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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第227夜】

介護保険が〝悔悟制度〟になりませんように

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

お盆の法要

 国内の最重要課題はなにかと問えば高齢者介護は間違いなく上位に位置する。医療技術の向上で寿命は延びる。足腰が立たず、自分がだれか分からない認知症でも、生かされる。ご飯を食べる、トイレに行く、入浴などすら介助が必要になる。そうした要介護者が増え続けているのだから。

 今宵はJさんが持参した柿の葉寿司をいただきながらの介護談義になった。コロナの外出規制が緩和され、Jさんは3年ぶりに郷里の吉野山中での旧盆法要に参加した。一族が本家に集合して会食になったが、用意されたお膳が余っている。本家では人数を確認したはず。いったいどうしたことか。話しているうちに事情が飲み込めてきた。

 特養ホームなどに入っていて、法要に参列ができない高齢者が幾人もいるのだ。近在にはホームがなく、いくつも山道を走り抜ける先がほとんどだから、その家族は短時間の法要のためにわざわざ迎えにいかない。そのことを本家に連絡していなかった。

介護者の適格性と処遇

 田舎は人情が濃厚なはず。どうして家族で自宅介護をしないのか。東京の狭小な住宅事情とは違い、田舎ではどの家も広い。介護用のベッドが入らないなんてことはあり得ないはずだ。Jさんは軽口のつもりだったが、一瞬、場に冷たい風が吹き抜けた。

「都会人の実情不認識が田舎の老人を施設に追いこんでいるのだ」とJさんは従兄弟に諭された。都会の実情不認識が家族介護をしにくくさせているとはどういうことか。

「高齢祖父母と息子夫婦、それに中高生の子どもが二人。三世代同居で仲良く暮らしていれば介護問題などあり得ないと都会人は考えるだろう」と従兄弟。頷くJさんを前に従兄弟が続ける。

「田舎では高給の仕事は少ない。息子の稼ぎは都会標準にははるかに劣る。でもじいさんの畑仕事でコメ、野菜、鶏卵などが自給。ばあさんと嫁が人形作りの内職で賃稼ぎ。それで家計が回っている。そうしたところでじいさんが脳出血の後遺症で右半身麻痺になり、ばあさんに重度の認知症状が発生した。嫁が介護すればいいと都会人は思うだろう」。Jさんは再び頷く。

「その考えが甘いのだ」と従兄弟。「半身まひも認知症も軽快することは望めない。患い期間が短ければなんとかなる。しかし何年も続くとなると話は別だ。息子夫婦は自分たちと子どもの先行きを考える。少しでも収入を得ようと嫁もパート働きに出る。親を施設に入れてはどうかと役場方面から言ってくる。誰それのところもそうしたとなればどうするか」

 Jさんはちょっとだけ反論を試みた。「嫁さんは自分の立場がないと反対しないのか」

「自分が世話しなくてよいのかと嫁は葛藤するさ。だけど考えてみな。自分たち家族が介護したってじいさんが喜ぶわけではない。『迷惑かけて済まない。早く死んでお前たちを楽にさせてやりたい』の繰り返しだ。下の世話をしながら、ほんとうにじいさんのためになっているのだろうか自問することになる。ばあさんに至っては『見ず知らずの自分に親切にしてくれてありがとうね』で家族の顔すらわからない。元気なころの姑との落差に情けなくなる。ちなみにこれはオレの家のことだ」と従兄弟。

「まずじいさんが自分から『ホームに入る』と言い出した。『費用は介護保険から出るから心配するな。三つ先の市のホームに空きがあると聞いている。遠いから面会には来なくていいぞ。代わりに入所前にお別れ宴会をしよう』。じいさんは軍隊に入営する感覚だったかもしれないな」

「ばあさんはじいさんと別れることに抵抗しなかったのか」。Jさんが尋ねる。

「認知症のせいか特段の反応はなかった。自分の入所のときもあっさりしたものだ。『お世話になりましたね。さようなら』で、どこに行くのかもわかっていない。オレや嫁が面会に行くと、『どこかで以前、お会いしましたかね』だから、がっくり来てしまう」

 従兄弟が言うには、じいさん、ばあさんをホームに入れるのに反対したのは中高生の子ども。一緒に住めなくなるのは嫌だというのだが、施設に入れたほうが世帯家計としては絶対に有利。お前たちの学費を貯める上でもこれが一番なのだと説得したという。

介護保険と地域完結性

「ところでJさん、あなたのご両親は健在なの?」

「あいにくわが家は短命の家系らしく、二人とも60歳代で亡くなっている。それにオレは女房とは離婚しているから、あちらの親の介護責任からも解放されている。そんなことで介護保険には関心がない。従兄弟はどうして準備よく介護保険に加入していたのか」

