
2025/05/05
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
密かな楽しみ
菜々子の暇つぶしは読書。といっても書斎に腰を落ち着けてじっくり読み込む本格風ではない。空いた時間の暇つぶしに週刊誌か文庫本を読み飛ばすスタイルだ。この点で高く評価するのがスマホの機能である。ピピッと押せば読みたい文章が出てくる。持ち運ぶ手間がないから最高だ。読み終えた本を紐で括ってゴミに出す手間も要らない。
ということで開店準備を終え、最初のお客さまが来るまでの間、読書の世界に入る。ここに隙があった。寸時でも没頭してしまう癖が出たらしい。
「面白そうな記事を読んでいるではないか」と声をかけられるまで気配に気づかなかった。両頬にそれぞれくっついて菜々子のスマホ画面をのぞき込む二人の顔。まずい。実はこのとき読んでいたのは某精神療法者の人生相談本。
「『こんばんは』と何度も背中に声をかけたのよ」とJさんが言えば、Aさんも同調。
Jさんに促されて読んでいた箇所を説明する。相談主のXさんは家計別の三世代同居をしている義両親のことで悩んでいる。家を建ててもらい、子どもの世話をしてもらい、大学進学費用も援助してもらった。感謝に耐えないのだが、その子どもたちがこの義両親にではなく、遠方に住む自分の両親になついていて、長期休暇には決まって泊まりがけで行ってしまう。同居の義両親に申し訳ない…。
まずAさんの反応。「分かるなあ、その気持ち」。Aさんも奥さんの親の家に同居の〝マスオさん〟なのだ。「義両親が気を遣ってくれ、ボクたち夫婦の生計費も援助してくれた。『キミの給料は全部お小遣いにしていいよ』だったからなあ。どうしても頭が上がらない。Xさんの子どもはそれを見てじいさんを敬遠したのではないか。『ボクたちのパパに頭を下げさせる同居のジイちゃんは嫌い』と」。
先憂後楽の生き方への評価
「その豊富なお小遣いを上手にバラ撒いたおかげで出世できたのよね」と、同期入社なのに今では部下の立場のJさん。Aさんとは別の説を立てることにこだわった。
「子どもたちがなぜ遠方に住む父方の祖父母になつくのか。記事によるとお年玉をたっぷりくれ、流行のゲームを買ってくれ、海外旅行に連れて行ってくれる。泊まりに行っている間、うるさいことを言わず、手伝いをさせない。行きたがるのは当然よ。でもね、ことわざにも『子どもへの鞭を惜しむとろくな大人に育たない』とあるわ。この格言は成人後も有効なようで、Aさんには人格的に問題ありとの陰口が聞こえて来るわ」。なかなかの分析だ。
投書に話を戻そう。Xさんによると同居の義両親は子や孫のためには出費をいとわないが、自分たち自身はとても節約家という。若いときから旅行はおろか外食もしない。洋服も丈夫第一で流行を追うことはなく10年前の服を平気で着ている。家の不都合箇所の修理でも見栄えをいっこうに気にしない。木の剪定も自己流で片づける。そんなにケチケチしないで相応の贅沢をしてもらえないかというのがXさんの不満。
これにもJさんが異説を唱える。義両親は自分たちの生活スタイルを続けているだけで、Xさんたちに押し付けているわけではない。不要なことに無駄金を使わない堅実見本を孫に示しているわけで、双方の祖父母の考え方の違いを孫が学べていいことではないか。それよりもXさんの実両親の老後資金は実のところ大丈夫なのか。長寿少子化で年金は先細り必須だ。先々自分や孫のところに泣きついてくるのは困るから、じっくり話し合っておくべきだ、と締めくくった。
老後はだれもが不安
「オレの子どもたちは田舎のバアちゃんのところにばかり行きたがることはなかったぞ。田舎の母は昔気質で孫を猫かわいがりすることはなかった。むしろ同居の義両親の方が孫に甘かった」とAさん。
「そうでしょうよ。義理の息子のお小遣いにもあれだけ甘ければねえ」。一息ついてJさんが続ける。「子どもはまわりから『しつけが厳しすぎないか』と声をかけられるくらいでちょうどいいのよ。Aクンの場合は、実のお母様にせいぜい感謝することね」
お酒のせいか、上司を〝クン〟付けになっちゃった。外はミゾレ模様。今日は最初から日本酒の燗だった。いつものJさんらしくない酔い方をしたか。でも肩書を外せば同年者なのだし…。明日は明日の風が吹く。
Aさんも今日は飲むピッチが速かった。
