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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第237夜】

地勢に合わせた自治体行政 東京江東区について考える

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

領域拡大

「江東区の地図を見たことがあるかい」と問いかけたのは区議会議員のKさん。まだ若いが初当選が早かったから、議会では古参重鎮の扱いらしい。

「どれどれ」と地図を覗いて驚いた。菜々子の頭の中では門前仲町や区役所がある東陽町は区の南端に位置すると思い込んでいたが、今では区の中心よりもむしろ北側に位置する。

「わが江東区の領域はどんどん南進しているのさ」と胸を張る議員。旧市街は東京湾沿いに築かれていたが、その地先の海岸が埋め立てられて陸地になっている。テニスの有明コロシアム、オリンピックの水泳競技が行われた辰巳のプール、国際見本市などが行われる東京ビッグサイト、ゴルフの若洲リンクス、豊洲の新市場などはその埋立地にある。

 ざっと見て区の領域は区政発足時より倍増する勢いに見える。

「領域が拡大すれば人が集まり、やがて百万都市も夢ではない」とKさん。「ほんまかいな」と眉唾に感じるが、政治家の大風呂敷は職業病のようなものだと受け入れておこう。

 ところで埋立地がなぜ江東区に属することになるのか。

東京ゴミ戦争

 改めて東京の地図を見ると、埋め立てられているのは多摩川と荒川に挟まれた海岸の区域。大田区、品川区、港区、中央区、江東区の地先になる。だが埋立地の所属は江東区約8割、大田区約2割で決着している。品川区、港区、中央区は新領土を取り損ねた。

「東京ゴミ戦争が関わっている」とKさん。話は昭和40年代に遡る。高度経済成長で都内でのごみ発生量が急増した。しかし23区内にはごみ捨て適地がない。そこで東京都は2段階の処理を考えた。まずごみ発生の区域ごとに中間処理施設を作り、焼却減量する。次に海の中に堤防を築き、焼却処理後のごみを堤防内の埋立材料に使うことになった。

「フンフン、それで」と先を促す。

「ところがこの計画を守らない区があった」。Kさんは高級住宅地として知られる杉並区の高井戸地域を挙げた。東京都が示した焼却施設建設を一部住民が実力で阻止する。ならば土地収用法の適用となったのだが、当時の都知事が荒事は避けようと計画を撤回した。そうなると収まらないのが江東区。

「お高くとまっている山の手住民になめられてたまるか」とかねてからの下町の憤懣が爆発した。下町コンプレックスなるものを始めて知ったが、Kさんによれば明治維新以来のものだそうだ。「山の手は薩長の進駐軍地域」だって。

 そうした感情的なことを除外しても、埋め立て地に向かうごみ運搬車は基本的に江東区内を走り抜ける。1日に5千台以上。杉並区の生ごみは悪臭を放ちながら、汚汁を滴らせながら走り抜ける。渋滞道路を回避して裏道を通るから、子どもがはねられたとか、商店街の客足が遠のいたなどの苦情が江東区役所に殺到する。

 Kさんはお箸でバンバンとカウンターのヘリを叩き、講談師気取りの名調子になってきた。「時は昭和47年師走の22日。堪忍袋の緒が切れた区長の小松崎軍次を先頭に区内主要道路にバリケード。ごみ運搬車を片端から停めては『どこのごみを運んできたか』と厳しく誰何(すいか)。杉並のごみはこれより先には行かせぬと追い返す…」。

 実況では枚数が尽きるから要約すると、このときは都が善処を約束して半日で収拾したが、カラ約束と分かって翌年5月に二度目の通行拒絶。これで杉並でのごみ焼却工場建設が進むことになったのだが、このときの約束の中に埋立地の帰属が記されていた。

埋立地に羽田分空港を作る

 江東区が埋立地の領有権を得る理由は分かったけれど、新たな土地を区民の福祉にどう生かすのだろう。

「そうなんだよ。通りいっぺんの開発計画では能がない。江東区ならではのプランを編み出せないかと考えてはいるのだが」とKさん。

 これには菜々子が驚く番だ。ごみで埋立をしようと思いついたときから新区域の都市計画は決まっているものではないのか。だれも地権を持っていない処女地が海から湧いてくるのである。こんな僥倖は滅多にないよ。

 再度地図を見る。埋立地の先っぽの方はまだ埋立中。そしてその先は海を挟んで羽田空港だ。用地の制約で滑走路を増やせず、発着回数を制限されている。江東区側の埋立をもっと進めて4千メートル滑走路を何本も並べての羽田の分空港にできないのかしら。こちら側にもターミナルを作り、航空会社で使用を分ける。例えば日本の航空会社では、JALは今の羽田空港。ANAは新分港とか。二つを合わせれば発着枠を現在から倍増でき、太平洋からアジアに向かう航空機のハブ機能も果たせるはずだ。そうなれば空港会社はガッポガッポ請け合いだ

