お問い合わせはこちら

菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第215夜】

ゼロコロナの無理難題

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

家族に陽性者が出た

「本日のコロナ新規陽性者は〇人で、過去何番目に多い数を記録した…」

 来る日も来る日も、トップニュースはコロナの流行を伝えるものだ。

「東京都内で今日は〇千人だって?この勢いなら自分の身の回りにも陽性者がいそうだが、親戚にも、友人にも、ご近所にも聞いたことがないぞ」

 そういう人が多数のはず。菜々子もその一人。久寿乃葉のお客様から「感染しちゃったよ」との報告を、これまで聞いたことがない。

 ただし、〝聞いたことがない〟は、かならずしも〝感染者がいない〟ことではない。

「実は」とNさんが言い始めた。「いまになったから話せるが、孫の一人がPCR検査で陽性判定を受けたのだ」と告白する。そのときNさんは、声量を下げ、まわりが聞き耳を立てていないか、周囲に視線を回した。

 Nさんの息子のSさんは大手国内メーカーのエンジニアで、5年前からアメリカ駐在。会社の福利厚生事業として、年に一度、家族全員での一時帰国が認められている。その間の滞在先はNさん宅になる。老夫婦だけのところに孫4人を含む6人の大家族が2か月間居候する。

 子どものもう朝だよの声で目を覚まし、トランプしようよと読書を妨げられ、デパートに行きたいなで出費がかさむ。滞在期間も後半になると、「もういくつ寝るとお帰りか」と指折り待つ心境になるという。

「孫はかわいいだろう。ボクは先にアメリカに戻り、女房と子どもはもうしばらく置いて行こうか」。親孝行のSさんの申し出だが、「家族は何があってもいっしょにいるのが一番」と諭すふりをしてやんわり拒絶する。

 そうして帰国の日の前日。Sさんの家族はアメリカ便への搭乗に必要な「コロナ陰性証明」のためのPCR検査を受けに行った。そして孫の一人に陽性判定が出た。

陽性者は帰国できない

 コロナの陽性者には入国してほしくない。これは各国とも共通だ。そこで採用されているのが、搭乗時点で感染していないことの確認。その仕組みはこうなっている。入国先政府が承認するクリニックに、乗客予定者が各自フライト前に出向いて唾液による検査を受ける。妙齢の女性も検査担当者の監視下で唾を吐き出すというお行儀のよくないしぐさをするわけだが、これは他人の唾液を提供するなりすましを防ぐためだ。唾液中のウイルスが基準未満であれば「陰性証明書」が発行される。搭乗の際にそれを提示する。

 ところが、Sさんの子どものうち一人だけにウイルスが見つかった。つまり陽性判定。クリニックの医師は重々しく宣告した。

 ①この子がアメリカに帰国できないのは分かるね。

 ②残り5人に「陰性証明」を発行するが、それには意味がなくなった。というのは客観的に見て全員が〝濃厚接触者〟であるから、日本国内にとどまらなければならないからだ。

 ③自宅を提供していたあなたの老親も〝濃厚接触者〟と見るのが相当だから、家庭内自粛の対象になる。

 ④具体的指示をするのは保健所だが、仕事を立て込んでいるようなので連絡には三日ほどかかるだろう。しかしみなさんはそれを待たずに自発的に自宅内で謹慎することになる。

 ⑤明日のフライトは取り消さなければならない。代わってこちらで連絡してもよい。

搭乗できなかったら

 クリニックの医師にまくしたてられてSさんの頭の中は真っ白。家族の検温は日に3度も繰り返しているが、ずっと平熱。味覚が変わるなど、コロナ特有とされる症状を示す者もいない。日本滞在中に親戚、知人、友人多数に会ったが、その人たちの中で感染したとの報告もない。寝食をともにした老親Nさん夫婦も健康そのものなのだ。

 Sさんは新聞で報じられたPCR検査ミスを思い出した。大手検査ラボによる群馬県内の検査で、200人ものコロナ陽性判定が間違いであったことが判明して会社が陳謝した事件だ。Sさんは心を落ち着けつつ、医師に食い下がった。日々、団子のようにくっついて遊んでいる子どものうち一人だけが感染というのが解せない。判定ミスではないか。

 ひょっとして感染ミス、偽陽性ではという疑問だ。ならばもう一度、検体を検査するから待っているように。濃厚接触者扱いのSさんは、急遽準備された〝隔離室〟で待たされることになった。その時間、アメリカへの帰任が10日も遅れたら仕事の段取りはどうなるのか。また9月に新入学を控えている子どもの学校はどうなるのか。アメリカの上司、同僚に相談しようにもあちらは未明の時間帯。気は焦るが、知恵は浮かばない。そして無情にも「再度判定しても陽性」との結果通告。Sさんはどういう経路で家にたどり着いたかも記憶がなかったという。

