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【時事評論】ニーバーの祈り

変革期だからこそ必要な賢さ

pixabay
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 米国の神学者ラインホルド・ニーバー(1892年~1971年)は、1943年の夏、マサチューセッツ州の小さな教会で説教を行い、その際に、後に「ニーバーの祈り」と呼ばれる祈りを捧げた。

 神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
 変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

 いま、日本を取り巻く環境は大きく変化しており、多くの人たちが正当に指摘しているように、自己変革を怠れば衰退していく他はない時代を迎えている。

 国際情勢は、軍事的行動や経済的威圧といった「力」にものを言わせるリアリズムが前面に出て、政治的な構図が転換しつつある。

 そうした政治的構図の転換と表裏一体をなして、経済面でも構造的変化が進み、米中のプレゼンスが突出していく。

 そこでは、先進国も発展途上国も(もちろん日本も)、米中以外の国々がミドルパワー化する一方、長らく続いてきた米国の一極優位性が崩れ、国際金融におけるドル基軸も揺らぎ始めているように見える。

 このように大きく不可逆的と思われる環境変化に適応するためには、小手先で状況を糊塗する対応を重ねることは限界があるのみならず、むしろ大きな弊害がある。

 構造的変化の時代に、大胆な自己改革を怠れば衰亡するしかないという危機感を持つべきことは当然だ。

 こうした状況にあって、大胆な改革が必要だという認識の下、高市総理大臣が言うところの「国論を二分する」改革も、先般の衆議院選挙における自民党大勝を受けて進められてきている。

 具体的には、高市総理大臣が記者会見において「国論を二分する」としてあげた、①責任ある積極財政、②安全保障政策の抜本的強化、③インテリジェンス(情報活動)機能の強化、といった政策である。

 さらに、高市総理大臣は、憲法改正についても4月12日に行われた第93回自由民主党大会において、「日本人の手による自主的な憲法改正は党是だ。時は来た」と力を込めて述べた。

 改めて強調しておきたいが、改革を進めなければ衰亡するほかはない時代にあって、改革を志向する姿勢は当然あってしかるべきものだ。

 ニーバーは「変えるべきものを変える勇気」を神に願ったが、それは人間が現状維持的な正常バイアスにとらわれがちな存在であって、本能的に変化を嫌う保守的性質を持つという現実が、大きな改革をなすべきときになすことができない根本的理由となることを知っていたからであろう。

 いま、私たちは、しっかりと自覚的に、そして知性的に、「変えるべきものを変える勇気」を持たなければならない。

 しかし「変えるべきものを変える勇気」を持つ前に、「変えるべきものは何かをしっかりと見定める賢明さ」がなければ、改革は混乱しかもたらさない。

 だからこそ、変えるべきものを変えるために、私たちは「ニーバーの祈り」を想起し、その深い含蓄を改めて念頭に置くことが必要だ。

 すなわち、ニーバーが神に願った「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」「変えることのできないものを静穏に受け入れる力」を私たちは備えなければならない。

 勇ましい「改革」の名の下に、取り返しのつかない「破壊」が行われた歴史は、残念ながら、世界中に見られる。

 そうした悲劇は、愚かな独裁者の下でのみ起こることではない。

 むしろ、オルテガが『大衆の反逆』で喝破したように、自分を鍛えることなく自己充足して、文明の恩恵や権利を当然視し、その条件や限界には無自覚なまま、自分の判断をそのまま社会の基準として押し広げようとする「大衆」が、「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」や「変えることのできないものを静穏に受け入れる力」を持ち合わせなかったことが、悲劇的な、そして時として喜劇的な歴史を紡いできたのではなかったか。

 オルテガは、「大衆」に「貴族」を対置させたために、エリート主義・貴族主義として批判を受けることがあるが、彼のいう貴族とは「共同生活への意志」をもつ者であり、その条件は身分でも資産でも教養でも特権でもない。

 彼は、すべての人が「貴族」になり、公共性に配慮して奉仕の生活を生きることを「文明」の理想とした。それは、理想的な「市民」の姿でもあろう。

 いま、大きな歴史的変革期にある私たちは、みなが、そうしたオルテガのいう意味での「貴族」として、ニーバーの祈りを自らのものとすべきである。
                                               (月刊『時評』2026年6月号掲載)