
2025/08/07
2025年2月18日に、今後5年間の「第3期健康・医療戦略」を閣議決定しました。第3期戦略は内容、対象を大幅に拡充しました。背景として、日本が超高齢社会に突入したのと時を同じくして、国の競争力低下懸念が鮮明になったのが一つ。また、コロナパンデミックを受けた感染症有事体制が進められたこと、認知症対策、難病・希少疾患対策、育児・成育からフレイルまでのライフコースを踏まえた対策といった、社会的課題の解決も強く求められていることもあります。
これらを受け、基本理念として、研究開発イノベーションにより世界最高水準の医療を提供するとともに、健康長寿社会の実現と新産業の創出により、社会課題を解決し、経済成長に結び付けることを定めました。国民ニーズに応えるとともに、グローバル競争、グローバルヘルスにも対応することを掲げています。
健康医療分野は極めて多岐に及ぶため、有識者であっても個別の領域や事象の一面しか見えていないことが起こり得ます。今回の戦略では政策の俯瞰図を示すことで、各項目の全体での位置付けを知覚し、物事の軽重とバランス感覚、ポートフォリオ比較、政策間のシナジー効果も狙っています。
医療分野の研究開発予算は、15年に発足した国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)において、それまで関係省庁に分かれていた予算を一元管理する体制ができています。令和7年度のAMED予算は1232億円、これにAMEDが管理する複数年度の基金が年間約1000億円あり、この他に各国立研究機関での関連インハウス研究が813億円あって、これらを足し上げると、ざっと年間3000億円くらいの資金を健康医療分野の研究開発に投入していることになります。
なお、昨年度ベースでAMED事業予算の約7割は大学等のアカデミア、2割は政府系の研究機関、残り1割がベンチャー、民間企業の支出となっています。
強みを発揮しているiPS細胞
2012年に山中伸弥先生がノーベル賞を受賞されたこともあって、再生医療・iPS細胞に高い期待がかけられ、多額の資金投入を行ってきました。現在、再生医療・細胞医療・遺伝子治療はテイクオフの状態で、売り上げが急成長しつつあり、次世代技術の開発も成果が出始めたところです。
わが国で承認された製品の代表例として、CAR-T細胞があります。これは人間の免疫細胞を改変して体内に導入する治療法で、これによって従来難しかった白血病などの血液がんもかなり治るようになりました。ただ、ここは外資系が独断場に近い状態です。
そこで、世界の再生・細胞医薬品の開発品数をチェックすると、米国、欧州、中国、日本の順となっており、日本もまずまず健闘しています。さらにiPS細胞を原料細胞種とする開発品数は、日本は米国とほぼ並んでおり、米国の数には日系企業も入っていますので日本のお家芸になりつつあるとも言えます。
iPS細胞との競合技術として、受精卵から採取するES細胞があり、米国はこちらを主として開発を進めています。日本のiPS細胞は一般の細胞を活用するので倫理的な問題を回避でき、自分の身体から採取できる強みがあります。AMED再生・細胞医療事業では臨床研究、治験が進行し、最近になって、脊髄損傷やパーキンソン病の細胞治療等で重要なPOC(有効性・安全性検証)、治験データが相次いで発表され、実用化への確かな手応えを感じています。
現状iPS細胞は、他人の細胞を使った他家移植がほとんどですが、さらに今後は患者自身の細胞からiPS細胞をつくり出す自家移植に移っていきます。自分の細胞由来ですので、副反応や拒絶反応が抑制されることが期待されています。
またiPS細胞を使って臓器を再現するオルガノイド(organoid)という技術が注目を集めています。例えば、肝臓や腎臓等の臓器の再現が実現すれば、これを使って毒性評価や重症化リスクの検証がかなり精緻かつ効率化するものと思われます。
急ピッチで進む感染症有事対応
コロナ禍を経て感染症危機管理システムの整備が進み、相次いで関係機関が設置・設立されています。2022年3月にはAMEDの下で独立的にワクチン開発を行う先進的研究開発戦略センター(SCARDA)、23年9月には内閣感染症危機管理統括庁、25年4月には国立健康危機管理研究機構(JIHS)が発足しました。弱いとされた感染症インテリジェンスはJIHSが担当して国内外の情報を収集分析し、有事対策は内閣感染症危機管理統括庁をヘッドに関係省庁で審議・決定する体制を構築しています。
重点感染症について、社会的インパクト、未知か既知か、薬剤耐性、国内発生頻度等の観点からグループ分けを行っており、感染症毎にワクチン、診断薬、治療薬の比重、国内開発か海外調達かを常時検討しています。国内開発となる場合には、SCARDAが日本中の研究シーズをかき集め、病原体現物と遺伝子情報の入手および共有、モダリティの決定、開発体制の構築を行い、厚労省等では大規模臨床試験および国際共同治験の差配を行うことになっており、既に鳥インフル、デング熱対策では一部先行させています。COVID-19のように、変異株が頻繁に現れるウイルスに対して、変異があっても種をまとめた亜属レベルで、一定の効果を発揮するワクチン、いわゆるユニバーサルワクチンにも取り組んでいます。
