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森田 実の「国の実力、地方に存(あ)り」⑱

最先端医療と地域医療を両立し埼玉県民の命と健康を守るための利他の精神で献身する埼玉医科大学

埼玉医科大学 毛呂山キャンパスの全景
埼玉医科大学 毛呂山キャンパスの全景

「Your Happiness is Our Happiness」(埼玉医科大学の合言葉)

 新型コロナは、高齢者が重症化しやすい。二人合わせれば180歳になる私ども夫婦は当初、強い不安を覚えた。幸いワクチン2回接種を昨年6月に済ませ、第5波が終息するまでの間、連日、コロナ報道を見守った。

 一昨年冬あたりから埼玉医科大学総合医療センター(埼玉県川越市)のコロナ治療現場の映像がNHKを皮切りに繰り返しテレビで流れ、岡秀昭教授が白衣姿のまま少し疲れのにじむ表情でインタビューに答える明快な言葉が印象に残った。スタジオで話す専門家とは一味も二味も違う、治療最前線の息遣いが伝わってきた。現場の声に勝るものはない。合掌する思いで治療スタッフに拍手を送った。

 私は約10年前、埼玉医科大学の故・丸木清浩前理事長(丸木清之理事長の父)が主宰なさる「無門塾」で講演させていただいた。約5年前には、総合医療センターのドクターヘリを取材し、堤晴彦病院長らの「命を救う」情熱のほとばしりに感動し、日刊建設工業新聞で紹介した。

 そんな御縁のある埼玉医科大学(丸木清之理事長。以下、埼玉医大と表記する)をご紹介する。

 埼玉県は、人口が740万に迫るが、国公立大学の医学部がない。人口が埼玉県の10分の1程度の県にも国公立大学医学部はあるが、埼玉県にはない。私立の埼玉医大があるだけだ。

 大学病院も国公立は自治医科大学附属さいたま医療センター(さいたま市)と防衛医科大学校病院(所沢市)だけ。私立は、獨協医科大学埼玉医療センター(越谷市)、北里大学メディカルセンター(北本市)の二つ。

 防衛医大以外の大学の医学部は県外にある。「埼玉県に埼玉医大がなければ、どうなるか」。そう考えると、埼玉医大の重要性を理解しやすいだろう。

「患者さん第一」の埼玉医大

 埼玉医大の本部キャンパスは毛呂山町にある。創立は1972年。今年、創立50周年を迎える。開学の母体は毛呂病院(1892年創立)。地域医療を担う最前線の病院が原点である。だから、埼玉医科大学は建学の理念の第一に「すぐれた実地臨床医家の育成」を掲げる。患者さん第一である。

 埼玉医大は、医学部と2006年に開設された保健医療学部からなり、1985年に看護専門学校、1989年には短期大学も開校・開学した。

 病院は①1972年、大学の開学時に本部キャンパスに丸木清美元理事長=丸木清之理事長の祖父=が開院した埼玉医科大学病院(31診療科、965病床)②1985年に同じく清美元理事長が川越市に開院した埼玉医科大学総合医療センター(27診療科、1063病床)③2007年に丸木清浩前理事長が開院した埼玉医科大学国際医療センター(25診療科、722病床)の3病院がある。

 2001年には日高キャンパスにゲノム医学研究センターを開設し、日本、世界の最先端の研究で活躍を続ける。川越市には特殊外来治療にあたるかわごえクリニックがある。

 埼玉医大3病院の病床の総数は2750。他の四つの大学・大学校の総病床数に匹敵する。しかも、3病院の病床稼働率は揃って90%を超え、診療科目も圧倒的に多い。さらに、3病院ともに「センター」の多いことが特長。専門的に分化する複数の診療科目が協力し合い総合力を発揮して患者治療にあたる体制を作り上げている。

 大学に話を戻す。医学部の定員は着実に増え続け、昨年の入学者は医学部130名、同大学院31名、日高と川角キャンパスにある保健医療学部208名(看護学科82名、臨床検査学科55名、臨床工学科29名、理学療法学科42名)に達している。他に毛呂山キャンパスに短期大学(102名)、川越キャンパスには看護専門学校(80名)のほか、川越駅近くには大学院の一部の機能ももつかわごえクリニックの入る川越ビルがある。

