁業をマルハニチロに集約して当たっていたのだろうが、〝調査捕鯨〟になってからは、採算度外視の意地の国家的事業のような姿になって、会社の経営は缶詰からレトルト食品まで、多様な水産加工食品で支えていたのではないか。

マニア・クラブと化したIWC

 とことほど左様に、筆者は熱心なビーフ・イーターならぬホエール・イーターでもないし、漁業・水産に関する格別の知見もない。その筆者の狭い常識の範囲で見ても、IWC=国際捕鯨委員会という国際機関は、利用を前提としたクジラの資源管理のための組織として生まれたはずなのに、いつの間にかクジラ偏愛者、それも狂信的なクジラ・イルカのマニア・クラブと化してしまったとしか、いいようがない。ノルウェーやアイスランドのような捕鯨国はもともと加入していないのだし、昔からクジラを食ってきた極地に住み暮らす先住民族には既得権が認められている。

 そうした中で、必ずしも民族的習性とまではいえないとしても、鯨食の慣習があり、数百年にわたって捕鯨をしてきた日本だけが、高い分担金を負担して偏向機関に止まり、職業化したマニアどものエジキにされ、彼らの悪口雑言のいいたい放題を甘受する筋合いはどこにもない。脱退は当然だ。

 たかがクジラの話じゃないか、そんなに目くじら立てることもないだろ、という駄洒落のような議論も、成り立ちうるだろう。常習的左翼偏向の論者には、安倍首相の祖父・岸信介の叔父に当たる、松岡洋右外相による国際連盟脱退と並べて、日本が国際社会から疎んじられ孤立化する懸念がある、とことさら大袈裟な表現をする向きもある。ただ、あまり大声で危機感を煽ると、たかがクジラの話だけに、左巻きの狼少年がまたつまらんことで大騒ぎしているよ、と世間から笑われるような気がするのか、今回はやや控えめにつぶやいている感じも、ないわけではない。

感覚的違いを考える手頃なテーマ

 決定がクリスマスから年末の時期だったから、世界の記者連中の怠慢が反映した面もあるのかも知れないが、日本のIWC脱退の海外の反応も、朝日やNHKなどの拝外・排日の常習偏向マスコミが思ったほどには、激しくなかったようだ。イスラムといっても、大半はアルカイダでもイスラム国でも、その支持者でさえもないように、反捕鯨国もシー・シェパードのような狂人めいた超過激派はごく一部で、そりゃ日本だってこれだけいじめられればいい加減怒るさ、とハラの中で思っている常識派が、多数だったのではないか。

 サイレント・マジョリティが暗黙の了解をしていても、左傾マスコミを頭目とするノイジー・マイノリティに政治家が引きずられがちなのが、民主主義社会の病理だ。アメリカやオーストラリアの政府機関がクジラの生命尊重を振りかざして日本を非難すれば、ウシにも生命があるのだから、この際は牛肉の輸入量の増加は遠慮したい、といってやればいい。ニュージーランドに対しては、貴公たちの宗教では信者を〝神の子羊〟と呼び、聖職者を〝羊飼い〟になぞらえるようだから、羊を、それも乳飲み子の子羊を殺し、切り刻んでマリネした冷凍品を、大量に輸入しろ、と不信心かつ悪趣味な要求を持ち出されても、ご免蒙る、といってやればいい。切り返す口上は、いかようにもありうる。

 クレージーなクジラ・マニアを抱える国には、遺憾ながら日本にとって外交・安保・軍事上極めて重要な、同盟国・友好国が多い。彼らとも常にすべての点について意見が一致するとは限らないが、とはいえ国家国民の安危に関わる問題で無用な摩擦は避けたい。国民感情としてに受け入れるのが困難でも、調整や妥協や不可欠な問題は無数にある。

 だからこそときに、ちょっとした感覚的な違いはあるんだよ、という雰囲気を見せるのも、悪くない。その意味で、たかがクジラ、されどクジラ。日本人と欧米社会の感覚的な違いを考えさせる材料として、ちょうど手頃なテーマといえるのではないか。

(月刊『時評』2019年2月号掲載)