 都心へのアクセスも羽田空港に入っているモノレールや京成などの路線を海底トンネルで分空港のターミナルにつなぎ、さらに江東区の埋立地を経由して、豊洲を経て東京駅に入るループ状にする。それだとJALとANA間での不均衡はなく、集客競争をすることで双方とも活力が生まれるのではないか。

Kさんは目を白黒させている。

「ママの気宇壮大は買うけれど、ボクたちはしがない区議会議員だ。航空行政のような大きなマターに口出しできるかなあ」

 大言壮語は政治家のお株でしょうよ。東京の土地は地権が絡んで大きな都市計画が描けない。せっかく白紙の土地ができるのだから、江東区民はこう考えるとビジョンを国にぶつけなさいよ。そして菜々子の羽田分空港案は、江東区発展のためでもあるのだ。分空港から豊洲を経て東京駅に入る鉄道路線で区内領域埋立地を縦に結ぶ鉄道路線ができる。豊洲から東陽町を経て住吉、錦糸町につながる地下鉄路線が建設中だから、区役所と埋立地との交通路がつながる。さらに分空港から若洲地区(新都心なのにゴルフ場がある)を経て江東区の新たな鉄道拠点である新木塲駅に向かう新路線を作り、明治通りに沿って北上させ、運休の貨物路線を使って亀戸につなげば、区内の南北路線網がもう一本できる。

「東京の表玄関である羽田空港拡充の声を利用して江東区内の鉄道網を整備しようということかい」。Kさん、腕を組んで考え始めた。

「そうね。先ほど触れた豊洲から区役所がある東陽町を経て住吉、錦糸町をつなぐ地下鉄8号線だけど、計画から50年もたってようやく工事着工。そのうえ完成にはさらに10年以上見込まれている。新駅はたったの二つなのに。昔の日本はこんなスローペースではなかった。作るとなったら5年で完成させる。なぜできないのよ」

 Kさんに合わせて日本酒を飲んだせいか、セーブが利かなくなってきた。

「政治家は風呂敷こそ大きいが、実現させる胆力がない。区内の鉄道路線延長でも国や鉄道会社に作れ、作れと頼むだけ。路線ができて潤うのは江東区民と所在企業。区内でファンドを募るなど主体的に動けないものかしら。元本保証なら菜々子も○○万円出す!」

区民の一体性を醸成する事業

「もうちょっとスケールが小さいアイデアはないかい」とKさん。もちろんありますとも。お酒の勢いで言っちゃえ。

 今の江東区に他地域にはない魅力があるのだろうか。言い換えれば江東区民のお国自慢はあるか。「都内に住むなら江東区」という誘引を用意するのが区政の要諦だろう。

 ディズニーランドが所在する千葉県浦安市は広大な埋め立て地の領域を抱える点で江東区が参考にできる。浦安市民の客に聞いたのだが、市民の全員分の墓地を確保しているとのことだ。終活を考え始める年代になってみて「この町に居を構えていてよかった」となる。それがふるさと意識の向上につながっている。

「墓地は区内にない方がいいのでは。迷惑施設だし…」とKさん。何たる認識不足。お参りする遺族にすれば近いに越したことはない。都内の青山墓地などは昔の公団住宅並みの抽選倍率。都民のお墓不足に応えて都が用意している八柱墓地など千葉県ですよ。

 Kさんに促されて菜々子の構想を開陳した。埋立地に区民追慕の公園を作る。木場公園とか猿江公園を越える規模が目標だ。公園内の一角を区民墓地とする。区民として亡くなった人のほか、一定年数以上区民であった後に転出した人も墓地利用の権利を有する。樹木葬にも対応し、さらに地先の一定海面を墓地に付属させ、散骨の用に供する。

「いろいろな形態に応じる新型タイプの墓地ということだね」Kさん。

 菜々子の発想はさらに進む。日本では火葬が前提だから、この墓地の中心に火葬場を置く。直葬などでは、遺体の直接搬送先になり、葬儀から埋蔵まですべてを敷地内で完結させることも可能になる。

 火葬場建物は区民の記録庫機能を併せ持つ。要望に応じて、区民だった人の生きた証となる足跡を編集し、電子記録として保管する。何代経ても故人との血縁を証明すれば、その記録を閲覧でき、故人を偲ぶことができる区民アーカイブになるわけだ。

「わかったぞ。親戚が集まって故人を偲ぶ場合、まずこの記録庫に集まって故人の記録フィルムなどを見る。そのうえで会食すれば場が盛り上がるということだね」

 かくして区民追慕公園の回りはパーティーができる施設が並ぶ。飲食飲酒の後の帰りの足を確保するためにも先に挙げた新鉄道路線が必要になる。Kさん、頭に産業振興の図面を描いているようだ。区長も代わったことだし区政に新風が吹くかどうか。

(月刊『時評』2023年8月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。