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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第182夜】

率先垂範はどこへ行った

 私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

正直の美徳はどうなった
 官庁による障害者雇用の水増し報告が明るみになった。国(中央政府)の33行政機関のうち28機関で、虚偽の障害者雇用報告がなされ、実数が3700人というのだ。
 「ウソは泥棒の始まり」。幼少時に親にしつけられた記憶はだれにでもあろう。「人から後ろ指を指されない生き方をせよ。それがご先祖様に対する供養の第一」。母親の口癖だった。
 「巧言令色少なし仁」。小学校で担任だった先生の言葉。口先でその場を取り繕うような人間になってはならない。正直であり続けること。そうすれば認めてくれる人は必ず現れて、最後に報いられる。「でもそれは可能性に過ぎない。バカ正直で損ばかりして寿命を終える人生はつまらない」と小理屈を展開したクラスメイトに対する先生の言葉は今も鮮明だ。
 「君はそれでいいかもしれないが、残された家族はどうだ。“あの嘘つきの親戚”と言われ続けるのだ。君の魂は、空の上からその状況を見ていなければならないのだぞ」。クラス全体がシーンとなったことは言うまでもない。
 子ども時代を思い起こすきっかけが冒頭の事件。エリートの中のエリートとされる霞が関官僚による“嘘っぱち報告”。開いた口がふさがらないとでも表現するしかない。

官庁は嘘つき組織
 障害者雇用促進法により、雇用人数の一定割合以上が障害者であることを要求されている。官公庁の場合は2・5%。常勤公務員千人の組織では、障害者が25人以上勤務していることが求められるわけだ。しかし主たる中央省庁がそれを無視していた。
 「これはもう言語道断。〝遺憾”などのレベルではありません」と久寿乃葉のカウンターを叩いたT先生。数字を挙げて糾弾するのだが、菜々子の鼻先に人差し指を突き付けるのはいささか行き過ぎ。悪いのは国家官僚で、菜々子ではない。彼らがお店に来たときに、こういう調子で抗議しなさいという演出指導として受け取ることにしよう。
 「例えば国税庁の水増し数は1103人とされているが、この官庁の職員数は5万6千人。ということは最低でも1400人の障害者が雇用されていなければならない。ほとんどが偽障害者であったということになる。うつ病などの精神疾患をカウントしてしまったためと言い訳しているようだが、法律文を少しでも読めば――そもそも官僚は法律で仕事をしているのだから法文をチェックしないことはあり得ない――ここでカウントする精神障害者とは精神障害者保健福祉手帳の交付を受けた者に限定されている。単なる精神疾患、つまり精神病を患っている者をいくら大量に雇用しても、法律の義務を果たしたことにはならないのだ」
 「でも履歴書に精神疾患治療中と正直に記載すると、任用担当者は門前払いにするのではないですか」。民間企業では採用というが、官公庁では任用という。聞きかじった知識を混ぜつつ、T先生の次の発言を促すことにした。
 「そのとおりでしょうね。それが実情です。しかるに国税庁は精神病患者を多数雇用していたという。それが事実であれば大いに称賛していいでしょう。ただし」と、T先生はここで言葉を継いだ。「それは法定雇用数の外枠の話です。障害者雇用促進法が定義する障害者を規定数以上雇用した上で、それに準じる者を多数雇用する方針であれば、まさに民間企業の見本になります。極論すれば、国税庁5万6千人の職員の内、法律が規定する障害者が1400人。そのほかに精神疾患者1万人であったとすれば称賛の嵐でしょう」
 「でも精神疾患者ばかりの組織で税金の徴収ができるのでしょうか」と、一般国民の感覚で再質問してみた。

障害者雇用促進法の構造
 「障害者を雇用するのは事業運営上望ましくないと、多くの人は考えているのでしょうね」とT先生。多くの人ではなく、ほぼすべての雇用主がそう考えているのではないか。これが菜々子の直感だ。だれもが望まない政策は実現しない。障害者の雇用強制は実効性がないのではないか。障害者問題が専門というT先生はどう考えているのか。一般国民を代表して疑問をぶつけてみよう。
 「ママの認識はまさに国民多数の感覚でしょう。だから障害者雇用促進法が必要なのです。この法律では事業主に障害者雇用を義務付けます。ただし守らないから逮捕して刑務所送りなどという構造にはなっていません。経済的に誘導するのです。そのための法定雇用率です」とT先生。学者先生の長い講釈を菜々子流でまとめればこうなる。
 「障害者を雇いたくなければそれでもいいよ。そのかわり法定基準に足りない分、一人ひと月5万円を納付金として差し出しなさい。一方、法定基準を超えて障害者を雇用するところには一人ひと月当たり2万7千円の調整金を差し上げよう。事業経営者は収支で発想する。職場環境や職務内容を点検して障害者で回せる業務を作り出せた事業所は、障害者雇用に前向きになる。5万円支払うか、2万7千円もらうかで、差し引きは一人当たり7万7千円。これはけっこうでかいぞ。さらに障害者は基礎年金などの別途収入がある分、賃金面での柔軟性がある。障害者雇用に前向きであることが事業運営で有利になるかもしれない。要は事業経営者および一緒に働くことになる従業員の考え方ひとつということだ」。
 障害者を雇用するか、それともしないか。各事業体の自由に任せるが、よくよく損得を考えた方がいいですよということらしい。障害者を積極雇用して経営改善になったところは、障害者に準じる人たち、国税庁で雇用していたとされる精神疾患患者などへの雇用にも関心を持つだろう。そうして障害者雇用がごく普通になっていけば、晴れて法律の役割を終える時代になるのだろう。

