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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第226夜】

pixabayより
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私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

顧客は店主とともに歳を取る

 このお店を開いて何年になるかしら?菜々子のつぶやきを聞き逃さなかったYさんが咄嗟に答える。

 「自分が通い始めたのが○○歳のときで、今は△△歳。引き算すれば今年で□□周年のはずだ。ママも同じように、自身の年齢で引き算すればいいのさ」

 そうだった。Yさんは開店時からの常連客。見渡すと、カウンター、お座敷を含め、ほぼ半分が長期固定のお得意さま。菜々子や久寿乃葉の木造建物と同じく、顧客の年齢も高齢化、老朽化が進んでいる。店内の話題もそれとともに変わっていく。

政府が破産したら…

 昨年秋に現職の財務事務次官が発表した論文、「このままでは国家財政は破綻する」の反響は大きかった。何人ものお客さまが掲載月刊誌を持って来店した。菜々子にも「読んだかい」と聞く。「当然よ」と胸を張り、実はその翌日、買いに走った。

 執筆者の主張はごく常識的。政府の財政は得たおカネをやりくりするもので、選挙目当てのバラマキはもってのほか。公債頼みの赤字財政の危険性は、先の戦争時に思い知ったはず。わが国の財政法は明確に赤字国債を禁じている。しかるに緊急時には例外も仕方ないだろうと、証券不況の昭和40年に臨時特例法を制定し補正予算で発行した。

 そのときは景気好転で税収が増えると償還したから、本来の健全財政に復帰した。しかし道を踏み外すと、例外が例外でなくなる。今では、景気の善し悪しにかかわらず、当初予算においてすら、数十兆円規模の赤字国債発行が常態化している。これに加えて期限が来ても返せない借金のリスケジュールである借換え債の発行が上乗せされる。その積み重ねで、国家の累積借金は1千兆円規模になってしまった。年収50万円(50兆円)の家庭あるいは団体が1000万円(1000兆円)の借用書を抱えた状態。

 借りたものは返すのが筋。反省一転、節約を徹底し、残業や副業アルバイトに精を出して収入を増やす。それでも生きているうちに半分も返せるかどうか。残りは子や孫任せ。しかるに先秋の衆院選でも、先の参院選でも、財政規律を懸念する政党は皆無。バラマキが足りないとして、コロナ給付金額を競っていたから、論文に対しては「コロナで困っている人を見捨てるのか」と集中攻撃ないしは無視だった。

 「先進国では政府財政に借金の限度はない」とする新説(MMT理論と称する)紹介もあったが、常人の頭では理解不能。M(まったく)M(もって)T(トンデモ)説と呼ぶほかないというのが、久寿乃葉での世論。コロナでの大盤振る舞いの是非は選良議員諸氏にお任せするが、緊急時のためにも政府は常日頃、財政規律にこれ努め、財政余剰を積み立てておくべき。余剰備蓄があってこそ、緊急時に糸目をつけずに財政出動できるはず。

年金はどうなる

 二宮尊徳が今の時代に国会議員をしていれば、そう説教するはずだ。財政放漫を防ぎ、増税の目を摘むのが議会の発祥理由だったはず。そして嫌われても命を賭して財政規律を守るのが財務官僚の役割。久寿乃葉での談義ではそうだが、現実は真逆。財務省で財政規律に殉じた例を聞かない。(公文書偽造犯罪に抗議して命を絶った者はいたが)。

 飲み屋の女将風情が、なぜそんなに力むのかと、揶揄の声が聞こえそうだ。お答えしよう。飲食業界を代表してとそっくり返るつもりは毫もない。主流顧客の高齢者が久寿乃葉に通ってくれる基盤となる社会保障制度の行く末を心配しているのだ。

 政府財政がほんとうに破綻してしまったらどうなるか。国民経済は順調、賃金は上がり、コロナは収まり、税収も潤沢になって、単年度プライマリ黒字を達成したという超楽観シナリオで考える。デフレも脱却だ。ターゲットの2%を超過してかつてのノーマル5%になったとしよう。すると政府財政はどうなるか。

 金利ゼロであれば、1千兆円の債務も毎年50兆円ずつ返せば20年で返し終える。しかし金利5%であれば、50兆円の元本返済に加え、さらに50兆円の利息を返さなければならない。併せて100兆円である。

 Yさん、Oさん、Tさん…。常連客が次々に手を挙げる。

 まずYさん。「年金はどうなる? 厚生年金は財源が保険料だから大丈夫。心配は基礎年金。こちらは財源の半分が政府からの繰入金。国債金利が上がれば、政府財政からの基礎年金繰入を維持できないと思うぜ」

 「基礎年金は月額6万円ちょっと。これが半額になると生活を3万円ほど切り詰めなければならなくなる。久寿乃葉に来る回数を減らすしかないか」とOさん。

 「基礎年金を全額公費に切り替えると自民党の総裁選で主張していた議員がいたが、それが実現した後で財政破綻したら、基礎年金はゼロ。女将とは会えなくなるな」とTさん。基礎年金減額のトバッチリは菜々子に及ぶのだ。

老人医療は?

