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【末松広行・トップの決断】 西井 孝明氏

アカデミアとの連携は不可欠

末松 なるほど「10億人の健康寿命延伸」に向けて着実に道筋を整えているわけですね。

西井 活動を進める上で興味深いデータがあります。東京大学等、複数のアカデミアと連携した調査によると、既存の食塩摂取量に対し、日本の昔ながらのうま味で代替することによって、食塩を1・3~2・2グラム、率にして12~21%減らすことができるという推定結果が得られ、栄養サミットでも中間報告が発表されました。これをもとにG20でも同様の調査が進みつつあります。結果、グローバル規模でのエビデンスが得られれば〝おいしい減塩〟が世界でより一層浸透していくのではないかと期待されます。

末松 逆に言うと、おいしくない部分を塩味で覆う食事が世界では多い、ということですね。

西井 やはり人間である以上、おいしくなければより多くの調味料を使おうとするので、健康寿命延伸を図るにしても、まずおいしくあることが必須だと思います。

末松 お話を聞くと、治験を得るにも地域で実証を図るにしても、アカデミアとの連携は不可欠なようですね。

西井 はい、例えば弘前大学は地域住民の食生活や健康状態に関するデータを10年以上にわたって蓄積しております。20年4月より同大学と弊社による共同研究講座「デジタルニュートリション学講座」を開設し、どのような過程を経て個人が栄養不良や栄養素過剰摂取の状態に移行していくのか、ライフステージをトレースして一定のプロトタイプを定め、その状態にはまり込む前に栄養改善の諸提案をすることができないか研究しています。

 また、地域の健康改善に取り組む以上、行政の方々からの賛同や支援も欠かせません。具体的に、健康改善を呼びかけるパブリシティなどは、メーカーよりも公的機関が発する方が生活者の方々は受け止めやすい、また地域の栄養士会の方々が、食育という形で参画されることも非常に重要です。もちろん、食品は生産者の方々無くしては成り立ちませんし、またスーパーなど小売業の現場では、そうした食育提案の場を提供いただくなど、サプライチェーンに関わる人全体で、ある種のエコシステムを形成するのが大変大事なことだと思います。

末松 私は2002~06年にかけて小泉政権下の官邸に努めていたとき、「食育基本法」制定に関わったのですが、その後、農水省に戻って食料安全保障課長を務め、国産の食材をより使っていく活動〝フード・アクション・ニッポン〟などを手掛けました。その折、味の素さんに国の政策推進についてご協力をいただいたことを思い出しました。今般の件に限らず、御社には行政や地域と一緒に運動を推進していくという気風が感じられますね。

西井 そうですね、地域の栄養士会さんとの連携は、昭和30年代から既に始めていました。

学校給食における食育の海外先例

末松 海外展開においても、現地の行政機構と連携されているのでしょうか。

西井 先行事例となったのが、2012年から始めたベトナムでの学校給食に関するプロジェクトです。この時も、現地在外公館の皆さまには多大なご支援をいただきました。ホーチミンにある公立学校の一つで、衛生的な給食を作る設備を私たちが寄贈し、現場で調理する方々への教育を行い、日本型の栄養バランスの良い給食を提供できるよう推進しました。ポイントは、実際に給食を食べる前の5分間、先生が日本の教室に掲示しているような栄養図解の表を使って、多くの品目をバランスよく食べるようにしましょう、といった食育を行ったことです。私たちが寄贈したのは最初の1校だけだったのですが、これ以後、周辺地域の学校に取り組みが広がり、約4300 校もの学校が同様の給食を整えるようになりました。

 また、同プロジェクト以後、ベトナムの文部省、保健省など主要官庁がハノイの大学に講座を開設し、日本と同様に栄養士の国家資格を取得できる制度を導入してくれました。そこから毎年、管理栄養士が育って全国の学校等、関連する職業に就くというサイクルが定着しつつあります。まさに、ジャパン・ニュートリションの一つのモデルを体現できたと自負しています。

末松 他の海外プロジェクトについてもお願いします。

西井 タイ全土で採れるキャッサバ芋の10~15%を弊社が買い取りアミノ酸の原料にしているのですが、同時に農業そのものがより持続可能となるよう変容させていくことはできないか、その両立を探っているところです。安定的にアミノ酸の原料供給を可能としつつ、現地の生産農家も豊かになれる、言わばサーキュラーエコノミーを生産者と共に構築していくことを目指しています。既に現地タイでは日系企業やアカデミア、行政機関など約40の外部パートナーと連携しており、例えば天候不順による不作のときに補填する保険を損保ジャパンさんと現地で開発したり、パソナさんと一緒に農業従事者を教育する仕組みを導入するなどしています。また、予算上の関係でタイの大学ではなかなか着手できなかった土壌分析を弊社が引き受け、弊社系列の農業支援会社が分析結果に基づいたノウハウの提供などを行っています。

 このようなエコシステム作りを通じて、両国間のパイプを強くしていきたいと考えています。最近ではタイ政府もだいぶ、私たちの活動に注目するようになってきました。

末松 日本政府および日本企業は長らく東南アジアに対し、農業支援などを行ってきましたので、双方が然るべきリターンを得られ、かつ現地から感謝される成果に導ければまさに理想的ですね。

