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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第190夜】

年金2千万円不足

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

恒例の年金炎上
「老後資金は十分かい?」
「これから何千万円も貯めろと言われてもねえ」
 この春以後、久寿乃葉のお客様はこの話題で持ち切りだった。発端は「老後に向けての貯蓄が2千万円必要」とする金融審議会のワーキンググループ報告書。マスコミで大げさに取り上げられるや、世論は沸騰した。
「政府の年金は当てにならないということか」
「“百年安心年金制度”はウソだったのか」
 果ては、この騒ぎを倒閣に結びつけようとする動きにも利用され、国会では内閣不信任案が提出された。しかし与党女性議員から「恥を知りなさい」と演説でたしなめられ、竜頭蛇尾に終わったのは周知の通り。もっとも安倍総理がひそかに狙っていたとされる衆議院解散総選挙を封じることにはなったから、野党にとっては大成功だったのかも。
「安倍内閣のアキレス腱は別だろう。領土問題での無策を論理的に追求すれば国民感情に火がつく。尖閣、北方領土、竹島いずれを見ても後退に次ぐ後退。オレが野党党首であれば…」。
 だがその種の国家運営基本事項を政治論争のタネにしないのが、敗戦以降の政界のお約束と解説するお客さまもいらっしゃる。「国民から愛国心を抜き取り、国家を敵対視させる。国民の一体感を喪失させ、不平分子で充満させる。そうしておいて一党独裁への体制移行のチャンスをうかがう。〝敗戦革命”という確立した戦略論なのだ。その場合、領土とか主権とか国防といった国家民族意識の覚醒につながる事項で内閣と対立するのはやぶ蛇になる。その点、年金などが手ごろな題材になるのだろう。与党から『恥を知りなさい』となじられても、確信犯なのだから「バレたか」程度だと思うぜ」。
 金融庁所管大臣(財務大臣兼務でもあった)が報告書を受け取らないと言い出したことが、年金を政治問題化したい野党を勢いづけた面があったように思える。報告書をまとめたのは作業を請け負った審議会下部機関であって、政府の公式政策提案でもなんでもない。「報告書内容がとんでもないとおっしゃるのであれば、みなさんの政策提案を承りたい」と投げ返せばよかった。
「隠そうとするから、裏があるのではないかと国民から勘繰られる。野党の思うツボになったわけね」。菜々子の推量だが、的を外していなかったようだ。

それがどうした
 “年金博士”の異名をもつKさんが口火を切る。まず不足2千万円の種明かし。平均高齢夫婦の月生計費が26万円のところ、公的年金の夫婦合算額が21万円。単純計算で毎月5万円不足する。年換算で60万円。95歳まで生きるとすれば65歳からでは30年。よって全期間の不足合計が2千万円弱に達する。
「要するに電卓ベースでの機械的計算。高齢者が2千万円の借金を抱えて死んでいくということではない」。これで少し安心。
 引退生活に入ったばかりのNさんが引き取った。「ボクには会社から退職金が入ることになっている。どこで聞きつけたか、銀行や証券会社が投資の勧誘に来る。応じた方がいいのだろうか」。そのNさんの鼻先で自身の人差し指を左右に振ってKさんが遮る。
「キミ、それこそ金融庁の隠された意図に乗せられることになる。キミのことだから既にそれなりの預金があるはずだ。そこに退職金が加われば2千万円を十分上回るだろう。つまりキミの場合は、“老後生計費は足りている”のだよ。投資してもっと増やす必要があるのかどうか。それはキミが平均高齢者より〝ぜいたくな”老後生活を志向するかどうかにかかっている。人並みの暮らしでいいなら、元本保証の預金でも十分。下手に投資して損をするリスクだってあるのだから」
 報告書は寿命を95歳と設定している。これは平均だから、半数はこれより長生きする。公的年金は生涯支給だが、月々の不足5万円に関しては長生きの場合への対処が必要だ。長寿家系が自慢のSさんは「オレたち夫婦は100歳まで生きる気がする」と述べたのに対するKさんの解説は、「65歳時点での預金額がちょうど2千万円だったとすると不足予想額は30万円の5年分で150万円。2千万円の元手で確実に150万円の利殖を得られる金融商品があると思うかい」

