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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第186夜】

平成を思い出そう

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

時代区分としての元号


 平成の御代が終わり、新元号令和の時代になった。気分一新、明るい世の中になってもらいたいものだ。「元号が変わったと言ってもさあ」と口を挟んだのはTさん。頭の回転が早いことでどの場でも一目置かれるようだが、常人と違う発想を大声で主張するものだから煙たがれる。でもここ久寿乃葉では了見の狭い対応はいたしません。どうぞ、気が済むまで自説を展開してくださいな。場の雰囲気は菜々子がなんとでも取り繕いましょう。
「政治も経済も文化もグローバル化、すなわち世界の標準化が進んでいる。元号はしょせん日本というちっぽけな地理的領域でのみ通じる歴史尺度。元号で時代区分をすること自体、視野の狭さを自白しているようなものだぜ」
 たしかにそうした面はある。だが元号は専横の限りを尽くしていた蘇我氏を倒した慶事にあやかって大化と命名して以来の伝統である。国際性がないからと廃止していいものではないだろうと、これは論敵のNさんの主張である。
 Tさんに向かって「キミは何年生まれだったっけ」。返答は「お互い同級生だぜ。キミは昭和26年だっただろう。オレは早生まれだから暦年では一年遅い、27年生まれだ」
「それみたことか。昭和で答えているではないか。それが日本人の習性だ」とNさん。これは「一本あり」の感じ。


平成元年に何があった


 平成元年は西暦では1989年。この年は世界史上の大転換期だった。永遠に続くかと思われた東西の冷戦が終結したのだもの。しかも日本のいわゆる進歩派が思い描く社会主義の勝利ではなく、共産党による専制体制が各地で自己崩壊した。
「2月にソ連がアフガニスタンから撤兵した。あれには驚いた。一度占領した地域からは1ミリたりとも後退しない。他民族の土地を侵略、虐殺、支配する。ロシアからソ連に代わっても、この手法は受け継がれた。だがゲリラの抵抗であえなく敗退した。歴史の転換を感じたね」とNさん。
「ソ連の強権体制は張子の虎に過ぎない。そう感じられたら共産帝国の終焉はあっけなかったね。6月にポーランドで連帯が政治力を認めさせたかと思うと、8月に東ドイツが国民の西ドイツへの脱出を止められなくなり、11月にベルリンの壁が壊され、12月にはルーマニアの独裁者チャウシェスクが民衆によって処刑された」。
 Tさんはさすがに博学。指を折りつつ史実を挙げる。菜々子は感心するが、出来事はこれにとどまらないとNさん。ただしこちらはスマホで年表を確認している。
「この年には共産中国に抵抗して独立運動を続けるチベット亡命政府のダライラマ14世にノーベル平和賞が送られている。そしてT君が挙げなかった天安門事件があった。中国共産党の軍事組織である人民解放軍が、民主化を主張する自国民に対して無差別発砲して大量殺戮をした事件だ」
 同じ年にソ連は崩壊に向かったが、中国は専制体制を強化した。歴史は一方向には動かないのねと首を振っていると、Tさんが補足する。
「あれは日本の国策として大失敗だった。欧米諸国が共産中国の人権抑圧を批判して経済制裁を課しているなか、わが日本が世界の潮流に逆らって中国の専制政府を経済援助と大型の経済投資で支援し、生き永らえさせた。日中友好が日本の利益になるとの判断だろうが、軍事・経済大国と化した中国からは威嚇と恫喝の返礼だぜ」


ビジョンなき国策のツケを取り返せるか


 そういう因果関係にあったのか。菜々子は初耳学。中国人は礼節の民というのはまったくの嘘っぱち?
「あのときが中国の専制政権を倒し、中国国民を開放する絶好の機会だった。日本国憲法の前文で『日本国民は世界中から専制と隷従を追放すべく闘う』と宣言している。政治指導者が憲法を実行しなくてどうするのかとオレは問いたい」とTさん。
「ソ連が不法占拠している北方領土もあの時点で強く主張すれば取り戻せた。『ソ連はナチス並みの悪徳帝国だが、新生ロシアは生まれ変わった別の国です』ということだったのだから、ソ連時代の不法侵略を精算せよと国際社会に訴えるべきだったのだ。アメリカの大統領だって今ではヤルタ密約は無効と言っている」
 Nさんは続けて、「旧満洲などでソ連兵士による婦女暴行、さらには武装解除後の兵士を戦争犯罪人扱いでシベリアに抑留酷使した。これらの犯罪を暴き立てて責任追及していれば、北朝鮮は震えあがって横田めぐみさんなどの拉致者をこっそり返してきたのではないか」。歴史の流れを掴み、主張すべき時に大音声で訴える。それができなかったのは国家リーダーたちの歴史観の欠如だとTさんとNさんは言う。
 この年、日本国内では何が起きたのか。菜々子の記憶にあるのは連続少女殺人の宮崎勤事件。わが江東区でも被害者が出た。それからカルト狂信団体オウムによる坂本弁護士一家殺害事件。これは初動捜査の失敗で後の松本市や霞が関でのサリン事件無差別殺人を引き起こした。
「日本国民には歴史が転換しつつあるとの意識がなかったな。緊張感がないから治安を揺るがすような事件が起きる。その一方でバブル景気の狂奔状態だった。株価が4万円近くになったのがこの年の大納会。翌年以後は一転して下落の一途。地価も同様。まじめに働いて老後資金を貯めてきた国民が資産を失うことになった。その一方で消費税の導入だ。政府財政が厳しいのであれば行財政改革して歳出を削りこむべきなのに、そちらの努力はしない。消費税という新税で大衆課税しても、既得権益に配慮したバラマキ継続だから、国家財政は赤字国債という不良借金に依存することになる。平成30年間を通じて累積借金は1千兆円になり、もはや政府関係者のだれも『返します』とは言わない」