〝おいしい健康〟の訴求で社業も充実

末松 健康寿命延伸やヘルスケアなど極めて公益性の高い活動を、企業の事業運営につなげていく上での考え方はどのようなものでしょう。

西井 前述した2030年までのビジョンで掲げたように、これまでは食品のおいしさを追求して皆さまに購入いただいておりましたが、これからは〝おいしい健康〟を意識して買っていただけるよう、ビジネスの質を変えていくことを組織の求心力としています。

末松 その新しいビジネスの質が定着すれば、スケールは後から付随してくる、ということですね。

西井 はい、2030年段階で10億人の健康寿命延伸に貢献することを目指す、と申し上げましたが、実は19年の段階で既に弊社家庭用商品を買っていただいている方が世界で7億人ほどおりました。これを10億人に引き上げるには、年間およそ3000万人弱増やしていく計算になります。しかもこれまでの〝おいしさ〟の訴求だけでなく、今では〝おいしい健康〟を実現するべく、減塩や栄養バランスの必要性を、商品のパッケージにも必ず記載しています。このようにアウトプットだけでなくアウトカムにも力を入れることで、10億人に近付けていきたいと考えています。

末松 とはいえ、健康に関心の低い消費者も多いでしょうから、商品に減塩をうたうことの是非について、社内でも議論があったのでは。

西井 そうですね、健康に関する情報の浸透でしょうか、日本国内に向けてはそれほど議論を要しなかったのですが、心配されたのは東南アジアやブラジルの市場です。しかし現地調査を行ってみると、対象の7~8割が塩分の過剰摂取状況を認識しているとのことで、販売に踏み切った次第です。

末松 なるほど健康志向は既に日本だけでなく世界の共通概念になっていて、それを御社が後押しするという形ですね。

西井 加えて今般のコロナ禍により、個人単位の健康重視志向がより広がりを見せたと推定されます。

末松 例えば、前出のベトナムでの学校給食に関するプロジェクトですが、それ自体御社の社業にとってどのようなプラスとなるのでしょう。

西井 プロジェクト以前は、各学校で調理担当の方が自身の知識の範囲内で給食を作っていたのですが、それに対私たちが提供したメニューや栄養バランス の評価シートなどのソフトに基づいて調理してもらうと、その過程で必然的に弊社の製品が取り入れられていきます。それら製品を使った方がうま味が出ておいしくなる、減塩することができる、という認識が浸透するという構図です。つまり弊社製品のストリビューションを、プロジェクトを通じてベトナム全土に広げることができたのと同時に、これらの活動により、TVCMなどマスマーケティングでは到達できないブランド価値の向上につながりました。ブランド価値を高めることは将来の財務価値を上げることとイコールです。

末松 新しい市場に広く普及を図るのであればなお、質の高い良いものでなければなりませんしね。

西井そういう意味で小学生くらいの子どもが受ける食育は、長期にわたって非常に大きな影響を及ぼすと言えるでしょう。ベトナムの事例を先駆とし、今 後はインドネシアやフィリピンでも展開できないか検討しているところです。こうした活動の過程で、「東京栄養サミット2021」の円卓会議で呈されたフードセキュリティ問題についても解決の糸口につなげていければ、と思います。そして次回開催予定の「パリ栄養サミット2024」で、現在進めている各種活動の進化形を提示できれば何よりです。

末松 本日はありがとうございました。

インタビューの後で

 対談の冒頭、コロナ禍初期に産業界の多くが在宅勤務への社会的要請に追われる中、いち早くオンライン対応を図っていたことで業務停滞のリスクを低減させた西井社長の判断には驚きました。これら緊急時における平素のリスク管理はともすればコストとして敬遠されがちですが、為すべきことは先んじて実践するのが正しい判断である、と改めて証明されたと思います。

 味の素さんが取り組む栄養増進は、戦後に大きな推進活動がありましたが、それが科学的知見を伴ってこの現代に、国内だけでなくアジア他各国で展開されるのは非常に意義が高いと言えるでしょう。

 これらの活動は必ずその国、地域の人々の健康寿命延伸につながり、かつ社業が繫栄するのはまさに理想的ではないでしょうか。私もよく調理人方々と話をするのですが、これから日本食をどう海外に発信していくかというテーマについて多くの方が考えています。この命題について、素材の調理による栄養バランスの取れた食事の普及啓発や科学的エビデンスの究明など、具体的に取り組んでいるのが西井社長です。良い素材と技術に裏打ちされた料理が美味しくてかつ栄養がある、ということを世界のスタンダードになれば、世界人口の栄養増進、健康寿命延伸に寄与するという壮大な枠組みが構築されます。

 対談中、多様な取り組み内容に話が及びましたが、エネルギーを多く消費する側の食品業界で〝ネットゼロ宣言〟を打ち出した点も注目されます。こうした取り組みが否応なく求められる時代が間違いなく到来するでしょう。味の素さんの今後の活動が注目されます。                                               (月刊『時評』2022年5月号掲載)




すえまつ・ひろゆき 昭和34年5月28日生まれ、埼玉県出身。東京大学法学部卒業。58年農林水産省入省、平成21年大臣官房政策課長、22年林野庁林政部長、23年筑波大学客員教授、26年関東農政局長、神戸大学客員教授、27年農村振興局長、28年経済産業省産業技術環境局長、30年農林水産事務次官。現在、東京農業大学教授、三井住友海上火災保険株式会社顧問、等。

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