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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第213夜】

八○二○への心がけ

写真AC
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 私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

健康の基本は噛んで食べること

 「自分で食事を取れなくなったら生きている価値はないというが、まったくそのとおりだ」

 鯛の刺身を噛み千切り、ビールとともにグイッと飲み込んだAさんがつぶやいた。その一言を聞き逃さないのが接客業の技である。いつもと違って今日はずいぶんと意味深なことをおっしゃるのね、近親の方が人工栄養状態になられたの、と水を向ける。政府は人生百年時代としきりに言うけれど、国民としては、ただ生きていれば満足というわけではない。ベッドで寝た切り、目が空を向いたままで、寝返りするにも他人の手を煩わす。そうまでして生をつなぎたいとは思わない。これが国民意見の公約数だろう。

 胃ろうや点滴での栄養補給は病状に応じての一時的な応急措置であり、主要な福祉先進国では要介護高齢者には適用しない手法であるとテレビで紹介していた記憶がある。食事は口からするもの。自分で食べられなくなったら衰弱して死に至る。要するに餓死なのだが、これが生物界の摂理なのだそうで、特段の辛さや苦しみはないという。

 「寿命が来た者を無理に生かそうとするから、そこに苦痛が生じるのね。高齢者への点滴は虐待のようなものだと聞くわ」と菜々子。

 「価値ある長生きをしたいならば歯を大切にすることだ。“八○二○運動”をママも聞いてことがあるだろう」。Aさんのにわか勉強の成果報告が始まった。曰く、人間の永久歯は親知らずを除いて28本生えてくるが、虫歯や歯周病で抜けていく。全部なくなった人は総入れ歯ということになるが、そうなっては食事も味気ない。20本以上の歯があればおいしく食べられるのだそうだが、これを保持している人の割合は、55歳では9割だけれど、75歳で5割、85歳以上では2割に減ってしまう。そこで「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という国民運動を、政府(厚生労働省)と日本歯科医師会が提唱することになった。

 「いささか遅きに失した点はあるが、歯医者さんが“歯を抜く”ことから、“歯を残す”ことに方針転換したことをボクは評価している。ただし問題はすべての歯医者さんが同じ考えであるとは限らないように見える点だな」

お医者さんから顧客に電話する時代

 やや含みがある発言をしていたAさんの携帯電話が鳴り出した。時刻は8時過ぎだ。

 「もしもしAさんの携帯電話で間違いないでしょうか。夕刻お電話をいただいたXデンタルクリニックでございます。院長が帰ってまいりましたので代わりますが、今お時間はよろしいでしょうか」と、いたって丁重である。なぜ相手の声が聞こえるかと言うと、Aさんがスピーカーホンにしているから。菜々子に目配せしたことから察するに、「いっしょに聞いていてほしい」ということだろう。よって以下は電話会談の実況放送である。

 「ボクの要望は先ほどの事務員さんに、夕刻の電話で伝えたとおりです。ボクはお宅のクリニックで定期的に歯の検診を受けており、つい2週間前に『どの歯も大丈夫』と診断されたばかりです。ところが数日前から急に痛み出し、診察の申し込みをしたところ、担当でなくてもよければ代わりの歯科医が応急措置をしてくれるということで伺ったのが昨日のことです」とのAさんの事情説明に対して、「もちろんそのとおりです」と院長らしき女性の声。

 「Aさんの担当医は院長のワタクシですが、診療所を掛け持ちしていますのでこのクリニックで診察する曜日は限られるのです。急なお痛みのところを大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。代わりに診させていただいた歯科医もこの場に待機させておりますので、なんなりと苦情をお申し付けください」

 なんだかAさんはクレーマーとして身構えられている感じだ。

 「代わりの先生が申されるには、ボクの右下奥歯が虫歯になりかかっているとのことでした。そこで麻酔をかけて歯を削ることになりました。定期健診で先生から『虫歯になりかかっているから、いずれは治療が必要になるかもしれない』との診断でしたから、その点はまあ納得できるのですが、その代理先生はもう一つの指摘をされました。それは歯痛には虫歯のほかに原因があるかもしれないので、今回の虫歯治療にもかかわらず歯痛がぶり返すようであれば、別の治療をしなければならない可能性があるということでした」

〝歯を抜く〟の意味

 Aさんの説明が続く。「そこでとりあえず虫歯治療をしてもらって様子を見ることになりました。ところが麻酔が切れるや猛烈な痛みの復活です。ここで第一の疑問は、別の痛みの要因があるかもしれないとおっしゃっていながら、なぜ痛み止めの処方をしていただけなかったのかということです」

 先方の電話口では「なぜ痛み止めを出さなかったの」、「いやそれは、そのう。市販薬を買ってもらえばいいかと…」、「そのことをAさんに説明した? 例えばロキソニンは通常の薬局で買えますからとか…」などの声が丸聞こえ。しばらくして院長先生の声で「説明不足があったようで本当に申し訳ありませんでした。ほかにも苦情がおありのようですが…」

