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【時事評論】民主主義という諸刃の剣

民主主義の「担い手責任」を忘れるな

 現行の日本国憲法は、1946年11月3日に公布された。

 翌47年5月3日に日本国憲法は施行され、5月3日は「憲法記念日」という国民の祝日になった。

 他方、11月3日は、明治天皇の誕生日であり、かつては「天長節」(昭和になってからは「明治節」)という祝日であったが、現在は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とする「文化の日」とされている。

 日本国憲法の公布が11月3日とされ、その日が「文化の日」とされることとなったのは、単なる偶然ではなく複雑な経緯がありそうだが、日本国憲法が保障する自由と平和こそが芸術や学問の発展とひいては豊かな文化の基礎となることを思えばよいのであろう。

 言うまでもなく、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を3大原理とする日本国憲法は、制定過程についてさまざまな議論はあるにせよ、巨視的に見れば、多大な犠牲をもたらした先の大戦に至る大きな過誤への反省に立つものである。

 こうした近代的・実質的な意味での民主主義憲法の先駆となったのは、第一次世界大戦後の19年にドイツで制定されたワイマール憲法である。

 帝政打倒後に制定されたワイマール憲法は、国民主権をうたい、世界に先んじて男女平等の普通選挙を規定し、人としての尊厳を持って生きる生存権を保障したもので、民主主義憲法の典型とされている。

 しかし、そうした先駆的で理想的と言われたワイマール憲法の下のドイツ=ワイマール共和国は、19年から33年までのわずか14年間で消滅する。

 それは皮肉なことに、他ならぬワイマール憲法が保障する民主主義の手続きによってナチス独裁を生み出す過程でもあった。

 このところの日本を思えば、民主主義が自己破壊的な経路をたどったワイマール共和国の歴史を鏡として現代日本の状況を見つめ直すことは、歴史に学ぶという一般論を越えて切実な意味を持つのではないだろうか。

 振り返れば、ワイマール憲法下のドイツでは、自由が謳歌され、失業保険などの社会保障が充実し、人種や性自認の多様性が許容された。

 他方で、一部ではそうした状況への嫌悪や反発も蓄積されていく。

 その様相は、現在の日本と二重写しに見える。

 経済面では、第一次世界大戦の敗戦国として膨大な賠償金を課され、さらに工業地帯であるルール地方をフランスが武力占領するといった事情の下で、ドイツはハイパー・インフレに苦悩する。

 しかし、徹底した民主主義の下で多党化した議会は、支持母体の利益を行動原理とするばかりで、適切に機能しなかった。

 経済的困難と機能不全に陥る政治。ここにもまた、今の日本と通じるものを感じないだろうか。

 そうした中で、首相となったシュトレーゼマンは、「大連合内閣」を組織し、経済政策に関する権限を集中させる「全権委任法」を制定、土地収益を担保として信用を基礎付けたレンテンマルクを発行してインフレを終息させる(「レンテンマルクの奇跡」)。

 しかし、1929年、奇しくもシュトレーゼマンの死の直後、ドイツは世界恐慌の波に飲み込まれて、ナチス独裁への道を進むこととなった。

 その際、ワイマール憲法にあった「緊急事態条項」が独裁の足掛かりとなり、さらにシュトレーゼマンが先鞭をつけた経済政策に関する「全権委任法」をモデルとしつつも適用範囲に制約のない新たな「全権委任法」を議会が可決したことがヒトラーの独裁の基礎となった。

 危機の時代、人々は旧来のシステムを批判し、強いリーダーシップを求める。

 しかし、強いリーダーが必要とされる緊急事態であることは、民主主義においても「例外的」に人々の自由その他の権利を制限する根拠とされる。ある時は為政者の善意により、ある時は為政者の野心により、人々は自由を奪われる。それが歴史の教えるところだ。

 自由を「奪われる」といったが、人々が民主主義のルールの下で行った自らの意思決定によって自由は制約されるに至ったのであり、実際、歴史的事実としていえば、世界の民主主義のトップランナーであったワイマール憲法下のドイツでヒトラー独裁は誕生したのである。

 民主主義は、人々に自由をもたらし、そして自由を奪う諸刃の剣として存在してきた。

 民主主義は、言うまでもなくそれ自体として価値を有する。

 しかし、その運用は容易ではない。一つ間違えれば、国家の破綻と人々の不幸をもたらす。

 政治家のみならず、私たち一人ひとりが民主主義の担い手としての重い責任を負っていることを忘れてはならない。それは、未来への責任でもある。

                                                (月刊『時評』2025年11月号掲載)