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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第242夜】

基礎年金国庫負担がなくなる?

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

世の中騒然!

 出がけに郵便受けを覗いたら真っ赤な封書があった。なによ、この仰々しい手紙は?急いで封を切る。中には一枚の書面があり、大きな文字で一行印刷されている。

「基礎年金国庫負担を全面廃止する」。差出人は〝日本国総理大臣〟。

 ウヘー!!その下に普通の大きさの文字で理由やら、経過措置やらが書いてあったが、腰を抜かし、憤怒の血流が脳内に充満するには冒頭の一行で十分。

 久寿乃葉に着いたら店内は既に常連のお客さまで満杯。昨夜、お店の施錠を忘れて帰宅したのだろうか。でも、そんなことを気にしている場合ではない。

基礎年金が半分に減らされる?

「菜々子ママ。総理からの手紙を見たかい。基礎年金の2分の1は国庫負担。それを廃止することは年金額が半分になるということだ。『国民年金はお得です』の根拠が国庫負担の存在だった。それをいきなり廃止して年金額を半分にするなんて国家による〝詐欺〟だ。こんなこと許せるものか」

 そうだ、そうだの声が響く。その数は5人や10人ではない。100人?200人?それ以上?久寿乃葉にそんな大人数を収容できたかしら? 

「菜々子ママ、ちゃんと説明してくれよ!オレたち納得するまで飲み代を払わないからな!」。見渡すとお店の大型冷蔵庫は開け放たれ、カラになったビール瓶が散在している。高級日本酒を戸棚から勝手に引っ張り出して飲んでいる者もいる。なんで私が政府に代わって説明しなくちゃならないのよ。

「私だって総理の一方的な宣告手紙に怒っているのよ。官邸や国会にみんなといっしょにデモをかけたいわ。だってね…」

 その先は怒号でかき消されてしまった。

「だっても、クソもあるか。『公的年金は国民の信頼がある限りつぶれません。日本は民主主義の国ですから』なんて、政府の手先のようなことを吹聴していたではないか」

 そうだっけ?菜々子は一介の庶民。政府広報員の辞令をもらってもいなければ、報酬もビタ一文受け取っていない。でも何か言わなければリンチされかねない群衆の勢いだ。急いで総理宣言文の続きを読む。

「みなさん、落ち着いてくださーい」と声を枯らす。「『国庫負担廃止は段階的に進める』とあるわよ。経過措置があって最初の実施は10年後で4割に減額。以後10年ごとに1割ずつ下げる。ということは今から10年以内に死んでしまう人は影響なし。国庫負担がまったくなくなって年金額が半分になるのは50年後だから、久寿乃葉のお客さまでその時点まで生きている人はいないはずよ」

「なんだ、そうだったのか。オレは短命の家系だからそれなら納得だ。菜々子ママに聞いてよかったよ」の声が上がった。ちょっと待ってよ、みなさん同じ文面の手紙を受け取ったのでしょう。だったら経過措置も書いてあったはず。菜々子を吊るし上げる前に自分で読めば理解できたはずでしょう。それともあなたたち文字が読めなくなったわけ?

満額年金をもらい続ける条件は

「ダメだ、その説明では」と別の声が飛んできた。

「国庫負担2分の1とは、加入者の保険料にそれと同額を政府が負担することだ。これまでに保険料を納付した期間分に関して国庫負担2分の1を保証しなければ、約束違反であり〝詐欺〟的要素を排除できない」。「そのとおりだ」と同調したのは比較的年齢が低い層。

 文面に何か説明がないかと目を走らせる。国庫負担減額実施後にも年金額を維持する方法が書いてある。まず年金の支給開始年齢。

「『人口構成の変化に応じて支給年齢を変えなければならないのに歴代政権はこれを怠ったのであり、支給年齢を変えないのであれば保険料をもっと高くしなければならなかった。しかるに選挙を怖れて財政悪化を放置した』とあるわ。なんだかこれまでのダメな政府を選挙で選んだ有権者に責任があるみたいな書き方ね」。菜々子の読上げ部分をみんなも目で追っている様子だ。

 国民皆年金のわが国では、国政選挙の有権者はすなわち国民年金の加入者と受給者である。総理の文面は続く。

「専門家が計算する年齢ごとの財源不足額を『追納保険料として納付することで現在の支給額を維持できる』ともあるわ。みなさんどうする?」

 反応が割れた。ごまかされないぞと憤る者が半分。支給年齢繰り下げは徐々だし、追納の代替措置があるならいいのではないかと、頭を冷やして考えようが半分。

「別の選択肢も挙げられているわ。年金受給者の労力提供で政府の人件費を節減し、浮いた分を基礎年金特別国庫負担にするみたい。例えば公務員の新規採用を抑えて高齢者の無償奉仕員に切り替える、尖閣など国防上ゆるがせにできない無人島に高齢ボランティアを常駐させる…」