注射による投与は医療従事者しかできないため、これがボトルネックとなることがありました。代替技術として、鼻腔内への噴霧、食べるワクチンによる経口接種、湿布のように皮膚へ貼り付けて、微細な針を刺したり、角質層から浸透させたり等、さまざまに日本のモノづくりの強みを生かした研究も進められています。
ワクチン生産拠点については、先ほどのデュアルユース補助金によって全国で施設整備が進んでいます。ワクチン生産能力の整備に端を発して、バイオ医薬品、医薬部素材、試験薬・治験薬の供給能力を高め、国内のみならず、世界の供給基地へと発展していくことを期待しております。
昨秋より、有事対応のシミュレーション・実地訓練を開始しました。現場レベルでは「三種病原体輸送」を行いました。警察当局、輸送業者と提携して、病原体を新宿区の国立感染症研究所から国内2カ所(小田原、熊本)の開発拠点へ陸送と空輸の両面で運ぶというものです。本件は各種調整や手続きが最大のネックでして、これまで申請書類の準備から、病原体の輸送までに2カ月弱も要していました。ところが、最適な手順書を事前に作成し行った訓練では、準備2日、手続き2日の合計4日間で済ませることができました。今年はアカデミアも参加し、二種相当病原体にも拡大して訓練を行う予定です。
過重負担の医学系研究の現場
医学部の過重負担が問題視されています。医学部の研究者は研究活動とともに臨床・診療も行っており、大学教員として教育も担わなければなりません。さらに、働き方改革も進めないといけません。
現場の改善策として、まず研究中心の先生、臨床中心の先生といったエフォート配分をより明確化し、研究に専念できる日や時間帯を個々に設定することがあります。研究支援人材の確保や研究DXによる効率化も重要です。また、やや排他的、徒弟的な関係が残っているように感じられる医学部体質を変えて、専門分野の多様性、研究室間の流動性、キャリアパスのオープン化を高めることも重要です。
こうした改革に取り組む大学に対しては財政的支援を行うべく、文科省が134億円の基金をAMEDに積み、医学系研究支援プログラムとして進めているところです。
「新しい認知症観」の確立と浸透
超高齢社会の進展に伴い、認知症対策の重要性が高まっています。最近の研究によると、アルツハイマー病では、認知症の症状が出そろう約20年前から脳に変化が生じ、アミロイドβの蓄積が始まっているとのことです。それ故に発症以前の軽度認知障害(MCI)の段階、或いはその前のプレクリニカル期の段階からの対策、すなわち従来の治療重視から予防、平素の健康へと重点を移すことが求められています。
認知症の危険因子としては主に高血圧、脳血管障害、うつ病等、逆にリスクを低減する防御因子としては運動、栄養多様性、知的活動や社会的交流等が挙げられていますが、認知症のメカニズムはまだまだ不明なことが多く、この解明を図ることが必要です。また同時に、認知症予防に向けて個人の行動変容を促すことも不可欠でして、これはまさしく普段の生活でヘルスケアを進めることに他なりません。
誰もが認知症になり得ることを前提に、自分事として捉えるという「新しい認知症観」に基づき、認知症本人の声を尊重した共生社会の設計が重要になっています。24年12月に閣議決定した認知症施策推進基本計画では、発症しても継続して社会参画するなど、個人が自分らしい生活を続けられるための基本的施策を取りまとめました。「認知症カフェ」やピアサポート、本人ミーティング等を通して、地域社会や世代間での交流促進、若年性認知症の方の就労支援などを盛り込んでおります。
増加する独居老人の問題も絡んできています。賃貸契約の保証人、財産管理、相続処分等、発症前から本人の同意を経て地域社会全体で包括的なケア体制を取っていく等、検討すべき論点は多々あり、引き続き慎重な議論が欠かせません。
医療データの利活用
次世代医療基盤法は、医療機関の保有するデータを民間事業者が収集加工して、サービス提供を行うスキームを定めるものです。24年4月に改正法が施行され、収集したデータについて、レセプトや特定健診等の情報を収載するナショナルデータベース(NDB)、介護DB(介護レセプト)、DPCDB(診療情報、請求情報)との突合が可能になりました。また、これまで個人情報保護のための「匿名加工」として、原データの一部を曖昧化、ジャンクなデータに改変してしまっていたものを、今回、元の医療データはそのままに実名を削除して利活用できる「仮名加工」も可能になりました。
さらに、今通常国会に提出された医療法等の改正案では、全国の医療機関において電子カルテ情報を共有・閲覧できるような制度が盛り込まれています。これは、感染症対策としても極めて有効な制度となります。
同医療法等の改正を機に、関連する公的データベースを全て連結して、研究開発者へのデータ提供を行う体制整備も図っています。これは医療データを二次利用するための基幹インフラになっていくものとして期待しているところです。
以上、健康医療分野で起きているさまざまなことをご紹介してまいりました。この分野は公共政策の縮図ともいえ、これら課題の解決、改革は日本の「未来への道しるべ」にもなると確信しています。
(月刊『時評』2025年7月号掲載)