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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第261夜】

詐欺メールで老後資産が消える?

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

電話料金が10倍増に

「今日は二皿ほど料理を減らしてくれよ」とNさんが情けない声を出す。

 いったいどうした。相席のAさん、Mさんが心配げに顔を見る。三人は大学で同じクラブに所属していたのだが、当時からNさんの食い意地はたいへんなもので、合宿ですき焼きをすると半煮えのお肉を片端から頬張っていく。そのため他のメンバーは夜中に空腹で眠れず、翌日の朝練で目を回して倒れてしまう。何度も聞かされたエピソードだ。

 そのNさんからの料理辞退だから、「救急車を呼ぼうか」とAさんはスマホを取り出した。「ちょっと待て、顔色は普段と変わらない。精神的な悩みだろう」とMさんが制する。そしてNさんが「女房がサア」と事情を開陳する次第になった。顛末を要約しよう。

 ある日、奥さんから「残高がこれっぽっちなのはどういうこと?」と、生活費の預金通帳を突き付けられた。引き出し項目を追っていくと、ある月からクレジットカード料金が跳ね上がっている。現金主義のNさんはカードをあまり使わない。パソコンでクレジット会社にアクセスして使用記録を遡ると、ある月からスマホ料金が上がり始め、ここ数カ月では5万円台が続いている。外国と通話などしないのに変だな。電話会社に連絡を取ると、Nさんは一人でスマホを10回線使用していると告げられた。

 この会社は約款で家族間でも別々契約を要求しているから、Nさんは単独契約。しかるに会社の説明ではNさんがスマホを10台同時に使用しているという。追加回線の申し込みをした覚えはない。会社の記録では、手続きはNさんの登録ではない不明の携帯番号からなされているとのことだ。どこかのだれかがNさんに成り済まし、不当手段で9台もの追加回線を入手して、振り込め詐欺にでも使っているのだろうと推測できる。

「その犯人たちが検挙されれば、詐欺手段の携帯電話を用意した罪でキミも共犯にされてしまうぞ」。Mさんはおもしろがっている。少し親身なAさんは、電話会社の対応はどうだったかと尋ねている。

顧客センターでは

「それが…」とNさん。契約者がこまめに料金状況をチェックしていればこんなことになっていなかったのであり、会社には落ち度もなく、また料金的にも損はしていないから1件落着と切り上げようとした。

「そんな無責任なことは許されない」と菜々子含め、みんなが同時に声を上げた。N家では奥さんが電話を取り上げ、「私が代理人として交渉する!」

 彼女の剣幕に押されたか、会社はしぶしぶ料金返還を検討することになった。そこで奥さんはさらに一押し。「おカネを返せば会社は同額を損したことになるはず。であれば会社として警察に被害届を出しなさい。振り込め詐欺などの悪党を検挙する端緒になり、社会的公器としての企業の勤めです。違うというのであれば御社の法務部と話し合いたい…」

 奥さんは法学部出身で法務に関わる事件もの小説のファンなのだそうだ。「相手の反応は?」と菜々子。「上司と相談したところいずれも対応しかねます」だったとNさん。「こんないい加減な会社は解約しちゃいなさい。ついでにあなたのお小遣いは向こう半年間半額です」と一方的に宣言された。

 事情は分かったが、久寿乃葉の料理は菜々子のあてがい。一方的にサービスし、食べなくても値引きはありません。Nさん、「やけ食いだ」とAさん、Mさんのお皿も引き寄せて猛然と食べ始めた。

証券口座乗っ取り

 Nさんは災難だったが、彼のお小遣半減を続けることで家計破綻には至らない。比較にならない被害をもたらしているのが〝証券口座乗っ取り〟。

 4月中旬に大手新聞が報じたことで明るみになった大問題だ。その後の報道などを総合すると、一般個人の証券口座を当人がまったくあずかり知らないところで乗っ取られ、勝手に株式売買をされる手口である。

「以前から株式投資をしており他人ごとではない」と身を乗り出したのがMさん。従来の売買は証券会社の担当者に電話で指示する方式。これだと身に覚えがない売買が判明した場合、担当者を呼び出して対決すればよい。証券会社は電話のやり取りをすべて録音しており、担当者は言い抜けることはできない。これで口座悪用を防げたことがあるという。

「当人が気付いていないだけで、自分でパソコン画面を操作して、マルウェアにアクセスしたとか、IDなどをフィッシングされたとかでしょう。金融取引をするならばそれなりの注意義務があるのでは」。その方面には縁がない菜々子は気楽なコメント。

 ただちにMさんから反論された。

「株式取引が一部の資産家の遊びだった時代ではない。政府自らが、老後の備えに金融資産で運用益を得なさいと、非課税措置などで新型NISAなどに誘引している」

「ところが日本の証券手数料は高い。そこで自身でインターネット取引をする者が増えている。自分も考えていたのだが、今回の事件で方針変更。当面は昔ながらの担当者を介しての売買で行くつもりだ」と、これはAさん。

被害状況は?