家族の闘いが始まった

 Nさんは帰宅したSさんから初めて報告を聞いた。早速家族会議だ。クリニックの医師の見解は、陽性の子どもだけでなく濃厚接触者として家族全員が日本に足止めになるという。それに唯々諾々と従うべきなのか。純粋な工学エンジニアで他人と意見を闘わせることをしらないSさんに替わり、Nさんの方が戦闘モードになった。

「あなたは社会の矛盾に盾突くものね。それで会社でも煙たがられ、早期退職に追い込まれたのよね」。菜々子はNさんに闘いぶりの再現を促す。

 Sさん家族が日本国内にとどまる限りは保健所の指示に従うのが国民としての義務。しかしSさん家族の現在住居地はアメリカだ。しかも子どもの中にはアメリカ生まれもいて同国市民権を有している。その子がコロナ陽性のためにアメリカに帰国できないとなったら人権問題ではないのか。Sさんのフライトは明日であり、予定ではそれ以降は日本国内にはいない。つまり日本政府の立場からすれば、アメリカへの出国になんら問題はないはず。予定便への搭乗を認めるか否かは、入国側であるアメリカ政府の問題のはずだ。

 翌朝に行動開始することにして、複数の対策を同時並行することになった。

 まず、Sさんが濃厚接触者であるとしてフライト予約取り消しを迫る検査機関の言い分についてだが、Sさんやその妻はアメリカからの一時帰国前にワクチン2回接種を済ませている。PCR検査陰性証明もあり、まず感染していないはず。そうするとSさんの出国は問題ないはずだ。搭乗者の陰性確認は航空会社に委託されている。このポイントについては「陰性証明さえあれば搭乗拒否は致しません」の電話確認で解決。併せて検査クリニックから先回りのフライト予約取り消し連絡はされてないことが判明した。

 陽性判定の子を除く家族は出国できる。では陽性の子をどうするか。一案はその子と母親だけが残り、残りの子はSさんが連れて帰る。子ども全員を残さないのは、子どもが時期をずらしつつ順に感染して帰国時期がどんどん遅れる可能性があるからだ。

 二案は人道的配慮を主張すること。親は陰性証明があり帰国できる。入国審査などでは子どもは親の帯同物。親だけを入国させて、子どもがダメというのは不当ではないか。これを在東京のアメリカ大使館にぶつけて対応策がないか検討を依頼することだ。大使館では検討するので数日ほしいとの返事だった。詳しい事情をメール送信して後は結果待ち。

ほんとうに陽性だったのか

「だがボクは納得できなかった」とNさん。クリニックは再度検査したというが、同じ検体だろう。その子を連れて行って、もう一度唾液を採取しての再検査をするのが筋だろう。聞くと検査用の容器を床に落として拾い上げたという。他の検査機関にいくことも考えたが、フライトはこの日の午後に迫っている。どの検査機関も予約がいっぱいで、午前中に検査して結果を出すのは無理らしい。

 NさんはSさんと陽性判定の子を連れ、自家用車で昨日の検査クリニックに向かった。用件を聞いた医師は、同一者への二度検査は保健所から禁止されているなどと拒絶したが、その根拠規定を求めると言葉を濁す。陽性者を家から連れ出すのは非常識とまくし立てるが、その陽性判定が正しいかの確認をしたいのであり、検体を採取してくれればただちに退散すると主張。別の医師が現われ、もう一度料金を支払ってもらえるなら再検査しますと言ってくれた。そして料金再徴収の理由を、もし陰性であれば、昨日陽性報告をした保健所に訂正の連絡など余計な事務処理になるのでと説明した。

顛末はどうなった

 このときの医師の表情には、結果は同じといった気持ちが見え見えだったとNさん。しかし一抹の希望は出てきた。Nさんたちはただちに家に取って返し、Sさんと陰性の子らとその荷物をタクシーで空港に向かわせた。これは今日の便で帰国するのが確実な者たち。妻と現段階で陽性の子とその荷物は、Nさんの自家用車で遅れて出発した。再検査でも陽性判定であれば、そのまま引き返すことになる。

 その途上でクリニックから連絡があった。結果は「陰性」。ところが最初の医師が証明書発行を拒否しているという。Nさんたちは空港内にあるそのクリニックに急ぐ。搭乗手続き終了までの時間がないのだ。不交付理由は、航空機内で発症して集団感染事故になった場合の責任を負いたくないというもの。どう考えても理由にならない。今回の陰性結果に疑問があるのかと詰めると答えはあいまいになる。最後は、「自己責任で搭乗するのを止める権限はない」として発行された。一家そろって帰国したが、帰国後も全員元気そのものという。客観的に考えて、最初の陽性判定が間違いだったとみるべきだろう。

「検査料金の二度払いに文句を言わないの?」。菜々子に言わせればNさんの対応もまだ甘い。

(月刊『時評』2021年10月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。