投資のリスク
 投資の原点はリスクとリターンのバランス。元本保証と儲けのどちらを重視するかの方針が基本になる。さらに証券会社、保険会社、銀行などが介在すると、彼らの手数料や利潤をリターンの中から支払うことになる。経済全体が順調に拡大していれば、その種の経費を払っても平均的に投資家に利殖が残るが、ゼロ成長・ゼロサム経済では投資家全体での利殖はわずかなものにならざるを得ない。つまり儲かる者と損する者が相半ばすることになるわけだ。
 菜々子も何度か証券会社の投資話に乗ったことがある。そしてたいがいは失敗している。「特別に新株の割り当てを確保した」との勧誘で買った株は、いずれも上場時から元本割れ。先日の携帯電話会社の新株でも、購入単価を大きく割り込んだままだ。営業員は「世界的企業ですから、いずれ額面を超えるはず。長い目でみましょうよ」と言うが、買い手が引退高齢者で金融資産はこれしかない状況であれば、損を出して売るしかない。
「ママも社会勉強しましたね。今回の報告書騒ぎを機に日本中の高齢者が預金を金融投資に換えるとしましょう。瞬間的に金融商品は高騰するでしょうが、投資資金の新規流入がなくなればそこがピークで後は下落するだけ。しかも高齢者人口もやがて頭打ちになり、投資資金の現金化が加速することになります」
 Nさんが膝を叩いた。「投資推奨の対象は、高齢者ではなくて現役世代にこそ向けられるべきということだな」
「そのとおり」とKさん。若者こそ、大胆にリスクをとって手持ち資金を投資に回すべきなのだ。長期運用が可能だし、分散投資しておけば仮に失敗するものがあっても打撃は少ない。
 「一定年齢、例えば40歳未満の者の場合、給料の一定割合を投資運用させることにする必要があるのかもしれない。そうすれば資金繰りに難渋するベンチャー企業に投資するムードが盛り上がり、日本経済全体が活性化することにもつながる」とNさん。
「企業年金、特に確定拠出型などにはその要素があるだろうな」とKさんが補足する。「従業員にも企業年金への掛金拠出を促し、その投資先を自由に選択させる。投資先事業が大化けでもすれば、その従業員の金融資産は大きくなる。その資金を預金に換え、早期退職と悠々自適の老後生活が可能になる」
「投資がうまくいかなかった場合は?」との菜々子の問いには、「その場合は引退時期をずらし、もっと後の年齢まで働くことになる」。そこで必要になるのは、年齢による雇用阻害の防止。働き続けたい人は何歳までも働ける社会に変えることだ。そして働き続けたい人の中に、若いときの金融投資がうまくいかなかった人が含まれることになる。
「老後計画が綿密でなかったために引退時期が延び延びになっている菜々子ママもその一人だね」とNさん。まったく大きなお世話だわ。

自助の見直し

 ところで老後の生計費はだれでも同じようなものなのだろうか。報告書では政府の「家計調査」数値を使っているのだが、これはあくまでも平均値。
 「老後資金が十分でないと自覚すれば、それなりに引き締めた生活になるはずだわ」と菜々子。だって自営業の菜々子の公的年金は基礎年金のみ。とても月額21万円には届かない。それに週末ごとの写生場所をめぐる小旅行も、足腰が衰える後期高齢者になればめっきり機会が減るだろう。
「反対に要介護になればそのための出費がかさむことになる」とNさん。それはたしかだが、重度になれば施設入所になり、ママのように独り身の者では自宅を売り払うことができる。その代金が預金に加わるから、支出増をカバーできるのではないかとKさん。
 菜々子は基本的に共同生活が嫌い。最後まで自分のマンションにいたい。その場合に介護保険の訪問介護では不十分との批判が聞かれる。でも痒いところに手が届くような濃厚サービスを公的介護保険で実施すれば、その保険料は際限なく高くなるはず。介護保険料は公的年金から天引きされる仕組みになっている。将来の要介護はカバーできるが、今の生計費が不足することになるのでは本末転倒ではないか。居宅介護には住民同士の助け合いを介在させ、介護保険サービス利用者にはその自己負担割合を高くするなどの制度改正と国民意識改革が必要だと思うな。

正しい年金政策とは
「2千万円問題の根本には、老後の生計費の確保はだれの義務なのかが横たわっている」
 Kさんのまとめは、政府には国民生活を守る責務があるが、それが行き過ぎて個々の国民が自分で生計を維持する気力を失わせないようにしなければならない。「政府が国民を食べさせるべきとの主張は、政府を飼い主として国民にその家畜になれということに等しい。まさに専制独裁、国民にとっては隷従への道である」
 国会の先生方の中に、年金などの社会保障制度を国民統制の手段にしようとの怖い考えの人がいないことを菜々子は信じたい。

(月刊『時評』2019年9月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。