
2026/09/04
――こうした精神医療の現場は現在どのような状況でしょうか。
中込 疫学的研究に基づく時点有病率(ある一時点の当該疾患の患者数)によると、全国でうつ病をもつ患者さんは、人口対比で2・6~2・7%、単純に人数換算すると約300万人いることとなります。
それに対し、精神科医や心療内科医はおそらく2万人に足りません。すなわち1人のドクターが150人くらいの患者さんを担当する必要があることになります。現実的に、うつ病だけでそれほどの数の診療を1人でこなすのは極めて難しいと言わざるを得ません。従って今後は、予防に力を入れるべきと考えます。もちろんうつ病に罹患した患者さんには最善の治療を提供する必要はありますが、まず病気にならないような手立てを考えるのが最優先です。
――今のところ、主にどのような予防策が考えられるのでしょう。
中込 うつ病は、実は生活習慣病と関連が強く、肥満や糖尿病などにおけるうつ病の合併率は非常に高いのです。糖尿病になることで気分が憂うつになるという側面もあるのですが、それとは別に脳内の血糖コントロールに関連するコルチゾールというホルモンがストレスやうつ病と関係することが知られています。すなわち生物学的にも、両者はつながりがあると言え、うつ病の予防は生活習慣病の予防と重なる部分が多いと考えられます。
身体の健康維持とともにメンタルと密接な関係にあるのが睡眠です。NCNPではこの6月1日から、睡眠障害内科、睡眠障害小児科、睡眠障害精神科という三つの標榜科で、睡眠障害の外来診療を行うこととしました。もともと睡眠障害の診療は行っており、また精神保健研究所には睡眠・覚醒障害研究部があり、研究面でも注力してきた領域ですが、改めて標榜科をしっかり定めるとともに、新たに睡眠診療部を設けるなど、睡眠の問題に幅広く取り組む体制を整えているところです。
ウクライナからPTSD研究の視察も
――ドクターや研究者の人材確保・育成についてはいかがですか。
中込 人材育成もNCNPの大きなミッションの一つです。前述の認知行動療法のように、しっかりしたエビデンスをもとに効果が証明されつつも、日本のどこでもそれを受けられるわけではないような治療法について、普及・均霑化を図る上でも教育、研修が不可欠です。そのため年間を通じ何度も研修を重ね、少しでも多くの方に新たな治療技法を習得してもらっています。
また精神保健研究所には薬物依存研究部があり、ここでは薬物依存の治療法の研究を行っています。薬物依存に対する集団認知行動療法については保険点数が算定される治療法があります。薬物依存研究部が臨床研究で効果を証明し、診療報酬化されたSMARPPとよばれるプログラムですが、これも全国に広めるための研修を、全国の医療機関や精神保健センターに出張して行っているほか、さらに近年はアジアの国々でも研修を行い普及に努めています。
――NCNP内部はもとより、外部研修を充実させてドクターのスキルアップを図る、というイメージですね。
中込 そうですね、優秀な大学や研究機関が多々ある中で、NCNPはハブとしての役割を有し、私たちが他機関の研究を支える、あるいは医療を支えるための人材育成をすることはNCNPの非常に大切な役割です。その実現に向けて、こうした理念の重要性を理解している先生方に着任していただき、研修による普及活動を重要な業務と位置付け、それを最大限評価に反映させています。
――海外でも研修を行っているとのこと、他の連携についてはいかがでしょうか。
中込 欧米等と研究を進めている研究部も多くありますが、私たちは文化や社会的状況が近いアジアとの連携を重視しており、各国から精神保健関係者がNCNPの病院や研究所に見学に訪れたり、意見交換等を行ったりしています。一つの例としては、私たちとシンガポール、韓国の3カ国でACONAMI(Asian Consortium of National Mental Health Institutes) という枠組みを構築しています。
――この3カ国で連携した背景とは。
中込 各国ともそれぞれ精神医療に関するナショナルセンターが設置されており、政策医療研究に取り組むなど、研究組織や内容に近似性が高いこと、またいずれの国も高齢化が進むなど社会課題も共通性が見られます。ACONAMIでは過去10年にわたり年次集会を開催し、各国研究者による意見交換の場を設けてきました。