 在籍学生数は、医学部医学科807名のほか、保健医療学部看護学科が349名、臨床検査学科253名、臨床工学科151名、理学療法学科192名。大学院については、医学研究科の博士課程が105名、修士課程が24名、看護学研究科修士課程が14名になる(令和3年5月現在)。

 短期大学は看護学科に306名、専攻科に20名、看護専門学校には245名の学生が在籍する(同)。

 総計で2500名近い学生が毎日、埼玉医大に学ぶ。医学部だけでもこれまでに4300人を超す医師を輩出し、壮大な医療人材山脈を構築している。

 期待する医療人像としては①高い倫理観と人間性の涵養②国際水準の医学・医療の実践③社会的視点に立った調和と協力――の3点を掲げる。3本の柱の後には「医療人は、生命に対して深い愛情と畏敬の念を持ち、病める人々の心を理解し、その立場に立って」「医療人は、常に倫理観を磨き、教養を積むことに努力」「医療人は、生涯にわたり常に最新の知識・技術を学び」「医療人は、自らの能力の限界を自覚し、謙虚に他者と協力し」などと綴っている。すべての医療人が心すべき神髄の指針である。

 病院にも「利他」と「たゆみなき研さん」の精神が脈打つ。どんな患者も断らない。この精神のままに3病院が揃ってコロナの治療にもあたった。

 総合医療センターには四百数十名の医師と約2000名の職員が働く。外来患者は1日約2000名。岡教授は「私にとって4カ所目の勤務先ですが、患者に最善を尽くす使命感が総合医療センターには満ち溢れています。自分でも信じられないのですが、私自身、2年間、完全に休みの日でもいつでも連絡がつくようにしてコロナ治療にあたりました。スタッフの使命感の横溢する姿に接していたから、チームのモチベーションを下げることがないようにと、前向きに働くことができました」「自由な気風にもあふれているのが埼玉医大です」と語ってくれた。

 総合医療センターは2007年にドクターヘリ基地病院に指定され、出動回数は年間400回を超える。2013年に総合周産期母子医療センターを東洋一の規模に増床。2016年には高度救命救急センターの新棟を完成させ、県初の小児救命救急センターを開設した。あらゆる患者を24時間、365日受け入れるスーパー総合病院である。

 高度救命救急センターの手術成績は、米国の最も高度な外傷センターの治療実績を凌駕するまでになり、手術件数は年間1000件を超え、入院患者数は約1400名に達している。他の診療科に依頼せず、救命救急センター独自で行った手術件数は全国一だといわれる。手術室や病室は広いが、医師の先生方の当直室は2段ベッド。センター長は「寝てられない仕事ですから」と語る。

 一方、国際医療センターは、JCI認定の国際水準で最高の医療を提供する医療機関であり、包括的がんセンターを備える。院内がん登録数は約5000名であり、全国のトップ7位、大学病院で1位に入っている。心臓病センター、救命救急センター、臓器移植センターなどもあり心臓移植実施施設である。手術件数は国内トップクラスであり、大学病院では1位との評価もされている。アジアからの患者受け入れ、外国からの医師・ナース・技術員のトレーニングを実施し、アジア4カ国の大学および医療機関との医療者留学プログラムを結んでいる。

最先端の特定機能病院

 大学本部のある毛呂山町にある埼玉医科大学病院は全国で9番目に認可された最先端の特定機能病院。最も高度な医療を提供し、かつ高度な医療技術の開発・評価・教育・研修を実施しうる能力を有している。一般病床881、精神病床78、感染病床6、総計965床、31の診療科目を備える高度医療提供病院であり教育病院でもある。

 そのほか埼玉医大グループとして医大理事長の丸木清之氏が理事長を務める社会福祉法人の2施設を紹介する。

 まず、「くらしワンストップMORO HAPPINESS館」。医療・介護・福祉の支援を一元的に提供する施設として故・丸木清浩名誉理事長が構想し、2017年に開設された。在宅療養支援診療所を中心に、訪問看護ステーション、認知症疾患医療センター、在宅医療相談室、居宅介護支援事業所、地域包括支援センターを集約させている。在宅療養支援診療所においては、県初となる緊急往診対応車であるホスピスカーを導入した。

