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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第273夜】

海外生活事情

写真ACより
写真ACより

 私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
 世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

聞き取り調査

 玄関ドアの開く音がした。まだ陽は高く、当然営業時間外。出入りの酒屋さんだろうか。ならばケース箱が加わった重みで、階段がミシッ、ミシッと悲鳴を上げるはず。

「おーい」と呼ぶ声。階下の三和土に近所の個人商店主のAさん。大きなスーツケースを運び込んでいる。重くて階段を上ってこられず、ここに置かせてくれないかと言う。仕方ないなあ。カウンターに座らせ事情を聴く。

 お店を改装することになり工事期間中は休業。Aさんは商社勤務の息子さんの派遣先である韓国のソウルに行っていたという。菜々子はお酒のつまみ作りで忙しい。突然現れたAさん向けの話題予習なんかしていない。適当に相槌を打ち、しゃべらせる作戦で行こう。

「初めての外国旅行。乗る飛行機を間違えてアフリカにでも連れて行かれたらどうしようと不安だったが、『オレは日本語しかしゃべらん』と腹を括れば何とかなるものだな」

 変な自信を持ったようだけど、息子さんがアテンドしてくれたから大丈夫だっただけでしょう。

「飛行機には一人で乗ったし、向こうで土産物も買ったぞ」。それはあなたがお客さまだから。菜々子だって、久寿乃葉では外国からのお客さまには片言の英語でお愛想をいう。けれど街角で、中国語で道を尋ねられたときは「I’m sorry. I don’t speak Chinese. Please tell me just in English or Japanese.」とか言うもんね。

鍵を忘れた

 ところで家は近いのに、なぜスーツケースを引っ張って久寿乃葉に来たのか。Aさん、一度は空港から自宅に直行したという。そうしたら玄関に鍵がかかっている。奥さんの携帯にメールしたら、歌舞伎見物中だからあと3時間は帰れない。なんで鍵を持って旅行に行かなかったのかと難詰されたという。そりゃ、奥さんが正しいわ。

「そうとも言えないぜ」とAさん。息子さんは会社の手配で、漢江沿いの高層アパートメント住まいだが、鍵を持たないで暮らしている。建物の表玄関が暗証番号になっているマンションは日本にもあるが、各居住戸の玄関も暗証番号なのだという。鍵だと外で落とす心配がある。東京の父さんの家もこの方式に変えなよと息子に勧められたと、自身の鍵を持ち歩かない性癖を正当化した。菜々子だから「そうね」と合わせてあげるが、家に帰ったら「自分が悪かった」と奥さんに素直に謝ることね。

自転車走行規制

 せっかくの機会だ。Aさんが見聞してきたことを聞きだしてみよう。名所や旧跡は事前知識なしで聞いてもつまらないから、次回回し。身近な生活環境の最新事情はどうなのか。

 まずは4月から導入され不評散々の自転車への交通反則通告制度(青切符)について。以前より自転車も車両の端くれだから、「車道を走れ」と道路交通法で規定されている。Aさん、商品の仕入れなどで自動車を運転するが、「あれは危ない。家の前の二車線道路は走行量が多い。自転車を追い抜くには60センチ空けろと言うが、それじゃ対向車線にはみ出し、すれ違いができない。大通りに出るまで自転車の後をノロノロついて行くしかない」

 四つ目通りに出るまでの辛抱ねと水を向けたらAさん、顔を紅潮させ、「大通りにも自転車マークがついている。接触が怖くて端っこの車線なんか走れない。特に怖いのが左折するときだ。ウインカーを出していても、自転車はすり抜けるように青信号の交差点に直進してくる。後方からの自転車が見えたら、通り過ぎるまで止まって待つしかないね」

 ソウルの状況を問う。Aさん、しばらく考え込み、おもむろに述べた。

「歩道が広いところでは自転車は歩道を走っていたと思う。それに幹線道路では自転車のマークを見た記憶がない。あちらの運転は乱暴だから、自転車走行者を守るために専用走路の整備が進んでいると息子が言っていた」。エッ、そうなの? 

