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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第233夜】

遺族年金を勉強する

pixabayより
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私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

自転車客は初めて

「軒下に自転車を置いたが持っていかれないだろうか」

 階段を上がってきたHさんが不安そうな顔。駅近くに駐輪すると区役所の巡回員に違反札をつけられ、その後回ってくる車で回収される。久寿乃葉は駅近くだが、回収巡回チームがここまで出張って来るだろうか。

「年金を少しずつ倹約して折り畳み自転車を買った」というHさん。その自転車を失えば彼の健康増進意欲も失われる。

「〝当店来客者の自転車なり〟の紙をサドルに貼っておけば大丈夫よ」。自信はないけど、自動車と違って自転車の違法駐輪は道路交通法違反ではないはず。その家に用があって路上駐輪しているのを勝手に持っていく根拠はないはずだ。

 菜々子ママは博学だねと言われたが、違います。こんなものは肌感覚です。

 そんなことよりもHさんがなぜ自転車で来たのか。彼の住まいは徒歩圏内のはず。飲み屋に自転車で来るのはいかがなものか。ほろ酔いでの帰宅途上で転倒して骨折とでもなったら、飲ませた菜々子の責任問題になる。

年金委員としてボランティア

「実は隣の区まで行っての帰りなのだ」とHさん。退職生活に入って以来、地域活動に精を出し、町内会の役職に就いたのだが、その職務の一つとして年金委員を引き受けた。民生委員とか児童委員は聞いたことがあるが、年金委員は初耳。どういう役職なのか。

 日本年金機構の出先である年金事務所に所属して公的年金制度の普及啓発活動に従事する無報酬のボランティアという。その打ち合わせは近在の年金事務所合同で行われる。今回は隣の区にある年金事務所が窓口だった。地下鉄からさらにバスに乗り換えなければならない。面倒だから自転車で行った。

「交通費を請求しないから年金機構にとっても節約になるだろう」とHさん。見上げた心がけ。ただし片道1時間近くかかったという。冬空とはいえ汗をかいている。お疲れさま。ビールをどうぞ。

「今度作った名刺だよ」とHさん。〝年金委員〟と〝町内会役員〟が並んであった。年金委員が上になっているのは厚生労働大臣の委嘱によるからだという。就任順序では逆のはずだが、まあいいか。

老齢年金のほかに遺族年金がある

 わが国は国民皆保険になっている。これが建前で終わらないようにするには、法律で加入すべきとされる者に例外なく手続きをさせ、かつ保険料を毎月納付させなければならない。制度の複雑さにも一因があるのだろうが、未加入・未納の者がけっこう多い。

「年金などの社会保険料が税金と違う点はだね」とビールで喉を潤したHさんが講釈を始めた。「保険料納付には必要時の給付という見返りがあることだ」。今日の研修会で勉強してきたのだろう。菜々子は彼の復習台にされているわけだが、「ほんとう?」「そうなの?」と調子を合わせてあげるのは客商売のイロハ。ここで記憶をたしかにしておけば、町内会での年金制度普及活動がスムーズに進むだろう。

 老齢年金しか頭になくて、何十年も先のことは考えられないと言い訳する若い世代がいるが、とんでもない心得違いだぞとHさん。結婚して、子どもができて、家を買った。幸せいっぱいだが、好事魔多し。夫が車にはねられて即死した。

「菜々子ママがこの若い妻だったら、幼い子を抱えて衣食住をどうする?」

 いきなり演習問題を突き付けられた。うーん。まず住むところだけど、ローンに生命保険がセットになっているだろうからこれはセーフ。当面の生計費だけど、加害者の自賠責保険や交通事故賠償任意保険との交渉になるわね。一人で子を育てていくには自分が稼がなくてはならない。ハローワークで技能を身に付け、適職を紹介してもらうことになる。そうそう、子どもを預ける保育所の手続きも必要だ。

「それだけかい?」Hさんは自分の名刺を指先でトントンとつついた。そうだった。自分としたことがうかつだった。

「もちろん忘れていませんよ。年金事務所に出向いて遺族年金の申請をするのよね」

遺族年金はだれがもらえるか

 Hさんの出題に沿った話題に戻れた。幼い子どもを育てていた親が亡くなった場合、遺族基礎年金と遺族厚生年金が支給される。ここで言う子どもとは18歳まで。正確には誕生日を迎えて最初の3月まで、つまり一般的な高校卒業時期まで支給され、そこで打ち切りになる。