 二つ目は「カルガモの家」。埼玉医大が土地等を寄付して社会福祉法人を設立し、2013年4月に総合医療センターの隣接地に開設した「医療型重度心身障害児施設」である。医療型障害児入所(定員41人)のほか、医療型短期入所(定員3人+空床利用)、医療型特定短期入所「おひさまルーム」などを運営する。

 創立から50年の間に、大学と病院、グループをここまで発展させた故・清美、故・清浩、現在の清之理事長の情熱とご努力に満腔の敬意を表したい。

 親が思うところを息子に伝え実践させることは容易ではない。だが、埼玉医科大学は元理事長が息子である前理事長に「すぐれた実地臨床医家」の育成という使命を伝え、前理事長から息子である現理事長がバトンを受け継ぎ、グローバルスタンダードの最先端医学と地域医療を両立させながら教育・研究・診療の連携、協力体制を構築し実績を上げている。親子が師弟であることは稀だが、大学の理念の一つである「師弟同行」を3代にわたって具現化したのが埼玉医大のすごさである。

 2014年に故・丸木清浩前理事長は、清之氏に理事長を譲った。その時のスピーチを川越市在住の私の親友の福永信之前埼玉県議会議員がブログに書いていたので転載する。

「僕は昭和14年生まれ。父が軍医だった時に、母に伴われて横須賀市にある海軍病院へ行き、途中で米軍機の機銃掃射に遭いました。ものすごい掃射音。母は近くの側溝へ私を隠し、私の上に覆いかぶさったのです。自分が撃たれても僕を守ろうとした母に、僕は『人を信じていいんだ』と思いました。

 戦争が終わり、父・清美が埼玉医科大学を創立することになりました。僕は事務局長として大学のシステム、カリキュラムなどで忙殺される毎日でした。

 父が受けた戦前の医学教育と僕が学んだ戦後の新しい教育とでは大きな差があり、絶えず意見が衝突し、毎日のように、父と怒鳴り合いました。

 2年くらいたった頃に僕は肺の破れる気胸を発症してしまいました。

 手術は成功。でも、麻酔や抗生物質投与の影響からか、今度は劇症肝炎を発症しました。10人のうち8、9人は死に至る病気です。

 一か八かステロイドホルモンを投与したところ、回復し、九死に一生を得て、退院できました。

 父は『どうする?』と尋ねました。僕は『みなさんに救ってもらった命です。命をかけて医療に尽くす』と答えました。決意は固まっていました。でも、古い文化を壊し、新しい文化を創ろうとして、僕自身はサンドバッグ状態で七転八倒する日々が数年間、続きました。父は手伝ってくれません。

 辛い最中に父から『お前に渡したいものがある』と呼ばれました。

 渡されたのは、墨痕鮮やかに『忍』としたためられた1枚の色紙でした。

 受け取った瞬間、涙があふれました。

『父は見ていてくれた』『僕の苦労を見ていたんだ』。

 以来、意見の衝突ではなく『こう思うんだけど』と立ち話で、意見調整できるようになりました。

 父が他界して20年。僕を信頼してくれている父がそばにいていつも見守ってくれているという思いで、僕は歩んできました。そして『世のため、人のため』尽くし抜いて死ぬんだという決意を振りかざしながら仕事を続け、75歳になりました。

 これからは、医療と福祉の融合する理想郷をつくることが目標です。」

 スピーチから2年後、清浩先生は逝去された。しかし、清之理事長の胸中に清浩先生は生きている。埼玉医科大学の医師、看護師らすべてのスタッフが胸に付けるバッジに刻まれた「Your Happiness Is Our Happiness」の言葉とともに。

 清美・清浩・清之先生3代の理事長の利他の精神はこの言葉に凝縮されている。

(本稿執筆にあたり、福永信之前県議に手伝っていただいた。深く感謝します――森田実)

(月刊『時評』2022年1月号掲載)

森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。
森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。