公共交通

 ソウルの交通は日本と違って右側走行。なんでだと思うとAさんが謎かけ。日本の敗戦で日韓の合邦は解消になった。進駐してきたアメリカ軍の方針で左側通行から右側通行に変更されたのがいきさつ。日本本体は左側通行のままだった。それで走行が逆になっている。米軍施政権が原因だったのは、かつての沖縄と同じだ。

 その混乱が鉄道に残っているとAさん。日本のスイカに相当するワオパスを購入したからいちいち切符を買う手間が省けて便利で乗りまくったが、危うく迷子になりかけた。東京では鉄道も車と同じく左側走行になっている。それでソウルでは電車も右側走行になっているはずと見当をつけて乗り込んだ地下鉄が、気づけば反対方向に進んでいる様子。後で分かったのだが、鉄道では左側走行と右側走行が混じっている。Aさんはそれを知らなかったわけだ。

「駅や車内案内に日本語表記があれば間違わない。東京の地下鉄にはハングル表記や放送があるのに」と毒づいた。

ごみ処理

 東京ではごみ処理費用の有料化が議論されている。東京の区部ではごみの最終処分地は東京湾の埋め立て地。これが近い将来満杯になる。その時期を遅らせるには家庭からの排出ごみを減らすことが必要。そこで専用のごみ袋しか使えないことにする。そしてその料金を高めに設定する。たしかそんな議論のはずだ。

 この問題、Aさんは息子さんと議論したという。というのはアパートメントのごみ出し規則が細かくて、手伝わされたAさんが管理人に仕分け方法で注意を受けたからだ。もっとも言葉が通じないので、結局は管理人がAさんの代わりにやってくれたのだそうだ。強心臓のAさんの勝利(拍手)。

 生ごみ、プラごみ、瓶ごみ、缶ごみ、書籍ペーパー類、段ボール‥‥。そして最後の雑多ごみは専用の袋に入れて出す。それが20リットル袋50円ほどで売られている。同地でも高い!との批判はあるが、無料であるべきとの声は聞かないらしい。生ごみの分別をやめてくれるなら倍額でもいいと息子さんは言ったとか。残飯類の収集日にはエレベーターに強烈な臭いが残るそうで、Aさんは鼻をつまむ仕草をした。

電気代・ガス代

 話を進めよう。昨今の国内の話題が電気代の高騰。わが国では石油は全量輸入。それを減らそうと太陽光発電が推奨されている。それはいいのだが、問題はその太陽光発電ほか再エネの電気を電力会社が定められた価格で買い取る仕組み。そしてそのコストを各家庭の電気代に上乗せし、再エネ発電を支援する構造。そんなこんなで1キロワット時で30円近い。息子さんの説明ではソウルでは電気代は半値以下。詳しい仕掛けは分からないが、電気代の価格差は産業の競争力にも影響しているらしい。

 石油が取れない点では韓国も同じはずだが、発電コストが低い原子力発電や石炭発電を重視していると息子さんが言っていたとか。かつては原子力発電技術でわが国は世界を引っ張っていたが、今では見る影もない。東日本大震災後の政府対応が「羹に懲りて膾を吹く」の好例だとAさんが古いことわざを持ち出した。

 電気と並ぶ光熱費のガス代はどうか。ソウルの現代マンションではオンドルの代わりにガスによる全館暖房が行われる。冬場のガス代は相当なものだろう。東京では各室ごとのエアコン設置が標準であり、夏も冬もそれを使う。その点、夏はエアコン、冬は全館床暖房のソウルの方が、設備投資が過大で非効率な感じ。厳密に光熱費の比較をすると日韓どちらに旗が上がるのだろうか。

水道

 家庭生活の比較で確実に東京が優れている点があったとAさん。指摘したのが水道水の質。息子さんの部屋にはウォーターサーバーがあった。好きな時に冷水、熱湯を使用できるし、ミネラルウォーターだからおいしいよと息子さんは自慢したそうだが、Aさんに言わせれば東京の水道水は冷蔵庫で冷やして飲めばけっこうおいしい。お湯が必要な時はポットで数分内に沸かすことができる。

 20キログラム以上ありそうな大きな容器をサーバーまで持ち上げる労力と腰を痛めるリスクを考えてみなよと言いつつ、Aさんは菜々子を見た。はい、きゃしゃな菜々子には当然無理な作業でございます。ではなぜウォーターサーバーが必須なのか。Aさんが水道水をコップに注いでいたら息子さんが目を剝き、慌てて止めた。「オヤジ、その水を飲んじゃダメだ。お腹を壊して日本の検疫を通れなくなる!」

 知らない人が多いが、水道水をそのまま飲めるのは国際標準ではない。日本のほかには10カ国程度だけと言われる。ヨーロッパでも一部を除いて水道水の直接飲用は危険。ミネラル水のペットボトルを持ち歩くのはファッションではなく、病気予防の自衛策なのだ。空気(安全)と水はタダ。これがわが日本の長所です。いつまでもそうであってほしい。

(月刊『時評』2026年8月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。