「女手一つで育ててくれた田舎の母親がくも膜下出血の後遺症で右半身不随なんだ。弟が一人いるがアメリカ暮らし。俺が面倒みなければならないのだが、行くだけで1日かかる山陰の山の中だからなあ。従姉妹に施設を探してもらうつもりだが…」。Aさんの目の端に涙が見えた気がした。
急にシャキッとなったJさん。毎日、職場で顔を突き合わせているのにAさんの事情をまったく知らなかったようだ。
「そんなのダメよ。お母さんを施設になんかに入れちゃだめよ。義理のご両親はもう他界されているのでしょう。あなたの家に引き取りなさいよ。もし奥さんが嫌がるようなら、私がガツンと言ってやるから」
「でも俺が建てた家ではないからなあ」とAさんが弱弱しく抗弁。こういうときに役立つのがお酒の力。それと女の肝の据わり。自分のスマホを取り出し、Aさんの自宅電話番号を押している。お座敷の隅でしばらく話していたが、明るい顔で戻って来た。
「即座に引き取りますって言ってたわよ。内緒で従姉妹さんと相談していたんですって。2カ月前に泊まりがけで現地に行ってお義母さんにも会ったとのことよ。遠慮されていたけれど『夫も親孝行できると心待ちにしています』と告げたらたいそう喜ばれたとか。暮らしてもらう部屋の改造も業者に依頼済み。不在になる住まいの処理とか、菩提寺のお墓の移転とかの手続きも従姉妹さんに進めてもらっている。後は『主人の了解が残るだけ』ですってよ」
驚いたのはAさん。「俺はなんていい女房をもったことか」
「バカバカしい。礼を言うなら、最後の詰めをしてあげた私に言いなさい」
「キミは電話しただけじゃないか。そんな程度で感謝なんかするものか」
大問題が片付いてAさんは元気になった。
独身者は損ばかり
「次の相談記事を見てみようぜ」。Aさんが菜々子の手からスマホを奪って画面をスクロールしていたが、止めたページを読み上げた。Yさんの相談内容はざっとこんな感じ。中年女性で「自分は損ばかりしているが心が狭量なのだろうか」との悩みだ。
「へえー、面白そうね」と菜々子は頷く。だって菜々子は独身女性。「どんな損をしてきたの?」。Jさんは想像つくわよと言いたげな表情をしている。
学生時代に仲がよかった友人が次々に結婚する。そのたびに予定をやりくりしてお祝いに駆けつけ、通帳をやりくりしてドレスアップする。そのシリーズが終わったら、子ども誕生ラッシュ。重ねて入学ラッシュ。新居購入ラッシュ。主婦になった彼女らの暇つぶし食事会に呼び出され、夫の出世、子どもの稽古事、学校選び…。つまんないとあくびしたら思いきりにらまれただけで、話題は変わらず。私の職場での愚痴など誰も聞いてくれない。
これはよく分かるなあ。さんざん出した分を後でまとめて取り返してやると思ってもたいがいは実現しない。「みんなにはずいぶん貸しがあると思うから今日の私の分はみんなで払ってくれない」と言ったことがある。反応は、「菜々子も冗談がうまくなったわね」とかわされただけだった。
「せめてグチくらい聞いてもらわないと割に合わないよな」とAさんが軽口。そうなのだが結婚組の中から「私、バツイチになっちゃった」と明かすのが出てきて、そちらが話題を奪っていく。「私、有名な○○さんと不倫中なの」とでも告白すれば話題を独占できるだろうが、後のマスコミ騒ぎが怖くてできない。
菜々子ママに不倫経験あるのかとAさんが乗りだした。もちろん冗談ですよ。純粋な大和なでしこの菜々子に限ってそういうことは致しません。
このやり取りの間、Jさんは手酌で日本酒を飲んでいた。Aさんが横目でJさんの表情を盗み見ていた気がした。
「キミに当てつけたのではないから気を悪くしないでくれよ。結婚しない女は欠陥品だなんてオレはまったく思っていない」
上司が口にしてよい言葉かなあ。菜々子の懸念を跳ね返す声が戻ってきた。
「私はこの相談女性に同感しない。損だというなら『都合がつかない』で式に出ず、お祝い電報でも打てばよい。Yさんの問題は子どもを産まないことに罪悪感がないこと。誰かが次世代を産むから社会が保てる。それをしない人は、それなりの負担をするのが公正ではないかしら。早い話、直系の子孫が何人いるかで年金に差をつければいいのよ」
「そういう仕組みだと独身のキミの年金は減っちゃうぞ」と心配顔のAさん。
「ご心配なく。実は隠し子を田舎の両親に三人預けているの」
「ウソッ」。菜々子とAさんが同時に素っ頓狂な声を上げた。
「冗談よ」とJさん。ほんとうは冗談でなかったりして…。
(月刊『時評』2025年4月号掲載)