 この3人は健康だからまだいい。高齢期では病院に通うことが多くなるが、後期高齢者医療の財源にも政府資金が投入されている。

 「財源の半分が公費で、それを政府と自治体が2対1の割合で分担する。要するに給付費の3分の1が政府負担。この割合で給付のカットが必要になる」とYさん。

 「老人医療では自己負担はわずか1割。保険給付率が9割と高率だが、3分の1カットでは、給付率が6割に下がるということだね。若い世代の給付率は7割だから、引退者は遠慮して6割が妥当かもしれないが」のO発言に、「給付率が下がれば受診控えが起きそう。病気を我慢して死ぬ人が出るぞとの脅しがありそうよ」と、菜々子は注意喚起した。

 Tさんは「給付率引下げ反対。財源の4割を占めている世代からの支援金の割合を高めることを高齢者は要求する」と拳を握った。しかし若い世代の健康保険料引上げは、増税と変わらない影響を及ぼすと、YさんとOさんは同調を拒否。なお若い世代の医療に関しても、健康保険組合だけは保険料での運営だが、協会けんぽには給付費の16・4%、国民健保では41%の国費投入がある。これがなくなっても制度間の給付率格差が生じないようにしなければならないが、全面財政調整がすんなり受け入れられるか、またその場合に保険給付率が7割からどのくらい下がるのかという問題が生じる。

 「国民皆保険と称しながら、制度の一元統合を放置したツケであり、厚労省の原罪だ。同省の歴代事務次官はどのような国民向け論文を発表しているのか。財務省の財政赤字放置に匹敵する構造的不作為である」とYさん。

介護サービスの受け方

 「介護保険も公費5割だが、そのうち国費は半分だから全体の4分の1。単純計算で給付率9割が6割7分5厘に下がる。財政破綻がなくても、給付率をこの程度に抑えておく方が、加入者の介護予防意識につながると思うぜ」とOさん。給付削減は避けられないとの受け止めのようだ。

 「地方自治体には国から地方交付税が配られている。国が財政破綻したら、これにもメスが入る。そうすると自治体は介護保険への繰入金を出せなくなるのでは」と、Tさんは新たな視点を持ち出した。すると給付率はさらに下がるが、その計算は酔った頭では無理。

自治体の福祉施策

 少子化の進行で総人口が減少することが、将来の経済成長への懸念材料になっている。政府は少子化対策に重点を置きつつあるが、そちらは大丈夫か。保育所は自治体事業だが、これにも多額の政府の補助金が投入されている。それをすべて自治体負担に切り替えることができるか。また児童手当では財源総額の3分の2が政府負担。これまた財源切り替えに自治体が応じられるか。

 「地域振興に熱心な首長たちは、国に縛られない自治体主導の児童福祉に賛成し、手持ち財源を集中するだろう」。孫が多いTさんは期待顔。だが自治体の業務は幅広い。福祉財源ねん出のために削減されることになる事業分野で、既得権益の切込みが進むか。首長各自の政治手腕が問われそうだ。

 地方自治体の福祉事業で政府負担割合が高いのが生活保護。自治体の負担は4分の1で、4分の3が政府負担。政府財政の破綻が迫れば、このカットは必定。すべて自治体負担に切り替えればたちまち4倍になる。実施自治体は、財源を増やすか、給付を絞るか。

 「受給要件を満たす者のうち、『抽選で4世帯のうち1世帯だけに支給する』というわけにはいかないだろう」とのYさんの指摘はそのとおり。それでは最低限の暮らしを国民に保障することにならない。

 「カネの支給ではなく、相談や生活指導の支援を中心に制度を組み替える。物的支援は実物の現品支給に改めて生産余剰品を活用する。合理性、効率性を高めて事業の質を維持することを考えるしかあるまい」とOさん。給付よりも自ら働くことを優先する、ワークフェアの考えを徹底することが必要になるだろうと、菜々子は付け加えた。

国家存続

 国道の橋や洪水を防ぐ河川の堤防など、国民生活の基盤インフラの維持は、緊縮財政においても欠かせない。国防や治安維持というさらなる優先事項もあり、どのような事態においてもなおざりにできない。

 それらに比べれば、政府の財政危機に際して社会保障支出は情け容赦なく切り込まれるのは避けられない。そうならないように制度のスリム化をしておかなければならないはず。厳しい道であればあるほど、包み隠さず国民に実情を告げて、腹を括って取り組むしかないと思われる。

(月刊『時評』2022年9月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。