平成の前半期


 平成はろくな時代ではなかった。これが二人の結論のようだ。
「今回の改元について『高齢なので引退したいというのは陛下のわがまま』という声があったようだが、この国の将来を考えればよかったのではないか。だって改元はもともと慶事や凶事に際して国民の気分一新を図るためのものであった。世界の中で日本だけが取り残されていくのはたまらない。そうした国民の気持ちを陛下が汲み取ったとオレは考えたいね」とTさん。
 平成は30年間。けっこう長い。Tさん、Nさんにとっては人生の半分の期間に当たるだろう。久寿乃葉ではお店の歴史そのものといってよい。30年を前、中、最後と10年ずつに区切った場合、何が印象に残っているのだろう。
「バブル後の不況ですかね」と経済を持ち出したのはNさん。「山一證券や日本長期信用銀行などが経営破たんしたが、あり得ないことが起きたという感じでしたね。海外からハゲタカファンドがやってきて好き勝手に食い物にされて悔しかった」。現役時代のNさんは経済官庁のお役人。職務柄、不愉快な経験をしたのだろう。
「相撲の若貴ブーム、Jリーグ開催、長野五輪などがあったが、今の国民には『そんなこともあったっけ』の程度だろうね。阪神・淡路大震災や在ペルー大使公邸でのゲリラの人質占拠事件などの記憶の方がまだ鮮明。それに平成13年のイスラム過激派による航空機乗っ取りの9・11事件。世界の平和願望が吹き飛びました」とTさん。
 Nさんの付言は「翌年には米軍のイラク侵攻と自衛隊派遣。平和を維持するには日本も傍観を許されない。小泉首相が北朝鮮に乗り込んだが、連れ戻せたのは5人だけ。丸腰の限界で、軍事力がなければ相手にされないことが認識された事件だった」
 菜々子には平成5年8党連立の細川政権かしら。自民党の長期マンネリ政権打破で興奮したけれど、腰だめの国民福祉税構想で一挙に熱が冷めてしまった。


平成後半の15年


 菜々子にとっては、平成7年に発覚した有名料亭や食品企業での古くなった食材の使い回しなどの偽装事件も忘れ得ない。食べ物を扱う同業者として許せない。だが話題としては小さかったようだ。
「先ほどママは平成5年の細川政権をとりあげたけれど、平成21年の民主党政権誕生はもっとインパクトがあったな。自民党と民主党の議席がオセロゲームのようにひっくり返った。国民はこれで日本の政治も近代化すると期待したのだが、大間違いだった。自民党よりもビジョンがなく、財政はより放漫で、対外的にからきし弱い。尖閣沖で中国の改造漁船が意図的に巡視船に体当たりしたのに、その事実を隠し、しかも捕らえた船長をごていねいに航空機で送り返したから、中国では日本が尖閣の領有権を引き渡す意図ありと受け取った。民主党の鳩山元総理などは、中国では南京事件、韓国では慰安婦問題について、『日本が全面的に有責である』と事実に反した国益侵害発言を続けている」。Tさんの発言を遮る形でNさんが続ける。
「民主党政権時代には平成元年の株価のほぼ4分の1にまで下がったのだが、あの党の議員はだれも問題にしない。日本経済がずぶずぶ沈むことに危機感がない。アメリカのサブプライムに端を発する経済危機に対しても無為無策。その一方で消費税率引き上げには熱心だった。彼らには税金を払う者の気持ちが通じないようだ」
 菜々子の番。「平成を通じて国民の自立自存の意識が希薄化したと思う。介護保険が本当に必要だったのか、平成20年末の派遣村騒ぎはなんだったのか。ここの国民の自立心の欠如は、国全体の自尊意識の喪失につながる。新しい時代は質実剛健を目指すべきだと思うわ」。アメリカのトランプ大統領はかの地では不人気のようだが、日本にスカウトすれば間違いなく、国民の快哉を受けるだろう。(月刊『時評」2019年5月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。