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【時事評論】環境変化へのアプローチ

日本に求められるトランジスタシス

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 生きているものは、外界の環境変化によって死滅することがないように、生体内の状態を一定に保とうとする。

 ホメオスターシスである。

 私たち人間も、例えば、暑ければ汗をかいて体温を下げようとするなど、さまざまな状況変化に対するフィードバックによって体温や血圧を一定範囲に保とうとする。

 しかし、急激な環境変化に対しては、そうしたフィードバックによって元の状態を維持することができないことがある。

 そうした場合には、生体は体内環境自体を変化させることで、動的に適応しようとする。

 アロスタシスと呼ばれるメカニズムだ。

 これは、例えば、外部から攻撃を受けた際に血圧を急激に上昇させて反撃を準備するといったフィードフォワードによる適応だ。

 この場合には、一時的に恒常性は失われるが、結果として(急激な環境変化が収まった後には)、元の状態に戻ることが期待されており、アロスタシスはホメオスターシスを補完するものと位置付けられる。

 それでは、外界の環境変化が急激であり、かつ一時的ではなく恒久的なものであればどうなるか。

 ホメオスターシスは維持できない一方、アロスタシスは、あくまで一時的な緊急避難的措置でしかなく、その状態が継続すると大きなストレス(アロスタティック・ロード)となる。

 そのストレス過多の状態が続けば、実際の生体においてはまさに「生きるか、死ぬか」という事態となる。

 こうした場合、外界の恒久的な環境変化に合わせる形で自らの生体システムを変化させることで生存しようとするアプローチが残される。

 トランジスタシスだ。

 環境変化に対して安定性を維持しようとするホメオスターシスとは対照的に、自身を変化・適応させていく変容性を意味する。

 以上のように、生体の外界の環境変化に対する対処としては、ホメオスターシス、アロスタシス、トランジスタシスという三つのアプローチが存在する。

 これら三つのアプローチは、生体の環境変化への対応のみならず、個人、企業、社会、そして国家が外界の環境変化にどのように対応するかという場合の選択肢でもある。

 いま、多くの論者が日本の個人、企業、社会、そして国家を取り巻く環境の大きな変化を指摘している。

 そうした中で、従来の安定を守ろうとするホメオスターシス的対応、緊急避難的な対応でその場をしのごうとするアロスタシス的対応が多く見られてきた。

 しかし、現下の環境変化は一時的なものであるはずがあるだろうか。

 そうした希望的観測にすがって「激変緩和措置」を続けていれば、いつかは「古き良き時代」に戻るはずだ、と信じてよいのだろうか。

 もちろん、極めて長い期間を眺めれば、「日の下に新しきものなし」(旧約聖書)ということでもあろうが、今を現実に生きている人間からすれば「長期的にはわれわれはみな死んでいる」(ケインズ)ということではないか。

 そうであるならば、今、大きな構造的とも言うべき環境変化に直面している日本が取るべきアプローチは、トランジスタシス的対応ではないか。

 かつて、この国は、そうしたトランジスタシスを何度か経験してきた。

 先の大戦後に、大きな体制転換を成し遂げて、戦後復興から高度経済成長を実現したのは、その一例である。

 また、幕藩体制から近代的な中央集権国家へと自己変容を遂げた明治維新もまた、トランジスタシスであったと言ってよい。

 奇しくも、近代における2回のトランジスタシスの間にはおよそ80年の経過があるが、そこからさらにおよそ80年を経た今、近代3度目のトランジスタシスのタイミングに私たちは居合わせているのではないだろうか。

 もちろん、生体にしろ、国家・社会にしろ、ホメオスターシスこそが基本であり、保守的であることはまっとうな防衛本能である。

 トランジスタシスによる自己変容は、例えば明治維新が「死の跳躍」(ベルツ)であったように、生半可なことで行うべきことではない。

 しかし、当たり前だが、生半可なことで行うべきではないということは、だから何もしないでよいということではない。

 日本の国家・社会は、すでに多大なアロスタティック・ロードを背負って、軋んでいるように見える。

 すでに、ホメオスターシス的対応で明るい未来が開けると信じることはできず、このままでは国家・社会全体がいわば鬱状態に陥るのではないか。

 外界の環境変化をしっかりと分析し、自らの現状を見据え、どのような将来に向けて自己変容を遂げようとするのかという構想を提示して国民に問い掛け、コンセンサスを形成して、覚悟をもって跳躍する。

 それこそが、今、この国に求められる変化へのトランジスタシス的な対応アプローチである。
                                          (月刊『時評』2026年5月号掲載)