「総理大臣は考えるじゃないか。国家あっての年金制度だからオレたちも幅広い視点を持たなければならなかった」。支持する声もちらほら聞こえる。

失策の責任追及

「さすが菜々子ママだ。国家・国民の先々のことまで考えている」の声。褒められれば有頂天になる菜々子なのだが、この展開はさすがにおかしい。新方針を考え、国民に手紙で訴えたのは新総理であり、菜々子はなんにも関与していない。総理からの書面を少しだけわかりやすい言い方で繰り返しただけだ。だのに調子に乗ってしまった。

 今から約60年の昔、新たに発足させる国民年金は、先行の厚生年金と違って、職業の種類さらにはその有無にかかわらず、すべての成人を一律強制加入させ、均一額の保険料を納付させる仕組みだった。国民生活は敗戦の痛手でまだまだ貧しかったから、新たな負担を求めるには説得術が必要だった。それが国庫負担。今の金額に直せば「あなたが1万7千円の保険料を払い込むと政府も同額を継ぎ足す。あなたは倍の3万4千円を払い込んだこととされる。手品みたいにお得です!」という次第だ。

 納得顔がかなり増えた。

 国庫負担導入の経緯がそうしたことなのだから、制度が定着した時点で国庫負担は縮小ないし廃止に向かわなければならなかった。しかるに国庫負担割合をポピュリズム的に逆に、3分の1だったのを2分の1に引き上げてしまった。

「引き換えに支給開始年齢を65歳から75歳に引き下げるなどの提案はなかったのかい?」

 首を横に振るしかない。

「でも少子高齢化はとっくに政府のお偉方には分かっていたはずだろう。政治家に忠告する官僚はいなかったのかい?」

 この質問には菜々子は答えようがない。新聞報道等で知る限りでは、諫死した高級官僚の名前が報じられた記録はないと記憶する。

他の高齢者保険では?

 わが国の公的年金は〝社会保険方式〟いう点で先進国標準だが、高率の国庫負担があるのが特異点。これは高齢者への医療や介護の社会保険でも同じで、保険料に見合わない(簡単に言えば2倍に相当する)手厚い給付を可能にしている。その分、政府や自治体の本来任務に回すべき財源が抜き取られているともいえる。

「子どもの学資を貯めずに親の晩酌代に充てているということじゃないか」

 最前列の女子高生が吐き捨てるようにつぶやく。なぜこの場に未成年がいるのだ? 

 群衆の後ろの方、豆粒のように見える人が手を挙げた。久寿乃葉の奥行がそんなにあったかなあ。まあいいか。

「現下の課題は国家の独立と領土領海、そして国民の生命、財産をいかにして守るのか。習近平の覇権膨張主義に対する備えとして40兆円の防衛増強が叫ばれるが、財源のめどが立たないとも聞く。口先での決意表明ではミサイル一つ撃墜できないぞ。社会保険への国庫負担を、基礎年金に限らず全面的に見直すべきではないか」

 総理書面を読み返す。最後のほうに書いてある。

「読み上げるわよ。『高齢者の医療や介護サービスを受ける際の一部負担を現在の原則1割から、段階的に5割に引き上げる。また高齢者への給付内容も大胆に見直す』」

 無理やりの心肺装置装着や人工栄養補給を保険給付としてはやめようということだろう。こりゃ大変。非難囂々になるぞと身構えたのだが拍子抜けした。

「人はだれでも死ぬ。その最後に点滴チューブにつながれてスパゲッティみたいになるのはイヤだしな。親孝行のつもりで終末医療を施したが、自分の老後では絶対お断り!」

「自己負担5割と言ってもほんとうの大病は高額療養費の対象になる。風邪ひきくらいは寝て直せばいい。オレたち毎日が日曜日なのだから」

目が覚めた

「総理ありがとう」「あんたを選挙で勝たせてよかったよ」

 なんだか雲行きが変だ。書面を見直した。総理大臣〝松下菜々子〟と印字してある。

 エッ!なに?どういうこと?なんで私が総理大臣?ウソでしょう。手の甲を思いっきりつねる。痛い!そして目が覚めた。なんと全部が夢だった。

(月刊『時評』2024年1月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。