また戦時下が続くウクライナでは市民やお子さんのメンタル面での問題が深刻化していることから、昨年2回NCNPへウクライナから視察団が訪れ、精神保健研究所におけるPTSDによるトラウマ治療について視察してもらいました。各研究者が盛んに国際発信しているので、それも一つの契機として交流や連携の機会が増えていくものと思われます。
ポピュレーションアプローチによる予防を
――やはり研究に関する情報発信は、普及だけでなく交流のきっかけとしても非常に重要ですね。
中込 はい、広報はとても大事だと思っています。年に一回、ANNUAL REPORTを取りまとめて発信するほか、関連するさまざまな報道関係者を招待し、毎年、その時点でのトピックスをもとに情報提供や意見交換を行う「NCNPメディア塾」を開催しています。昨年はスマホ依存をテーマに取り上げたほか、以前は精神障害者が犯罪を起こした場合や、いわゆる〝ウェルテル現象〟と呼ばれる著名人が自殺した場合に模倣自殺が増加する傾向を鑑みた報道の在り方等についても議論しました。
また、研究成果のプレスリリースも盛んに行っていますが、その内容が非常に専門的ですので、いかに平易で分かりやすく伝えられるか、常に気を付けているところです。
――社会の変化に伴い、新たな課題が次々と生じると思われる現在ですが、理事長の個人的視点から取り組むべき対象などを挙げていただくとしたらどのようなものがあるでしょうか。
中込 現在、神経疾患の医療に関しては遺伝子治療という新しい方法が取り入れられ、これまで解明されてこなかった部分にも光が当たるようになりました。同治療により寿命が延び、身体機能も向上することが期待されます。そしてその先には、患者さん個人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)や生活満足度など、その人がいかにその人らしい生き方を享受できるか等を含めた視点が、医療にも必要になると思います。
そう考えると、治療というもののゴールは、症状の改善にとどまらず、その人全体の幸福度の向上のために寄与するものでなければなりません。それを実現するための一つの鍵は予防になると思いますが、予防は医療と同時に社会的活動でもあります。
予防に関しては、従来精神科領域ではハイリスクアプローチがよく取り上げられているように思いますが、私どもはポピュレーションアプローチが大事だと認識しています。ハイリスクアプローチは、一定の効果を示す可能性が知られていますが、疾患にかかる患者数そのものを減らすには至っていません。例えば一般市民に禁煙の意識が広がるとガンの発生予防に一定の効果を表すことが検証されています。私たちが開発した医薬品で個人の症状が改善されるのは極めて大切ですが、国民全体の疾患を減らすには、やはりポピュレーションアプローチによる予防が重要です。
従って予防に対する国民全体の理解、そして精神・神経疾患の患者さんに対する国民からの関心を高めていくという、社会とのコミュニケーションをNCNP全体で心掛けていくことが大事だと考えています。
偏見克服の第一歩は早期体験学習
――心療内科の受診が一般的となるなど、精神科の患者さんに対する社会の理解は昔に比べて進んでいるのではと思われます。
中込 確かに以前は精神科の医療機関に行きにくかった方も、だいぶ訪れやすくなった面はあるかもしれません。ただ、企業における障害者雇用で率の達成だけを目指し、実態は仕事をさせないという組織内疎外が表面化するなど、社会が正しく受容するにはまだまだ課題は少なくないと実感しています。近年では学校の教材でも精神疾患が取り上げられるようになるなど、若年期からの理解促進の動きが広がっていますが、それもまだまだ第一歩です。
実際、精神・神経だけでなく、病気そのものに対する社会の偏見を払しょくするのは容易ではありません。その偏見を軽減する一番の方法は、私はアーリーエクスポージャー(早期体験学習)だと思います。大人になってからではなく、幼少期から疾患を有する人と触れ合うことによって、偏見などは解消されていくものだと考えています。精神、神経障害をもつ患者さんを特別視しないような環境を、小学校あるいは幼稚園から整えていく、それが非常に重要です。
――NCNP内だけでなく、社会全体での取り組みが求められるところですね。
中込 はい、内部の研究者や医師にもその点、繰り返し訴求しています。
症状の改善ばかりでなく、さらに患者さん個人を取り巻く問題や状況に、医療人としてどうアクセスできるかも問われるところです。科学や医療技術の発展を追求すると同時に、患者さんの思いや立場に寄り添った視点がより一層、求められます。
――本日はありがとうございました。
(月刊『時評』2026年8月号掲載)