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【時事評論】「君子は豹変す」

「ぶれない」は必ずしも正義ではない

pixabay
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「君子は豹変す」という。

 古代中国の五経の一つである「易経」を出所とする格言であるが、近時では原義を離れて「要領のよい人は、今までの主義・主張や態度をすぐ変えてしまう」という否定的な意味合いで使われることも少なくない。

 その背景には、昨今では、「豹変」とは逆に「ぶれない」ことが肯定されるべき価値あるいは正義であると多くの人々が受け止めていることがある。

 自分の信念を貫き、周囲の意見に流されないこと=「ぶれない」ことは、確かに格好よい。

 その一途で清々しいまでの格好よさ故に、小説、マンガ、映画などでも、そうした「ぶれない」主人公が描かれることも多い。

 このように「ぶれない」ことが人々に好感される状況にあって、現実の政策・政治の世界でも「やり抜く」「初志貫徹」などの言葉が人々に向けてアピールされる。

 言葉だけではなく、いったん口にしたからにはと、「有言実行」が唯一の正義とされて、それが推し進められていくことも少なくない。

 しかし、「君子は豹変す」という格言の本来の意味は「優れた人間は、変化に応じて自己を改め、また過ちがあれば直ちに改め、速やかによい方向に向かう」ということだ。

 あるいは、因果関係は逆であって「変化に応じて自己を改め、また過ちがあれば直ちに改め、速やかによい方向に向かうことができる人間が、君子=優れた人間だ」というべきかもしれない。

 もちろん、いったん意思決定を行った後は、右顧左眄することなく一貫して実行していくことも、特に行政のような場合には重要だ。言うまでもなく、予測可能性が低い朝令暮改の政策状況は、人々の不幸の元である。

 しかし、実行段階に先んじるべき意思決定のプロセスにおいて「ぶれない」とは、時として、頑迷固陋のことを言うのであって、それはけっしてほめられることではないはずだ。

 人間社会における複雑なひだに思いをいたしつつ長い歴史の中で培われた人類の現実的な知恵こそが「君子は豹変す」なのではないか。

 そして、そうした歴史的な積み重ねの中で「時間のテスト」を受けてきた現実的な知恵を尊重することが、よい意味での「保守」であることは論をまたない。

 「保守」とは、ドグマティックなイデオロギーでなく、そうしたプラグマティックな積み重ねを尊重する姿勢なのである。いま、日本は数十年の長きにわたって時間を失い、経済的にも社会的にも停滞と衰
退の中にある。

 こうした厳しい状況にあって、民主主義のプロセスにおいては、高市総理大臣の下で自民党が衆議院選挙に大勝して日本維新の会との連立政権を構成し、選挙において議論された「2年間は食料品を消費税の課税対象としない」「現役世代の社会保障保険料の引き下げ」「給付付き税額控除」などなどの政策が実現に向けて検討されている。

 しかし、いずれも基本的には財政負担を拡大させる方向での政策だと理解されているが故に、民主主義とは異なる経済の原理で動く市場では、長期金利の上昇(国債価格の下落)や通貨・円の減価傾向という形で、明確に現下の政策動向に警告が発せられている。

 そうした環境変化を等閑視して進めば、その行き着く先は、間違いなく人々を苦しめる相当のインフレであろうことを、基礎的な経済学も歴史も共通して教えている。

 いま、高市総理は安倍政権の後継を自認し、アベノミクスを意識しているように見えるが、当時とは明らかにマクロ経済環境が変化している。

 こうした変化に応じて「君子は豹変す」を実行することが、いま求められているのではないか。

 政府・日銀は、過去の自らの主張に拘泥することなく、市場が発する警告を真摯に受け止め、財政規律を確立し、また金融正常化(政策金利の引き上げ)を急ぐべきだ。

 もちろん、それで「ぶれた」「言行不一致」などという批判も一部では出るであろうが、良識ある人々は、きちんとした環境変化に関する説明を受ければ、理解・納得する成熟した民度を持ち合わせている。

 国民を信じて、人類が歴史の中で積み重ねてきた現実的な知恵を「保守」の立場から再確認し、豹変することが必要なときではないか。

 なお「易経」では、「君子は豹変す」に続けて「小人(しょうじん)は面(めん)を革(あらた)む」とある。

 君子ならざる小人=つまらぬ人間は、表面上は変えたように見えても、本質的な内容は全然変えない、というのである。

 いにしえの現実的な警句として、為政者たる者は心すべきだ。
                                               (月刊『時評』2026年7月号掲載)