「高校を出れば働けるはずだから年金は必要ないだろうとの考えなのね」と菜々子。「そういう整理ならば、年金加入時期も20歳からではなくて18歳の3月に合わせた方が分かりやすいわよ。『高校出たら国民年金保険料を払うのが国民の義務です』として、高校の卒業式で年金加入手続きをいっせいにすれば加入漏れはなくなるわ」

 菜々子の逆襲にHさんは目を白黒。「今日の研修ではそういう話はなかったな」と受け売り講釈であることを自白した。

 気を取り直してHさんは老齢夫婦に話を転じる。

「遺族厚生年金は子どもがいなくても支給される。老夫婦がいて定年退職の夫が老齢厚生年金を受給している。この夫が死亡した場合、夫の年金の4分の3相当額が妻への遺族厚生年金として支給されることになる。それまで夫の年金で生計を立てていたのだから、夫の死亡で老齢厚生年金が打ち切られたのでは老妻の暮らしが成り立たないだろう」

 研修内容を思い出しながら話すHさんをからかいたくなった。

「皆年金だから妻も自分の老齢年金をもらっているはずよ。自分の年金はこれからももらい続ける。それに加えて遺族厚生年金も受け取るのはおかしくない?長年連れ添った夫婦であればまだしも、後添えに入った直後に夫が死亡すれば〝ぶったくり〟だわ」

 そういう見方もあるかもしれないが、夫がサラリーマンで妻が専業主婦だった世間一般の老夫婦では、妻の老齢年金はわずかなものだ。夫の老齢厚生年金が妻に幾分か転給されるのは加入のメリットしてありではないか。Hさんはブツブツ言い訳してるうちに研修会での議論を思い出したようだ。

収入が減らなくても遺族年金は支給される

 世帯収入の大部分を稼いでいた人が亡くなってそれが失われる。それを補うのが遺族年金の役割。そうであれば収入の減少が世帯の家計にさほど影響を及ぼさない場合はどうなのか。夫がサラリーマン、妻が専業主婦の現役世帯では簡単。夫死亡で妻に遺族年金は必須。逆ケースの妻死亡では世帯収入は妻のパート収入分しか減らない。この場合、夫に遺族厚生年金が支給されることはない。年金支給の必要性がないと判断されるからだ。

 これは老夫婦になってからも同じで夫の年金が世帯のメイン収入である。現役年代と違って妻にも老齢基礎年金収入があるが、生計維持者は夫とみなされる。よって夫死亡で消失する老齢厚生年金の4分の3が妻への遺族厚生年金に切り替わる制度設計だ。

 その前提での議論だったという。賃金、役員報酬、年金などは当人の死亡で失われる。しかし収入の中にはそうではないものもある。質問者が不動産収入を挙げたという。

「老後の収入源としてアパート経営がある。夫婦の片方が死亡すると、その持ち分は残された方に相続される。つまり世帯としての収入額はまったく減らない。それでも遺族年金をもらえるのか」

 年金機構で遺族年金を担当している職員は質問を予想していた風だった。遺族厚生年金の支給要件を説明した。この老夫婦が同居世帯であり、夫の収入が妻より多く、夫死亡直前での妻の安定収入が年間850万円未満であれば、支給要件を満たす。

 850万円の年収上限について声が上がった。

「老後の生計手段としてアパート経営を考える者の多くは相続時の対策を考えて不動産名義を共有にしている。家賃収入の半分は妻の収入であり、自分の年金などを合わせると850万円を超えている者もけっこう多いと思う。そうした者は夫が死亡しても遺族厚生年金はいっさい支給されないのか」

老後の家計を見直す必要

 850万円要件には例外があるのだとHさん。残された者に〝恒常的な収入〟があるのなら年金は必要ない。逆に言えば妻の年収が一時的なもので永続保証がないならば遺族年金を支給すべきである。そこで遺族年金申請者である妻の年収がおおむね5年以内に850万円未満に減ると認められる事由があるかどうか。事例では、妻が相続税の支払いとか子どもとの遺産分けなどに迫られてアパートを売却する可能性が高ければ、妻には永続収入がないものと判断されて遺族年金支給が妥当とされる。質問者が回答を得て大きく頷くさまから、一般論ではなく、自身のことで尋ねているのだなとHさんは感じたという。

 老後に備えて資産活用で稼げと金融機関は煽り立てる。死ぬまで働き続けよと説く識者もいる。老後不安への備えとして年金制度があるはずなのだが。

「それであなたの対策は?」。「自転車で健康維持。交通費を減らし、ストレス溜めず、病気にならないこと」。家計は収入と支出のバランス。歳をとるにしたがって家計支出を減らす算段をする。すなわち家計の縮小均衡だ。Hさん流の考えもあるわね。

(月刊『時評』2023年4月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。