 最初の報道で紹介された事件はこうだったとNさん。3人分の料理をお腹に入れ、気分が回復してきたようだ。

「犯人は取引が少なく業績も不振の小型株に目をつけた。それを自分の口座にタダ同然の底値で買っておく。そして他人(被害)の証券口座を乗っ取り、その人の保有株を勝手に売り、その資金でさっきのクズ株を買う。すると市場でこのクズ株が何百倍にも大化けする。そこで自分の分を売って大金を得る。元手要らずの荒稼ぎだ。一方の被害者は、ある日自身の口座を確認し、自分の有望株の代わりに再び底値に戻っているクズ株を見つけて慌てることになる」

「証券会社では売買が被害者自身によるものでないことは記録で確認できるが、証券会社に大きな落ち度はないと弁償を拒否したんだよな」と、Aさんが補足。被害額は半端ではなく、システムがおかしいなどと個人投資家たちの怒りが報道されていたという。

 みなさん関心が高いのね。菜々子もスマホで検索したところ、不正アクセスによる株式売買が3000億円を超えると金融庁が発表したとか、警視庁が捜査に乗り出したなどとある。被害についても多くの証券会社が弁償を考え始めたようだ。

本質的対応は

 いずれも必要なことだろう。だが、なにか変だ。被害が今後も生じ、証券会社が弁償するとしよう。証券会社にその資金はあるのか。取引手数料が安いのがインターネット取引のポイント。そこに巨額の弁償金となれば、証券業界自体が壊滅するのではないか。菜々子でなくても思うだろうが、なぜこの種の犯罪が安易に成り立つのか。

「取引に際しての当人確認を二重化するなどの対策を検討しているそうだ」とMさん。だけど取引時点でなくても情報は盗まれているのではないか。

「日々、証券会社を名乗ったメールが何十通も送られてくる」とAさん。一見すると実在の証券会社と誤認させるに十分な精巧さだという。もっともらしい注意報を装って、画面にタッチさせようとしている。政府からの指示云々を明記して信ぴょう性を加えるものも散見されるが、それらの画面は本物をコピーしているから、まず見分けがつかない。Aさんが騙されないのは、口座を持たない証券会社からのメールであるからという。

 それを迷惑メールとして処理するのに毎朝10分は優に要する。この機会損失額を日本中で積上げれば何兆円にもなるかもしれない。

「日本のGDP停滞の一因はこうした迷惑メール削除で貴重な時間が失われていることにもありそうだ」。Aさんのこの発言は冗談としても笑えない。

犯罪者に償わせる

「犯罪者をつかまえてその親の顔を見てみたいわね」と菜々子。だがMさんが言うには、クズ株の所在は中国証券市場だし、犯人もおおかたは中国人ではないかという。「だって、並みの日本人にはこの悪質さは思いつかないぜ」

 決めつけはどうなのなあ。口にはしてみたが、菜々子にもきっとそうだろうと思える。早く根絶しないと、「おそろしいから株式取引をしない」という高齢者が増えて政府の「貯蓄から投資へ」の掛け声はむなしくなる可能性もある。

 菜々子は考える。画面をまねられて証券会社も困惑しているはずだ。実在会社を名乗るのは詐欺の意図があるからにほかならない。Aさんのように迷惑メールとして受信拒否処理をした場合、そのメール及びそれ以後に同一アドレスから送信されてくるメールに、ブロバイダーが一方的に課金できることにすればいいのではないか。ダイレクトメール郵便と同等1メール84円(ⅰ)を課金し、その臨時収益の半分を政府に納付して「サイバー対策強化経費」に充当するのだ。財源不足の政府にも朗報だろう。

「悪をもって悪を征するアイデアだね」。Nさんの軽口が復活したようだ。

ⅰ 通常の郵便料金は定型140円(50グラム以下)、はがき85円だが、ダイレクトメールは所定の手続きを経ることで、定形郵便84円、はがき型63円に割引される。

(月刊『時評』2025年8月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。