 これには菜々子がおったまげた。

「介護保険は公営で、40歳以上の国民は全員加入しなければならないのよ。まさかJさん知らなかったの?あなたも月々保険料を払っているのよ」

「40歳になったときに健康保険料が一気に上がって、これはなんだと思ったことがあった。それが介護保険料ってわけかい」

 社会保障制度は国民生活を縁の下で支える仕組み。詳細を知る必要はないとしても、基本的なところは理解しておくべきだろう。介護保険は、高齢者が加齢に伴う心身の不都合を克服して日常生活を営める地域社会にする施策財源を共同連帯の保険システムで確保する仕組みというのが菜々子の理解。介護保険の実施主体が基礎自治体である市区町村とされているのはそのためだ。

 最近になって政府は「地域包括ケアの深化・推進」を唱え、重度な要介護状態になっても住み慣れた地域で自分らしい生活を続けられること、そのためには医療・介護・予防・住まい・生活支援が日常生活圏域、具体的には中学校区域で完結する仕組みを唱えているが、介護保険の設立目的からすれば当然至極のこと。何を今さら。これまでなにをしていたのかと思うけれど、反省しているだけでも進化とすべきか。

 地域住民の連帯理念に基礎を置くからには、保険運営も地域で独立採算を貫かなければ無責任になってしまい、制度の本質を誤ってしまう。Jさんの故郷では要介護高齢者が遠方のホームに入所する例が多いようだが、それで住民は心底納得しているのかどうか。全国レベルでは介護保険の給付費は20年間で3・6兆円から11・4兆円への3倍増。Jさんの出身町でも似たようなものだろう。地域住民の収入はほとんど横ばいのはずだから介護保険財政の膨張は、住民の実質所得の低下をもたらし続けていることになる。

地域包括ケアを成り立たせるには

「あなたが介護を必要とするようになったらどうするつもりなの?たしか娘さんがいたわよね。一度連れてきて、オレの若い愛人だと冗談を言っていたのを覚えているわよ」

 老親の介護のことは考えても、自身が要介護になることは考えないのが常人という。

「オレは遺伝的に要介護にならずにぽっくり逝ってしまうはずだが…。娘にその気があるのならオレは彼女に介護してもらいたいな。でも彼女にも仕事があるからなぁ」

 Jさん、しばらく腕組みして考えていた。そして「閃いた」と指を鳴らした。彼の提案を聞こう。介護保険は赤の他人が介護に従事することを基本としているが、それがそもそもの間違いだ。身内が介護するのを基本とし、その介護従事時間に対して介護保険から手当を支給する。現在の介護報酬の半額程度に抑えても、家族にとっては副収入になる。家族が自分の仕事で外出している時間はプロの介護福祉士を雇うことになるが、介護保険の報酬は家族介護を基本とすることで半額に削減されているから、残り半分を要介護者本人か家族が支払う。そこで支払い額をそっくり所得から控除する仕組みを導入する。娘は税控除に釣られて、オレに替わって介護士雇いあげ費用を払ってくれるだろう。

「介護してくれる親族がいない人の場合が問題ね」に対し、Jさんは答えを用意していた。

「近隣の知人・友人が家族に替わって介護する場合にも同じように介護保険から報酬を支払い、さらに介護福祉士を依頼した場合の支払いに税の控除を適用すれば、介護を名乗り出る者がけっこういると思う。頼れる者が皆無の孤独高齢者が要介護になったときが問題で介護福祉士に全面的依存することになる。介護保険からの報酬は半額になっているから、残り半額を高齢者本人が負担することになるが、現行では1割の要介護者自己負担が、5割になるのと同じだ。家族を作らなかった代償とすればよい。オレは納得だ」

 素早く計算した。政府は「人生は100年」の強烈アピールをしている。素直な国民は100歳まで生きても大丈夫なように公的・私的取り交えての年金準備をすることになる。そうした者が要介護になれば、旅行や趣味の会などへの出費はいらなくなる。また早くに要介護になれば、100歳までの天寿まっとうは無理だ。プロの介護福祉士への支払いには余るはずの老後準備資金を回せばよい。親族でも隣人、知人でもかまわないから、介護をしてくれる人をあらかじめ確保して約束をしておけば、家族がいるのと同じで安心できる。

 こうした仕組みこそが住み慣れたわが家での生涯を終えることを可能にする。地域包括ケアの理念を活かす方法である。推進するのは基礎自治体である市区町村。まず介護に関する悲観意識を変える。地域に根差した仕組みを機能させることで介護保険財政規模を縮小でき、住民の実質所得の向上につながるのだ。介護保険のおかげで太った介護事業経営者は渋い顔をするだろうが。

「スモール・イズ・ビューティフルね」

「ママのおかげで介護問題のプロになれたよ」

 箱いっぱいあった柿の葉寿司は残り2つだけ。一つずつ分け合い、コップに残ったビールで飲み下す。今日はこの辺でお開き。

(月刊『時評』2022年10月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。