官庁の水増しの問題点
 「ところがですよ」とT先生。「法定雇用達成の如何によって、納付金を取られるか、それとも調整金をもらえるかという経済誘導が、官公庁には適用されていないのです」
 「どういうこと?」と菜々子。だって官公庁はもともと1銭1円単位での利益を追求しなくてもよい組織である。障害者雇用が正しい方向の施策であるとすれば、率先垂範しなければならない立場のはず。納付金、調整金とも民間企業の2倍でもよいはずだ。だって官公庁が法律の基準を守らないこと自体があり得ないのだから。ここでも一般国民の意識を代表して質問した。
 「まさにそこが問題なのです。数値のごまかしにも二種類あります。チョンボやミスがあってつじつまが合わなくなり、苦し紛れに虚偽報告をする。少し前に騒がれた免振、制震ダンパーの点検数値などが該当するでしょうか。もう一つは担当者がそもそも必要性を求めていない場合。障害者雇用水増し報告では、官庁の官僚たちが障害者雇用の社会的意義を認めていない。むしろ雇用すべきではないが、悪法で義務付けられているので、数値をごまかそうということで、まったく罪悪感を抱いていない。国会で定めた法律を行政官僚が公然と無視しているのです。関与したキャリア官僚はすべてギロチンの刑に…」
 「先生、言い過ぎですよ」。T先生が振り回していた手を制した。壁に耳ありという。あまりに過激な発言がその筋に知れると、T先生を委員会に呼ばないことにしようなどの不利益が及ぶ可能性がある。T先生の懐具合は、回り回って久寿乃葉の売り上げに関係する。

どう対処すべき

 マスコミは官庁の水増し暴露に血道を上げている。例えば「国土交通省の水増しは629人であったが、その中には過去の勤務者を退職さらには死亡後においても、名簿に記載したままだった」など。職員名簿、社員名簿に過去の従業者を載せたままであれば、現在の従業者が記載漏れになってしまうはずだ。クラス名簿を思い浮かべれば想像つくだろう。クラス人数50人であれば、名簿登載も50のはず。転出入を削除しないままであれば、名簿登載者が50人を上回り、異常を見つけないことは難しい。
 なぜ障害者雇用を進める必要があるのか。基本はこの点に戻るとT先生。「釈迦に説法だが、日本国憲法27条では“すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う”となっています。障害者だから働く義務はないということではないのです。また生活の資を得る基本は自らの労働。障害者も働く権利を持っています。そうはいっても障害者が働くには環境面でハンディがあります」。その具体化として障害者基本法1条で「障害の有無によって分け隔てられない共生社会実現」を訴え、障害者雇用促進法1条で「障害者の職業生活における自立促進」を要求しているのだ。
 「そうは言っても障害者の職業能力に対する偏見の除去にはまだまだ時間が…」の菜々子の言葉をさえぎったT先生。「障害者雇用促進法では官公庁には納付金制度が適用されていません。官僚性善説にたっての立法ですが、彼らを信用しすぎると裏切られる場合があります。ここは現行法を変えずに、官庁に障害者雇用を促進させる方法を考えましょう」
 果たしてどういう方法で? 思わず身を乗り出した。
 「官庁が義務を守らないのでは民間企業に示しがつきません。障害者雇用で経営が苦しいので法人税を納められないと、国税庁に反抗するかもしれません。そこで雇用率未達官公庁に対して、産業界や障害者団体が騒ぐのです。該当官公庁は納付金相当額を障害者施策実施資金として寄付せよと。その資金は該当官公庁の全職員の給与、ボーナス、退職金から自主徴収させればいいでしょう」。さらに続けて、「不祥事が起きた官公庁でよくある奉加張方式の応用。本件では全職員の共同謀議と見なして全員から徴収させる。それでも障害者雇用に関する官僚の意識が変わらないとすれば、この国は終わっているということですよ」。T先生、最後まで厳しいなあ。


(月刊『時評』2019年1月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。