 「虫歯以外の要因として代わりの先生は、ボクの歯の土台の骨が消失して奥歯二本が浮いた状態になっているから、これを抜くべきだと言われました。その診断が正しいのかどうか、担当の先生の意見をお聞きしたいのです。というのは2週間前の定期健診で虫歯の可能性は触れられましたが、抜歯の可能性については一言もありませんでしたから」

 「そのとおりです。Aさんの歯はワタクシがずっと診させていただいていますから」と言ってから、院長は電話口を手で押さえたようだが、「あなた『歯を抜く必要がありそう』などと言ったの?自分の見立てではそんなに悪くは見えなかったのだけど」と、代理歯科医に質しているのが、かすかに聞こえる。

 これに対し「まずかったですかね。でも早かれ、遅かれ奥歯は抜くことになるでしょう。しょせん今回の虫歯治療は応急対策。長い目で見れば、今抜いてしまう方法もありでしょう」と抗弁している様子。これに対して「ダメよ、歯は極力残すのが今の方針なのだから。歯科医が抜歯と入れ歯で儲ける時代は終わっている。仕方ないわねえ」と院長先生の声。

 ややあって院長先生からAさんに対して、「確認しましたが『歯を抜く』ではなくて、痛みが取れなければ『歯の神経を抜くことになる』と申したとのことです。言葉足らずだったようで、返す返す申し訳ありませんでした」

 神経を抜かなければならないほどの痛みが予想されるのであれば、なぜ痛み止めの処方をしなかったのかという最初の疑問に立ち返る。それをメモにしてAさんに渡した。Aさんは分かっているといったふうに頷いたものの、そのことには触れず、「そうですか。だいたいの事情は分かりました。わざわざ先生の方から電話をいただき恐縮でした」と告げてさっさと電話を切った。

 電話口では「お痛みへの対処をしっかりいたします。明日はワタクシがクリニックに出向きます。朝一番に診察時間を確保しますのでいかがでしょうか」と院長が呼びかけていたが、Aさんは無視した。

かかりつけ医の重要性再認識

 「そういえば耐えられない歯の痛みはどうなったの。さっきからお肴をどんどん食べているし、痛みはなさそうなのだけど」

 「失礼なことを言いなさんなよ。死ぬほどの痛みだったのは事実。今朝は痛みを抱えたまま商談に出かけたがとても我慢できない。見かねた相手が自分のかかりつけ歯科医を紹介してくれた。患者で込み合っているところを無理に割り込ませてもらったのだが、その先生は『この歯を抜くって冗談でしょう。痛みの原因は食べかすが歯肉の隙間に入り込んで炎症を起こしているからで、たまっている膿を出せば大丈夫です。あなたの歯なら八○二○は保証できる』とおっしゃる。その治療で痛みはさっと引いたから、ボクにとってはまさに名医だと思ったね」

 応急処置をしておいたので、後はかかりつけ歯科医でと言われたのだが、遠くても通いますからぜひとも患者名簿に加えてくださいと頼み込んで、次回の予約を入れてもらったのだという。その歯科医は東京でも西の端。東の端に近い門前仲町からは1時間は優にかかる。

 「時間の自由が利く高齢者だから遠距離であっても、自分に合った歯科医への登録ができる」とAさん。「即座に痛みが取れてこうしてご馳走を食べられる。行きつけのクリニックでは危うく奥歯を二本も抜かれるところだった。信頼できる、かかりつけ医を少々の金をかけても探すべきだね。『他市区町村の歯科医をかかりつけ医とする場合の一部負担金割合は5割とする』となってもボクは文句を言わないよ」

 うーん。これは考えなければならない問題だ。信頼できる歯科医をどうすれば確保できるか。歯科クリニックの数はコンビニ店舗よりも多い過当競争状態。しかもAさんがこれまでかかっていたようなチェーン化しているところも多くなっている。そうしたところでは院長先生は名医であっても、多店舗の経営で忙しく、診察は代用者に任せがちになる。そうするとAさんのような目に遭う可能性は高まる。

 ところでAさんに院長先生から電話が来たのは、新しい歯科クリニックに通うことにしたAさんが、律儀にこれまでのクリニックに明日の予約取り消し電話をしたから。その理由を受付事務員に聞かれるままに話したところ、新しいクリニック名を教えろと求められたが、Aさんは拒否した。院長からの電話は、顧客を奪った商売敵を調べる目的もあったのだろう。歯科には歯並び矯正や美白などの自由診療分野も多い。人口減なのだから保険を使える歯科クリニック数の上限設定を実行すべきだろう。

(月刊『時評』2021年8月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。